大河ドラマ「豊臣兄弟!」の32話「賤ヶ岳の決闘」から33話「市の最期」にかけて描かれる賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)とは、「清須会議」後の織田家の主導権を巡って羽柴秀吉と柴田勝家が激突した合戦です。
賤ヶ岳の戦いでは、最終的に羽柴秀吉が柴田勝家に勝利し、勝家とその妻・お市は北庄城で自害に追い込まれました。
▼ 要点まとめ
- 羽柴秀吉と柴田勝家が激突
- 主戦場は近江国賤ヶ岳周辺(現在の滋賀県長浜市)
- 秀吉の美濃大返しが戦局を逆転
- 賤ヶ岳の戦いは1583(天正11)年4月20日から21日にかけて発生
- 前田利家の裏切り行為が勝敗を左右
- 勝家は北庄城で自害
- 秀吉が織田家最大の実力者になる
→ 柴田勝家の最期
→ お市の最期
→ 清須会議の体制はなぜ崩壊したのか?
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結論|賤ヶ岳の戦いとは?
賤ヶ岳の戦いとは、1583(天正11)年4月20日から21日にかけて近江国の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)周辺で行われた羽柴秀吉と柴田勝家の一大決戦です。
この戦いに勝利した秀吉は織田家最大の実力者となり、のちの豊臣政権が成立する道筋をつけることになります。
一方、賤ヶ岳の戦いで大敗した柴田勝家は、妻・お市とともに北庄城で自害することになりました。
→ 柴田勝家の最期
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豊臣兄弟!での賤ヶ岳の戦い
「豊臣兄弟!」における賤ヶ岳の戦いは、32話「賤ヶ岳の決闘」と33話「市の最期」において、ドラマ内の重要な戦いとして扱われます。
32話「賤ヶ岳の決闘」
32話「賤ヶ岳の決闘」では清須会議で決められた織田家の運営体制が崩壊したのち、主に羽柴秀吉(池松壮亮)と柴田勝家(山口馬木也)の軍事衝突する様子が描かれます。
勝家方は少しずつ時期をずらして伊勢の滝川一益(猪塚健太)、越前の柴田勝家、美濃の織田信孝(結木滉星)と順に挙兵。
各地の戦線に対応する羽柴秀吉と小一郎(仲野太賀)の兄弟ですが、秀吉は美濃から主戦場である近江の賤ヶ岳に思いもかけないほどの行軍速度で賤ヶ岳の戦線に復帰します。
その後、秀吉は自陣に奥深く入り込んでいた佐久間盛政を押し返すことに成功。
盛政の退却をきっかけに前田利家(大東駿介)が裏切り、柴田勢は全軍が崩壊していきます。
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33話「市の最期」
賤ヶ岳の戦いで大敗した柴田勝家は越前の北庄城まで全面撤退。一方、秀吉は勝家を追撃し、城の攻囲を完了させます。
すでに覚悟を決めていた勝家は、茶々(井上和)・初・江の三姉妹を城から脱出させたのち、自身は妻のお市(宮崎あおい)とともに自害。
柴田勝家とその一族が殲滅されたのち、勝家と共謀した織田信孝も自害に追い込まれ、秀吉は織田家における実質的なNo.1の実力者となります。
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賤ヶ岳の戦いをわかりやすく説明すると
本能寺の変から賤ヶ岳の戦いまでの流れを年表形式で簡単に整理すると次のようになります。
| 年月日 | 出来事 | 説明 |
|---|---|---|
| 1582(天正10)年6月2日 | 本能寺の変 | 織田信長が明智光秀によって自害に追い込まれる |
| 1582(天正10)年 6月13日 | 山崎の戦い | 羽柴秀吉が明智光秀を討伐 |
| 1582(天正10)年 6月27日 | 清須会議 | 織田家の当主は三法師に。運営は4人の重臣による集団指導体制に |
| 1582(天正10)年 10月28日 | 清須会議体制の崩壊 | 羽柴秀吉がクーデターを起こし、織田家の当主を三法師から織田信雄に |
| 1582(天正10)年 12月下旬 | 羽柴秀吉が柴田領の長浜城を攻撃 | 柴田方の柴田勝豊が降伏 |
| 1583(天正11)年 正月 | 滝川一益が伊勢で挙兵 | 一益は信孝・勝家に加勢 |
| 1583(天正11)年 2月28日 | 柴田勝家が越前で挙兵 | 勝家は近江の柳ヶ瀬まで南下し、秀吉は木之本に本陣を構える |
| 1583(天正11)年 4月上旬 | 織田信孝が美濃で挙兵 | 岐阜城で籠城戦を開始 |
| 1583(天正11)年 4月20日〜21日 | 賤ヶ岳の戦い | 羽柴秀吉と佐久間盛政が近江北部にある余呉湖付近の賤ヶ岳で交戦 |
| 1583(天正11)年 4月22日 | 前田利家が柴田勝家を裏切る | 羽柴秀吉が越前府中城まで進軍 |
| 1583(天正11)年 4月24日 | 柴田勝家・お市夫妻が北庄城で自害 | 羽柴秀吉の勝利 |
賤ヶ岳の戦いの場所
賤ヶ岳の戦いの主戦場
賤ヶ岳の戦いの主戦場は、近江国伊香郡の賤ヶ岳周辺です。
賤ヶ岳を現在の地名で説明すると滋賀県長浜市木之本町に当たり、地形で説明すると琵琶湖の北東に位置する余呉湖の南側に位置します。
賤ヶ岳において羽柴秀吉が率いる軍勢が、柴田勝家の甥・佐久間盛政の軍勢を猛追し、両軍が交戦するに至りました。
賤ヶ岳の戦いにおけるそのほかの戦場
1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた賤ヶ岳の戦いの直前まで、羽柴・柴田の両軍は、近江国の北部を通る北国街道沿いにそれぞれ部隊を展開。
羽柴秀吉は近江北部の木之本を、柴田勝家は柳ヶ瀬にある内中尾城を本陣としていました。
ちなみに秀吉の弟・羽柴小一郎長秀は、秀吉の本陣のすぐ北に位置する田上山(たがみやま)砦に陣を構えていました。
賤ヶ岳の戦いに至る経緯(織田家内部の政治状況)
発端は清須会議
賤ヶ岳の戦いの直接的な原因は「清須会議」後の権力争いです。
「清須会議」で話し合いが行われた結果、織田家は、当主・三法師を4人の重臣である柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興らが直接補佐するという「集団指導体制」によって運営されることになりました。
→ 三法師とは?清須会議で選ばれた織田家の新しい当主
→ 丹羽長秀とは?どんな人物だったのか?
→ 池田恒興とは?どんな人物だったのか?(準備中)
羽柴秀吉と織田信孝の争いで柴田勝家は信孝に味方
しかし、この決定に対して織田信長の三男・織田信孝が反発。
信孝は当主・三法師の名代(後見人)でもないにも関わらず、三法師を居城の岐阜城で預かるなど、まるで名代であるかの如く振る舞い始めます。
一方、秀吉は信孝のこうした政治的行動を止めるよう牽制。山崎城の築城を急いだり、羽柴秀勝を喪主とする信長の葬儀を単独で強行するなど、信孝への対抗心を隠そうともしません。
両者の争いを越前の北庄城から見ていた柴田勝家は、次第に信孝に同調するようになります。
→ 織田信孝とは?なぜ三法師の名代に選ばれなかったのか?
→ 羽柴秀勝(於次丸)とは? 信長の五男で秀吉の養子(養嗣子)
秀吉の政治的クーデターから軍事衝突に発展
織田家の中で「秀吉VS信孝・勝家」という対立構造が浮き彫りになる中、両陣営が完全に断交する出来事が発生します。
1582(天正10)10月28日、羽柴秀吉は他の織田家重臣である丹羽長秀・池田恒興らと図って、当主・三法師という織田家の体制を、信長の次男・織田信雄を中心にするという体制に移行。
こうした決定に織田信孝と柴田勝家は全く関わっていなかったため、織田家の勢力は「信雄・秀吉VS信孝・勝家」という形で完全に二分されることに。
もはや両者の関係は話し合いで解決することは不可能となり、軍事的手段を行使する以外に解決する方法がなくなってしまいました。
賤ヶ岳の戦いが始まるまでの戦局
織田信孝・柴田勝家の戦略は「秀吉包囲網」の構築
軍事衝突が不可避となった柴田勝家が羽柴秀吉を滅ぼすために採った戦略とは、畿内の周辺諸国で「秀吉包囲網」を作ることでした。
北伊勢の滝川一益、越前の柴田勝家自身、岐阜の織田信孝が少しずつ時期をずらして挙兵することを計画。
各地で羽柴勢を引き摺り回して将兵の疲労や兵站の弱体化を誘い、やがて軍全体を内部から瓦解させるいう作戦でした。
伊勢・近江・美濃の各地で戦線を展開
まず、1583(天正11)年2月に滝川一益が北伊勢で挙兵し、2月10日に羽柴秀吉は北伊勢に進軍。
一益を北方から支援するため、勝家も2月28日に挙兵。越前の北庄城(現在の福井県福井市)を出陣し近江北部の柳ヶ瀬(現在の滋賀県長浜市)まで進出し、秀吉は木之本(現在の滋賀県長浜市)を本陣に。
さらに4月に入ると岐阜城を本拠する織田信孝も挙兵。
秀吉は信孝の挙兵に対応するため、勝家と対峙していた本隊を木之本から美濃国大柿(現在の岐阜県大垣市)へ向け転進。
このとき柴田勝家と対峙したのは、羽柴小一郎長秀が率いる別働隊で総勢1万から1万5,000ほどの軍勢であったと言われています。
足利義昭と長宗我部元親と図って挟み撃ちの計画
信孝と勝家の勢力は、こうした畿内の東側で自軍を展開する一方で、その西側にある中国地方で毛利家に庇護されていた足利義昭、四国の長宗我部元親と誼みを通じていたようです。
足利義昭には畿内の西から、長宗我部元親には畿内の南から、秀吉を挟み撃ちしてもらうという大戦略も練っていました。
→ 足利義昭とは? 信長に京を追われた室町幕府最後の将軍
→ 長宗我部元親とは? 信長・秀吉を脅かした四国の雄
賤ヶ岳の戦いを巡る周辺の勢力図
賤ヶ岳の戦いは近江北部の賤ヶ岳の周辺で起こった戦いですが、その近江北部を羽柴秀吉の陣営と柴田勝家の陣営がそれぞれ大きく取り巻いていました。
羽柴秀吉の陣営
- 羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)
- 羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)
- 織田信雄
- 丹羽長秀
- 池田恒興
柴田勝家の陣営
- 柴田勝家
- 織田信孝
- 前田利家
- 佐久間盛政
- 佐々成政
賤ヶ岳の戦いの布陣図
1583(天正11)年4月20日に賤ヶ岳の戦いが始まる直前における、柴田・羽柴両軍の主な布陣は以下の通りです。
両軍はともに余呉湖の東側を走る北国街道沿いに陣や城砦を築き、北側に柴田勢が、南側に羽柴勢が展開したとお考えください。
柴田勝家軍: 近江の柳ヶ瀬を中心に展開
- 柴田勝家(内中尾城・本陣)
- 佐久間盛政(行市山砦)
- 前田利家(別所山砦)
- 前田利長(天神山砦)
- 不破勝光(林谷山砦)
- 金森長近(橡谷山砦)
羽柴秀吉軍: 近江の木之本を中心に展開
- 羽柴秀吉(木之本本陣)
- 羽柴小一郎長秀(田上山砦)
- 堀秀政(東野山砦)
- 山路正国・木下一元(堂木山砦)
- 大鐘貞綱・木村隼人(神明山砦)
- 高山右近(岩崎山砦)
- 中川清秀(大岩山砦)
- 桑山重晴・浅野長政(賤ヶ岳砦)
賤ヶ岳の戦いの布陣図を現在の地図に直すと…
賤ヶ岳の戦いの布陣図について、Google Mapを使って説明すると両軍は、福井県の敦賀駅から滋賀県の米原駅を結ぶ北陸本線沿いに軍勢を展開していたことになります。
柴田勢は滋賀県余呉町柳ヶ瀬で本陣を構える一方で、羽柴勢は滋賀県長浜市にある北陸本線のJR木ノ本駅付近に本陣を構えていたと考えられています。
賤ヶ岳の戦いの戦闘状況
織田信孝の挙兵に対応するために秀吉が美濃大垣に転戦
1583(天正11)年4月上旬に美濃の岐阜城において織田信孝が籠城戦を開始。
信孝の挙兵を見て、羽柴秀吉は4月20日に自らが率いる2万の本隊とともに、大垣城(当時は大柿城)へ転戦しました。
佐久間盛政が羽柴小一郎長秀らを圧倒
柴田勝家は秀吉が岐阜方面に移動したことを見て、甥の佐久間盛政に田上山砦を守る羽柴小一郎長秀に対する攻撃を命令。
佐久間盛政がまず取り掛かったのは田上山砦の北西にある大岩山砦でした。
大岩山には中川清秀と1,000の兵たちが砦を固めて守っていましたが、「猛将」と言われた佐久間盛政の前に苦戦を強いられ、大将の中川清秀は戦死。
勢いに乗る佐久間勢は大岩山の北にある岩崎山の高山右近と、南に位置する賤ヶ岳の桑山重晴にも取り掛かり攻撃を始めます。
ここまで佐久間勢は、秀吉の本隊がいない羽柴勢を圧倒していました。
副将である羽柴小一郎長秀は大岩山・岩崎山・賤ヶ岳の各砦には援軍を送ることもなく、ひたすら自陣の中で守りに徹していたようです。
秀吉の「美濃大返し」
ただし小一郎が採用した「専守防衛」の戦術にはある狙いがありました。
その狙いとは佐久間盛政を木之本付近で、できるだけ長く引きつけておくことです。
といった賤ヶ岳の戦いに関わる参考書籍を読み合わせると、どうやら佐久間盛政は、羽柴秀吉が率いる本隊が岐阜から近江北部の主戦場に戻ってくる日は4月22日ごろと予測していたようです。
ところが羽柴秀吉率いる本隊が、岐阜から戻って賤ヶ岳に現れたのは4月21日。秀吉は盛政の予想よりも1日早く、わずか1日で主戦場に戻ってきました。
このとき佐久間盛政は、高山右近が守る岩崎山砦と桑山重晴が守る賤ヶ岳砦の、2つの砦を同時に攻撃していましたが、急遽攻撃を中止。
自陣がある行市山砦にまで退却して、柴田勝家が率いる本隊との合流を図ろうとしますが、秀吉率いる2万の本隊が賤ヶ岳で急追。
盛政の後方部隊はやむを得ず戦闘を開始し、柴田勢の本陣がある柳ヶ瀬方面への撤退が遅れます。
こうした「逃げる佐久間盛政とそれを追いかける羽柴秀吉」という構図こそ、世に名高い「賤ヶ岳の戦い」です。
賤ヶ岳の七本槍と石田三成の活躍
後世の日本人は賤ヶ岳の戦いで活躍した羽柴勢の7人の武士たちを、「賤ヶ岳の七本槍」と称して高く評価しています。
- 福島正則
- 加藤清正
- 加藤嘉明
- 脇坂安治
- 片桐且元
- 平野長泰
- 糟屋武則
7人の中でも福島正則・加藤清正といった武将は、「賤ヶ岳の七本槍」として立てた功名がもとで「豊臣秀吉子飼いの大名」として長く語り継がれることとなりました。
その一方、賤ヶ岳の戦いではのちに豊臣政権下で五奉行の1人となった石田三成も、賤ヶ岳の戦いで活躍しています。
体格が小さく武功を挙げるには不向きとされた石田三成が挙げた手柄とは、戦いにおいて常に兵站(補給)を切らさなかったことでした。
賤ヶ岳の戦いが始まる前に秀吉は、
近江北部の賤ヶ岳
↓
美濃の大垣城(大柿城)
↓
近江北部の賤ヶ岳
という大規模かつ素早い軍事行動をわずか1日で展開しています。
この行動は「美濃大返し」と呼ばれるほど、有名な行軍となりましたが、この行軍中の兵站を一手に担っていた人物こそ、兵站奉行の石田三成でした。
賤ヶ岳の戦いといえば「賤ヶ岳の七本槍」という武功が目立ちますが、実は石田三成も加藤清正や福島正則らとは別に「補給」という面で活躍していたのです。
柴田勝家はなぜ敗れたのか?
1. 羽柴小一郎長秀の反撃
秀吉の本隊が佐久間盛政と交戦している隙に、今度は小一郎が率いる部隊が、柳ヶ瀬に陣取る柴田勝家の本陣をめがけて進軍を開始。
本陣を守っていた柴田勢は7,000ほどの軍勢がいたにもかかわらず、この知らせに動揺した兵士たちが敵前逃亡を始め、兵力は3,000にまで激減したと言われています。
予想外に早い秀吉主力の出現に慌てていた柴田・佐久間の将兵が、頼りの味方が消え失せたのを知って、恐怖に取りつかれたのも無理はない。たちまちにして柴田勝家の本隊からは脱走者が続出、三千人ほどに減ってしまったし、佐久間盛政隊は止めようもない敗走になった。
堺屋 太一. 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫) (p. 570). (Function). Kindle Edition.
圧倒的な兵力差で戦にならないと判断した柴田勝家は、越前方面への撤退を余儀なくされました。
2. 前田利家の裏切り
越前方面に退いた柴田勝家は、賤ヶ岳の戦いの後、なぜ形勢を逆転できなかったのでしょうか?
「賤ヶ岳の戦い」における柴田勝家の敗北を決定づけたのは、北国街道沿いにある天神山砦と別所山砦を守る前田利家・利長親子による不可解な撤退です。
2つの砦は、羽柴小一郎長秀が柴田勝家の本陣に目掛けて進軍してくる北国街道の途上に位置していました。
しかし小一郎が北上してきても何の抵抗もしません。それどころか前田親子の部隊は総大将である勝家に対して何の連絡もなく、無断退却まで始める始末です。
前田親子の配置は佐久間盛政と柴田勝家の中間に位置し、戦線全体を支える役割がありました。この無断撤退は柴田軍全体の戦線を崩壊させてしまったのです。
結局、戦線から無断離脱した前田利家は本拠地である越前府中城(現在の福井県越前市)まで引き返し、4月22日には羽柴秀吉にあっさりと降伏。さらに北庄城に至る道案内まで務めることに。
前田利家はなぜ裏切ったのか?
前田親子による一連の裏切り行為は、単に賤ヶ岳における戦闘の推移だけを見て、行われたものではなかったようです。
実は前田利家は、勝家と秀吉の本格的な軍事衝突が始まる前の1582(天正10)年11月に、秀吉と密約を交わしていたと言われています。
この密約には、林谷山砦の守将・不破勝光と、橡谷山砦の守将・金森長近も加わっており、前田利家が無断退却する際には不破・金森の2人の大将が率いる部隊も無断で戦線から退いていました。
→ 前田利家はなぜ柴田勝家を裏切ったのか?(準備中)
柴田勝家の最期と賤ヶ岳の戦いのその後
北庄城への撤退
前田利家の裏切り行為によって敗色濃厚となった柴田勝家は、残存兵力をまとめて本拠地である北庄城まで撤退。決戦は籠城戦に持ち込まれました。
前田利家が降伏した翌日の4月23日、羽柴秀吉は北庄城の攻囲を完了させ、時を分かたず城の総攻撃を開始。
柴田勝家は妻・お市とともに自害
城への総攻撃が始まったのち、勝家はまず妻・お市の3人の娘である茶々・初・江を城から退去させます。
その後、柴田勝家は本丸において迫り来る羽柴勢に向かって「これから自決する」と叫んだ上で、まずお市を刺し殺し、自らも切腹。
最期は中村文荷斎(ぶんかさい)という家来に自らの首を打ち取らせ介錯させたと伝わっています。
秀吉が織田家最大の実力者に
こうして織田家において最大の政治勢力を誇った柴田勝家を討ち取った羽柴秀吉は、実質的に「織田家No.1」の実力者となりました。
賤ヶ岳の戦いが終わった時点での織田家の当主は織田信雄でしたが、一般的には豊臣秀吉は賤ヶ岳の戦いにおける勝利でもって「天下人への道」を歩み始めたと考えられています。
こののち、秀吉が名実ともに「天下人」となるために、織田信雄・徳川家康・紀州の根来衆・長宗我部元親といった織田家に関わる残存勢力と戦うこととなります。
→ 織田信雄とは? 秀吉に担ぎ出された「神輿」
→ 長宗我部元親とは?四国征伐で秀吉に降伏
柴田勝家の敗因まとめ
賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家が羽柴秀吉に敗れた理由をまとめると以下の4点に集約できるでしょう。
- 佐久間盛政の突出
- 秀吉の美濃大返し
- 小一郎の確実な守備と反撃
- 前田利家の裏切り
柴田勝家は賤ヶ岳の戦いが終わった3日後には、北庄城の本丸にまで追い詰められて自害に追い込まれました。
「大敗」と言えるほどに勝家が秀吉に敗れた原因は、「4.前田利家の裏切り」が最も大きな原因であったと考えられます。
→ 前田利家はなぜ柴田勝家を裏切ったのか?(準備中)
賤ヶ岳の戦いに関連する人物たち
柴田勝家: 北庄城で自害
賤ヶ岳の戦いにおける柴田勢の総大将。1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた賤ヶ岳の戦いで大敗。
同年4月24日早朝に本拠地の越前・北庄城で自害に追い込まれました。
→ 柴田勝家の最期
お市: 勝家の妻で北庄城で自害
夫・柴田勝家の自害に伴い、自身も北庄城で自害しました。
→ お市の最期
羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)
賤ヶ岳の戦いにおいて羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)は田上山砦において羽柴勢の副将を務めました。
総大将の秀吉が岐阜城の織田信孝の陽動作戦に対応している間、配下の諸将に対して各砦を死守するよう徹底。
攻めかかる佐久間盛政の挑発に乗ることはなく、兄・秀吉が本隊を率いて戻ってくるまでの間、羽柴勢の戦線を維持することに務めていました。
また羽柴小一郎長秀は、秀吉が岐阜から賤ヶ岳に戻ってくると同時に反撃を開始。1万から1万5,000といわれる軍勢を率いて、柴田勝家の本陣にめがけて進軍しました。
当時、勝家の本陣には7,000の兵がいたと言われていますが、小一郎が軍勢を前進させるだけで勝家の本陣を守る兵の数を3,000にまで減らしています。
織田信雄: 弟・信孝を切腹に追い込む
織田信雄は秀吉陣営の名目上の総大将であったと考えられます。
1583(天正11)年閏1月に滝川一益が北伊勢で挙兵したことに合わせて羽柴秀吉は同年2月10日に近江を出発し、同12日には北伊勢にある峯城を包囲。
28日には織田信雄も出陣し、峯城の包囲戦に参加します。
その後3月になると越前の柴田勝家が出陣し近江の木之本まで南下。さらに翌4月になると織田信孝も美濃の岐阜城で挙兵。
羽柴秀吉やその弟・小一郎長秀らは、これらの動きに対応するために伊勢・近江・美濃の戦場を駆け巡ることになります。
その一方で信雄の軍勢は、滝川一益の動きを封じるために、北伊勢の峯城や長島城などにそのまま置かれることになりました。
織田信孝: 兄・信雄に切腹を命じられる
1583(天正11)年4月23日に柴田勝家が越前の北庄城で自害したのち、同年5月2日までに織田信雄が岐阜城を攻囲。
すでに頼るべき味方を失っていた信孝は岐阜城を開城し、尾張の知多半島で切腹に追い込まれました。
丹羽長秀: 越前・加賀2カ国の大大名に
賤ヶ岳の戦いにおいて丹羽長秀は羽柴秀吉に味方し、自らの軍は賤ヶ岳の西に位置する塩津あたりに軍勢を展開していたと考えられています。
戦後は柴田勝家の旧領となった越前・加賀の2カ国が与えられることになりました。
→ 丹羽長秀とは?
FAQ|賤ヶ岳の戦い
Q. 賤ヶ岳の戦いとは?
A. 賤ヶ岳の戦いとは、1583(天正11)年に羽柴秀吉と柴田勝家が近江国賤ヶ岳周辺で戦った合戦です。
秀吉が勝利したことで豊臣政権成立への道が開かれました。
Q. 賤ヶ岳の戦いを簡単に言うと?
A. 清須会議の後の織田家後継者争いです。
Q. 賤ヶ岳の戦いの場所は?
A. 現在の滋賀県長浜市木之本から余呉町柳ヶ瀬の周辺です。
Q. 美濃大返しとは?
A. 羽柴秀吉が美濃国大垣城から近江国賤ヶ岳まで主力軍を急行させた軍事行動です。この素早い行軍が賤ヶ岳の戦いに勝った大きな要因となりました。
Q. 賤ヶ岳の七本槍とは?
A. 賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた福島正則・加藤清正ら7人の若手武将の総称です。後に豊臣政権を支える大名へと成長しました。
Q. 前田利家は柴田勝家を裏切ったのですか?
A. はい。前田利家は賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家を裏切りました。
前田利家は無断で戦線から離脱したため、結果的には勝家が大敗する大きな要因となりました。
Q. 柴田勝家はなぜ賤ヶ岳の戦いで負けたのですか?
A. 美濃大返し、佐久間盛政の突出、前田利家の裏切りなどが原因です。
Q. 賤ヶ岳の戦いのその後は?
A. 勝家とお市が自害し、信孝も切腹。秀吉が織田家最大の実力者となりました。
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (角川選書 1403)
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
- 堺屋太一 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)
- 河内将芳 図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石 戎光祥出版
