織田信雄(おだのぶかつ)は、織田信長の次男として生まれ、本能寺の変後には羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との協力と対立を経験した戦国大名です。
清須会議では織田家の新当主・三法師の名代候補で、賤ヶ岳の戦いでは秀吉と協力して弟・織田信孝や柴田勝家と抗戦。
しかしその後は秀吉の台頭に危機感を抱き、徳川家康と同盟を結んで小牧長久手の戦いでは秀吉に対抗しました。
この記事では、織田信雄とはどのような人物だったのか、清須会議や羽柴秀吉との関係、小牧長久手の戦いで果たした役割について、史実をもとにわかりやすく解説します。
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結論|織田信雄とは?
織田信雄とは、織田信長の次男であり、本能寺の変後には織田家の中心人物として羽柴秀吉と協力・対立を繰り返した戦国大名です。
織田信雄の生涯を簡単にまとめると次のようになります。
| 年月日 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1558(弘治4)年 | 織田信長の次男として誕生 |
| 1582(天正10)年6月2日 | 本能寺の変で父・織田信長が死去 |
| 1582(天正10)年6月27日 | 清須会議で三法師の名代候補となる |
| 1582(天正10)年10月28日 | 賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉と協力し、織田信孝・柴田勝家と対抗 |
| 1584(天正12)年3月 | 小牧長久手の戦いで徳川家康と同盟し、羽柴秀吉に対抗 |
織田信雄は、信長亡き後の織田家と豊臣政権成立の過程を理解する上で欠かせない人物です。
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織田信雄と織田信長の関係
織田信雄は織田信長の次男として誕生。母親は長男で兄の織田信忠と同じで、血筋的には非常に恵まれていました。
しかし相次ぐ失策により、織田家の家臣たちからの人望は、兄の長男・織田信忠や、弟の三男・織田信孝と比べてあまりなかったと考えられています。
→ 織田信忠とは?織田信長の長男
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織田信長の次男として誕生
織田信雄は1558(弘治4)年、織田信長の次男として誕生。
兄・織田信忠と同じ母を持つ嫡流の血筋であり、成長後は主に伊勢国や伊賀方面の統治を任されます。
信長は天下統一を進める中で、各地の統治を息子たちに分担させており、信雄は伊勢北部や伊賀の統治を任されていました。
信長の許可を得なかった戦において大事な家臣たちを戦死させる
しかし、その一方で信雄は父・信長から厳しく叱責されることがたびたびあったようです。
「信長公記」の1579(天正7)年9月21日の記述には、信長が信雄に対し「親子の縁を切るかもしれない」と怒気を含んだ書状を送っていたことを明らかにしています。
当然のことだが、三郎左衛門その他を討ち死にさせてしまったのは言語道断、けしからぬことである。本当にそのような考えでいるのならば、親子の縁を切るようなことにもなると思うがよい。
太田 牛一; 中川 太古. 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) (p. 303). (Function). Kindle Edition.
実は信雄は信長に相談することなく伊賀に出兵(天正伊賀の乱)。その戦で三郎左衛門(柘植三郎左衛門保重のこと)ら大事な家臣たちを戦死させていました。
そのため信長は信雄に対して責任を問う書状を送っていたのです。
本能寺の変ののち誤って安土城を放火
さらに1582(天正10)年6月2日、本能寺の変が発生した当時、織田信雄は伊勢に在国していました。
しかし、豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学名誉教授の故・桑田忠親氏の著作である「豊臣秀吉研究 上」によると、本能寺の変での一大事を知った信雄は、かなり狼狽していたと説明しています。
信雄は信長の妻子たちを守るために安土城に向けて出兵したものの、途中で土一揆に妨害され、安土に到着したのは山崎の戦いが終わったのちのことでした。
しかも信雄は、山崎の戦いで秀吉が勝利し、光秀が敗走していたという重要な情報を把握していなかったようです。
そのため信雄は安土城を光秀に占拠されることを恐れ、城に火を放ってしまったと、桑田名誉教授は説明しています。
織田信雄と羽柴秀吉の関係
織田信雄が政治的に羽柴秀吉に接近するようになったのは、織田家の後継体制を決める清須会議のころからです。
両者は当初こそ利害が一致していましたが、織田家の中で政敵が少なるにつれ、対立が先鋭化。
1584(天正12)年3月に起きた小牧長久手の戦いで軍事衝突をするという事態に陥りました。
→ 清須会議とは?何が決められたのか
→ 小牧長久手の戦はなぜ起きたのか?
清須会議では三法師の名代に選ばれなかった織田信雄
1582(天正10)年6月27日、本能寺の変により死去した信長の後継体制を決める清須会議において、当主・三法師を4人の重臣たち(羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興)が直接補佐するという「集団指導体制」が決定されます。
織田信雄は清須会議が行われる前は、弟・織田信孝と同じく、三法師の名代(後見人)候補の1人と見られていましたが、結局名代に選ばれることはありませんでした。
→ 清須会議とは?何が決められたのか
→ 三法師とは?織田信長の嫡孫
→ 織田信孝とは?織田信長の三男
→ 柴田勝家とは?織田家の重臣
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→ 池田恒興とは?織田家の重臣
秀吉の政治クーデターにより三法師の名代に
織田信雄は、清須会議での決定により織田家の中で政治勢力を失ったかに見えます。
しかし、織田家の重臣・羽柴秀吉が織田信孝と柴田勝家の台頭を危惧し、1582(天正10)年10月28日に政治的クーデターを決行。
しかし秀吉は同僚の丹羽長秀・池田恒興と図、「集団指導体制」を反故にし、代わりに織田信雄を三法師の名代に指名。
つまり織田信雄は、三法師が元服するまでの間、暫定的に織田家の当主となることが決まったのです。
賤ヶ岳の戦いでは秀吉とともに「勝家・信孝」陣営に対抗
まもなくこの政治クーデターを巡って「羽柴秀吉・織田信雄」と「柴田勝家・織田信孝」の対立が先鋭化。両者の政治的な対立は軍事衝突に発展します。
この軍事衝突の代表的な戦いが1583(天正11)年4月に近江と越前の国境付近で起きた賤ヶ岳の戦いです。
羽柴秀吉は柴田勝家に対抗するために北近江に軍勢を展開していましたが、織田信雄は「柴田勝家・織田信孝」の陣営に味方した滝川一益に対抗するため、伊勢で軍勢を展開していました。
賤ヶ岳の戦い後に信雄と秀吉はすぐに対立
賤ヶ岳の戦いは、「勝家・信孝」陣営についていた前田利家らの裏切りもあり、羽柴秀吉は柴田勝家と織田信孝らの殲滅に成功。
「勝家・信孝」陣営の領地や城は「秀吉・信雄」に再配分されるなど、織田家の統治は「(名代)信雄-(宿老)秀吉」のラインで収まったかに見えました。
しかし信雄と秀吉による統治はすぐに分裂することになります。
→ 前田利家はなぜ柴田勝家を裏切ったのか
→ 賤ヶ岳の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説
→ 織田信孝とは?織田信長の三男
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織田家の統治を巡って信雄と秀吉が対立
賤ヶ岳の戦いののち、織田信雄は「勝家・信孝」陣営についた滝川一益が領有していた伊賀と北伊勢5郡を手にする一方で、そのほかの多くは羽柴秀吉の独断で再配分されました。
さらに信雄と秀吉の対立を決定的にしたことが、統治のあり方です。
信雄は従来の尾張に加え、論功行賞で新しく得た北伊勢5郡と伊賀の領国統治を優先。
一方、宿老の秀吉は織田家の政庁である安土城を廃城し、城主である三法師を近江坂本城に移動させ、天下の政庁たる大坂城を築城。
1584年1月20日付のルイス・フロイスの書翰によると、秀吉は天下の政務を執る姿勢を見せ始めたとあります。
このころの秀吉は、信雄の頭を飛び越えて、北条家と佐竹義重らの抗争をはじめとし「関東惣無事(関東情勢の鎮静化)」にも介入し始めました。
信雄と秀吉は手切れ 小牧長久手の戦いの始まり
「名代」として織田家の実質的な当主である織田信雄にとって、自分の頭越しに天下の政務を執り始める「宿老・羽柴秀吉」の存在が面白いはずがありません。
両者の仲は次第に険悪なものとなり、「家忠日記」の1583(天正11)11月20日のくだりには「信雄が畿内で切腹をした」という記述が登場するなど、不穏な噂が世間に出回る始末でした。
しかし1584(天正12)年の初頭までは、両者の対立は表面化することはなかったようです。
これは織田信雄の3人の家老である、
・津川雄光(つがわかつみつ)
・岡田重孝(おかだしげたか)
・浅井長時(あざいながとき)
の3人が秀吉との取次(外交のこと)を担当し、両者の関係が維持できるように周旋をしていたからです。
ところが、織田信雄は、東海3ヶ国(三河・遠江・駿河)に加え、甲斐・信濃も領国とする徳川家康を味方につけた上で、 1584(天正12)年3月6日にこれら三家老を殺害。
信雄は外交担当者を排除することで秀吉との手切れを示す一方で、同年3月9日に三河から尾張に進軍していた徳川家康が清須城に入城。
こうして織田信雄・徳川家康の連合軍が形成され、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の抗争である、小牧長久手の戦いが始まることになりました。
→ 小牧長久手の戦はなぜ起きたのか?
→ 小牧長久手の戦はなぜ和睦したのか?
FAQ|織田信雄とは?
Q. 織田信雄とはどのような人物ですか?
A. 織田信雄は織田信長の次男として生まれ、本能寺の変後には織田家の中心人物として活動した戦国大名です。
清須会議では三法師(のちの織田秀信)の名代候補となり、その後は羽柴秀吉と協力して織田家を主導しました。しかし後に秀吉と対立し、小牧長久手の戦いでは徳川家康と同盟を結んで戦いました。
Q. 織田信雄は清須会議でどのような立場だったのですか?
A. 織田信雄は、幼い当主・三法師の名代(後見人)候補の一人でした。
しかし弟・織田信孝との調整がまとまらず、最終的には三法師を柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が直接補佐する体制が採用されました。
Q. 織田信雄と羽柴秀吉はなぜ対立したのですか?
A. 当初は織田信孝・柴田勝家に対抗するため協力関係にありました。
しかし賤ヶ岳の戦い後、秀吉が論功行賞や大坂城築城などを独断で進め、織田家の実権を握ろうとしたことで、両者の対立が決定的となりました。
Q. 小牧長久手の戦いで織田信雄はどのような役割を果たしましたか?
A. 織田信雄は徳川家康と同盟を結び、羽柴秀吉に対抗する中心人物となりました。
外交を担当していた3人の家老を処断して秀吉との決別を明確にし、その後は家康を尾張へ迎え入れて連合軍を形成。小牧長久手の戦いの名目上の当事者として行動しました。
Q. 織田信雄のその後はどうなったのですか?
A. 小牧長久手の戦いののち羽柴秀吉と和睦し、一時は豊臣政権の有力大名となりました。
その後は改易などの苦難も経験しますが、江戸時代まで生き延びた数少ない織田一族の有力者として知られています。詳しくは「織田信雄の最後」で解説しています。
→ 織田信雄の最後とは?秀吉との和睦や晩年・死因を解説
Q. 織田信雄は豊臣秀吉と最初から敵だったのですか?
A. いいえ。
本能寺の変後は秀吉と協力して柴田勝家・織田信孝に対抗していました。
しかし賤ヶ岳の戦い後、秀吉が織田家の実権を握ろうとしたことで両者は対立し、小牧長久手の戦いへ発展しました。
織田信雄に関連する主な人物
織田信雄: 信長の次男
織田信雄は織田信長の次男として誕生。
信長の一門衆の1人として主に北伊勢や伊賀の統治を任されていました。
→ 織田信雄の最後
→ 豊臣兄弟! 織田信雄(山脇辰哉)とは?
織田信長: 信雄の父
織田信長は織田信雄の父です。
存命中の信長は信雄についてあまり期待していなかったようです。
→ 織田信長の最期
織田信忠: 信雄の兄
織田信忠は信雄の兄です。
本能寺の変で信忠も亡くなってしまったため、信雄にも織田家の後継者争いに参加するチャンスが回ってきました。
→ 織田信忠の最期
織田信孝: 信雄の弟で政治的ライバル
織田信孝は信雄の弟です。清須会議では信雄とともに、当主・三法師の名代候補に推挙されます。
三法師: 信雄の甥
三法師は信忠の嫡男で信雄の甥に当たります。
清須会議では当初、織田信雄と織田信孝のどちらが三法師の名代を務めるかが議論されました。
池田恒興
池田恒興は清須会議に参加した織田家の重臣の1人です。
小牧長久手の戦いにおいては羽柴秀吉に加勢したため、織田信雄とは対立することになります。
織田信雄に関連する歴史的事件
清須会議
信長亡き後の織田家の運営体制を決定した会議です。
賤ヶ岳の戦い
織田家の主導権を巡って重臣の羽柴秀吉と柴田勝家が激しく争った戦いです。
小牧長久手の戦い
織田信雄・家康連合軍が羽柴秀吉が、伊賀・伊勢・尾張の各地で戦った合戦です。
のちに織田信雄は羽柴秀吉と和睦することになります。
→ 小牧長久手の戦いはなぜ起きたのか?
→ 小牧長久手の戦いはなぜ和睦したのか?
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から第1話までのあらすじや、各週の流れについては下記の記事をご覧ください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
本能寺の変や山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、豊臣政権成立までの流れについては、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 柴裕之(編著)豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 黒田基樹 羽柴秀長と藤堂高虎 NHK出版新書
- 黒田基樹. 羽柴秀長の生涯 (平凡社新書 1088)
- 黒田基樹 秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治 講談社現代新書
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
