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豊臣兄弟 賤ヶ岳の戦いとは?|柴田勝家が大敗した理由・前田利家の裏切り・羽柴秀吉の美濃大返しなどわかりやすく解説

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大河ドラマ「豊臣兄弟!」の32話「賤ヶ岳の決闘」から33話「市の最期」にかけて描かれる賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)とは、「清須会議」後の織田家の主導権を巡って羽柴秀吉と柴田勝家が激突した合戦です。

賤ヶ岳の戦いでは、最終的に羽柴秀吉が柴田勝家に勝利し、勝家とその妻・お市は北庄城で自害に追い込まれました。

▼ 要点まとめ

  • 羽柴秀吉と柴田勝家が激突
  • 主戦場は近江国賤ヶ岳周辺(現在の滋賀県長浜市)
  • 秀吉の美濃大返しが戦局を逆転
  • 賤ヶ岳の戦いは1583(天正11)年4月20日から21日にかけて発生
  • 前田利家の裏切り行為が勝敗を左右
  • 勝家は北庄城で自害
  • 秀吉が織田家最大の実力者になる

柴田勝家の最期
お市の最期
清須会議の体制はなぜ崩壊したのか?
→ 豊臣兄弟! 32話「賤ヶ岳の決闘」あらすじへ(準備中)
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豊臣兄弟!全話あらすじ一覧と結末の流れ

目次

結論|賤ヶ岳の戦いとは?

賤ヶ岳の戦いとは、1583(天正11)年4月20日から21日にかけて近江国の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)周辺で行われた羽柴秀吉と柴田勝家の一大決戦です。

この戦いに勝利した秀吉は織田家最大の実力者となり、のちの豊臣政権が成立する道筋をつけることになります。

一方、賤ヶ岳の戦いで大敗した柴田勝家は、妻・お市とともに北庄城で自害することになりました。

柴田勝家の最期
お市の最期
→ 豊臣兄弟! 32話「賤ヶ岳の決闘」あらすじへ(準備中)
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→ 豊臣兄弟!最終回までの全話ネタバレまとめ

豊臣兄弟!での賤ヶ岳の戦い

「豊臣兄弟!」における賤ヶ岳の戦いは、32話「賤ヶ岳の決闘」と33話「市の最期」において、ドラマ内の重要な戦いとして扱われます。

32話「賤ヶ岳の決闘」

32話「賤ヶ岳の決闘」では清須会議で決められた織田家の運営体制が崩壊したのち、主に羽柴秀吉(池松壮亮)と柴田勝家(山口馬木也)の軍事衝突する様子が描かれます。

勝家方は少しずつ時期をずらして伊勢の滝川一益(猪塚健太)、越前の柴田勝家、美濃の織田信孝(結木滉星)と順に挙兵。

各地の戦線に対応する羽柴秀吉と小一郎(仲野太賀)の兄弟ですが、秀吉は美濃から主戦場である近江の賤ヶ岳に思いもかけないほどの行軍速度で賤ヶ岳の戦線に復帰します。

その後、秀吉は自陣に奥深く入り込んでいた佐久間盛政を押し返すことに成功。

盛政の退却をきっかけに前田利家(大東駿介)が裏切り、柴田勢は全軍が崩壊していきます。

清須会議とは?何が決められたのか?
→ 豊臣兄弟! 32話「賤ヶ岳の決闘」あらすじへ(準備中)

33話「市の最期」

賤ヶ岳の戦いで大敗した柴田勝家は越前の北庄城まで全面撤退。一方、秀吉は勝家を追撃し、城の攻囲を完了させます。

すでに覚悟を決めていた勝家は、茶々(井上和)・初・江の三姉妹を城から脱出させたのち、自身は妻のお市(宮崎あおい)とともに自害。

柴田勝家とその一族が殲滅されたのち、勝家と共謀した織田信孝も自害に追い込まれ、秀吉は織田家における実質的なNo.1の実力者となります。

柴田勝家の最期
お市の最期
→ 豊臣兄弟!の茶々とはどんな人物か?(準備中)
→ 豊臣兄弟! 33話「市の最期」あらすじへ(準備中)

賤ヶ岳の戦いをわかりやすく説明すると

本能寺の変から賤ヶ岳の戦いまでの流れを年表形式で簡単に整理すると次のようになります。

スクロールできます
年月日出来事説明
1582(天正10)年6月2日本能寺の変織田信長明智光秀によって自害に追い込まれる
1582(天正10)年
6月13日
山崎の戦い羽柴秀吉が明智光秀を討伐
1582(天正10)年
6月27日
清須会議織田家の当主は三法師に。運営は4人の重臣による集団指導体制に
1582(天正10)年
10月28日
清須会議体制の崩壊羽柴秀吉がクーデターを起こし、織田家の当主を三法師から織田信雄に
1582(天正10)年
12月下旬
羽柴秀吉が柴田領の長浜城を攻撃柴田方の柴田勝豊が降伏
1583(天正11)年
正月
滝川一益が伊勢で挙兵一益は信孝・勝家に加勢
1583(天正11)年
2月28日
柴田勝家が越前で挙兵勝家は近江の柳ヶ瀬まで南下し、秀吉は木之本に本陣を構える
1583(天正11)年
4月上旬
織田信孝が美濃で挙兵岐阜城で籠城戦を開始
1583(天正11)年
4月20日〜21日
賤ヶ岳の戦い羽柴秀吉と佐久間盛政が近江北部にある余呉湖付近の賤ヶ岳で交戦
1583(天正11)年
4月22日
前田利家が柴田勝家を裏切る羽柴秀吉が越前府中城まで進軍
1583(天正11)年
4月24日
柴田勝家・お市夫妻が北庄城で自害羽柴秀吉の勝利

賤ヶ岳の戦いの場所

賤ヶ岳の戦いの主戦場

賤ヶ岳の戦いの主戦場は、近江国伊香郡の賤ヶ岳周辺です。

賤ヶ岳を現在の地名で説明すると滋賀県長浜市木之本町に当たり、地形で説明すると琵琶湖の北東に位置する余呉湖の南側に位置します。

賤ヶ岳において羽柴秀吉が率いる軍勢が、柴田勝家の甥・佐久間盛政の軍勢を猛追し、両軍が交戦するに至りました。

賤ヶ岳の戦いにおけるそのほかの戦場

1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた賤ヶ岳の戦いの直前まで、羽柴・柴田の両軍は、近江国の北部を通る北国街道沿いにそれぞれ部隊を展開。

羽柴秀吉は近江北部の木之本を、柴田勝家は柳ヶ瀬にある内中尾城を本陣としていました。

ちなみに秀吉の弟・羽柴小一郎長秀は、秀吉の本陣のすぐ北に位置する田上山(たがみやま)砦に陣を構えていました。

賤ヶ岳の戦いに至る経緯(織田家内部の政治状況)

発端は清須会議

賤ヶ岳の戦いの直接的な原因は「清須会議」後の権力争いです。

「清須会議」で話し合いが行われた結果、織田家は、当主・三法師を4人の重臣である柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興らが直接補佐するという「集団指導体制」によって運営されることになりました。

三法師とは?清須会議で選ばれた織田家の新しい当主
丹羽長秀とは?どんな人物だったのか?
→ 池田恒興とは?どんな人物だったのか?(準備中)

羽柴秀吉と織田信孝の争いで柴田勝家は信孝に味方

しかし、この決定に対して織田信長の三男・織田信孝が反発。

信孝は当主・三法師の名代(後見人)でもないにも関わらず、三法師を居城の岐阜城で預かるなど、まるで名代であるかの如く振る舞い始めます。

一方、秀吉は信孝のこうした政治的行動を止めるよう牽制。山崎城の築城を急いだり、羽柴秀勝を喪主とする信長の葬儀を単独で強行するなど、信孝への対抗心を隠そうともしません。

両者の争いを越前の北庄城から見ていた柴田勝家は、次第に信孝に同調するようになります。

織田信孝とは?なぜ三法師の名代に選ばれなかったのか?
羽柴秀勝(於次丸)とは? 信長の五男で秀吉の養子(養嗣子)

秀吉の政治的クーデターから軍事衝突に発展

織田家の中で「秀吉VS信孝・勝家」という対立構造が浮き彫りになる中、両陣営が完全に断交する出来事が発生します。

1582(天正10)10月28日、羽柴秀吉は他の織田家重臣である丹羽長秀・池田恒興らと図って、当主・三法師という織田家の体制を、信長の次男・織田信雄を中心にするという体制に移行。

こうした決定に織田信孝と柴田勝家は全く関わっていなかったため、織田家の勢力は「信雄・秀吉VS信孝・勝家」という形で完全に二分されることに。

もはや両者の関係は話し合いで解決することは不可能となり、軍事的手段を行使する以外に解決する方法がなくなってしまいました。

織田信雄とは? 秀吉に担ぎ出された「神輿」

賤ヶ岳の戦いが始まるまでの戦局

織田信孝・柴田勝家の戦略は「秀吉包囲網」の構築

軍事衝突が不可避となった柴田勝家が羽柴秀吉を滅ぼすために採った戦略とは、畿内の周辺諸国で「秀吉包囲網」を作ることでした。

北伊勢の滝川一益、越前の柴田勝家自身、岐阜の織田信孝が少しずつ時期をずらして挙兵することを計画。

各地で羽柴勢を引き摺り回して将兵の疲労や兵站の弱体化を誘い、やがて軍全体を内部から瓦解させるいう作戦でした。

伊勢・近江・美濃の各地で戦線を展開

まず、1583(天正11)年2月に滝川一益が北伊勢で挙兵し、2月10日に羽柴秀吉は北伊勢に進軍。

一益を北方から支援するため、勝家も2月28日に挙兵。越前の北庄城(現在の福井県福井市)を出陣し近江北部の柳ヶ瀬(現在の滋賀県長浜市)まで進出し、秀吉は木之本(現在の滋賀県長浜市)を本陣に。

さらに4月に入ると岐阜城を本拠する織田信孝も挙兵。

秀吉は信孝の挙兵に対応するため、勝家と対峙していた本隊を木之本から美濃国大柿(現在の岐阜県大垣市)へ向け転進。

このとき柴田勝家と対峙したのは、羽柴小一郎長秀が率いる別働隊で総勢1万から1万5,000ほどの軍勢であったと言われています。

足利義昭と長宗我部元親と図って挟み撃ちの計画

信孝と勝家の勢力は、こうした畿内の東側で自軍を展開する一方で、その西側にある中国地方で毛利家に庇護されていた足利義昭、四国の長宗我部元親と誼みを通じていたようです。

足利義昭には畿内の西から、長宗我部元親には畿内の南から、秀吉を挟み撃ちしてもらうという大戦略も練っていました。

足利義昭とは? 信長に京を追われた室町幕府最後の将軍
長宗我部元親とは? 信長・秀吉を脅かした四国の雄

賤ヶ岳の戦いを巡る周辺の勢力図

賤ヶ岳の戦いは近江北部の賤ヶ岳の周辺で起こった戦いですが、その近江北部を羽柴秀吉の陣営と柴田勝家の陣営がそれぞれ大きく取り巻いていました。

羽柴秀吉の陣営

  • 羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)
  • 羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)
  • 織田信雄
  • 丹羽長秀
  • 池田恒興

柴田勝家の陣営

  • 柴田勝家
  • 織田信孝
  • 前田利家
  • 佐久間盛政
  • 佐々成政

賤ヶ岳の戦いの布陣図

1583(天正11)年4月20日に賤ヶ岳の戦いが始まる直前における、柴田・羽柴両軍の主な布陣は以下の通りです。

両軍はともに余呉湖の東側を走る北国街道沿いに陣や城砦を築き、北側に柴田勢が、南側に羽柴勢が展開したとお考えください。

柴田勝家軍: 近江の柳ヶ瀬を中心に展開

  • 柴田勝家(内中尾城・本陣)
  • 佐久間盛政(行市山砦)
  • 前田利家(別所山砦)
  • 前田利長(天神山砦)
  • 不破勝光(林谷山砦)
  • 金森長近(橡谷山砦)

羽柴秀吉軍: 近江の木之本を中心に展開

  • 羽柴秀吉(木之本本陣)
  • 羽柴小一郎長秀(田上山砦)
  • 堀秀政(東野山砦)
  • 山路正国・木下一元(堂木山砦)
  • 大鐘貞綱・木村隼人(神明山砦)
  • 高山右近(岩崎山砦)
  • 中川清秀(大岩山砦)
  • 桑山重晴・浅野長政(賤ヶ岳砦)

賤ヶ岳の戦いの布陣図を現在の地図に直すと…

賤ヶ岳の戦いの布陣図について、Google Mapを使って説明すると両軍は、福井県の敦賀駅から滋賀県の米原駅を結ぶ北陸本線沿いに軍勢を展開していたことになります。

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