豊臣秀長の重臣の1人として紀伊雑賀城の城主だった吉川平助(よしかわへいすけ)。
吉川平助は、豊臣政権の実務を支えた優秀な行政官僚でもありましたが、1588(天正16)年に「材木不正売買事件」を起こしたとして豊臣秀吉の怒りを買い、斬首刑に処されました。
しかし、事件を伝える有力な一次史料を読むと、吉川平助がなぜ不正な材木取引を行ったのかという動機は明らかになっていません。
また、平助本人は斬首された一方で、その妻子たちには処罰が及ばず、主君であった豊臣秀長も厳しい処分を受けなかったなど、現在でも不可解な点が多く残されています。
この記事では、吉川平助の最後や死因、斬首に至った経緯、「材木不正売買事件」の内容、そして史料から分かること・分からないことを詳しく解説します。
▼要点まとめ
・吉川平助(?~1588年)の最後は1588(天正16)年の斬首刑による
・死因は材木の不当な高値取引を罪に問われたことによる斬首刑
・平助の首は京の六条河原でさらされた
・事件の動機は史料に記されておらず現在も不明
・妻子には処罰が及ばず、不可解な点が多い事件だった
・「豊臣兄弟!」の吉川平助(松岡広大)が経済事件に関与するかに注目
→ 吉川平助とは?
→ 豊臣兄弟! 吉川平助(松岡広大)とは?
結論|吉川平助の最後とは?
吉川平助の最後は、1588(天正16)年12月5日に豊臣秀吉の命令により、大和国の西大寺において斬首刑に処されたことによるものでした。
有力な一次史料である「多聞院日記」によれば、熊野山奉行として管理していた材木を不当に高値で売却したことが処刑の理由とされています。
しかし「そもそも吉川平助がなぜ材木に関する不当な高値取引を行ったのか?」という動機については記録が残されておらず、現在でも分かっていません。
また、処刑後には吉川平助の首が京都・六条河原でさらされており、この事件は当時の諸大名たちにも大きな衝撃を与えました。
→ 吉川平助とは?
→ 豊臣兄弟! 吉川平助(松岡広大)とは?
吉川平助は材木売買事件で斬首された
吉川平助が大坂において熊野の材木を不当な高値で売却
吉川平助は豊臣秀長の重臣として、
・船奉行
・熊野山奉行
などを務めていました。
熊野山奉行は、熊野地方の山林を管理し、材木の伐採や運搬などを監督する重要な役職です。
しかし1588(天正16)年、熊野で伐採した2万本の材木をめぐって大坂において「材木売買事件」が発生。
「多聞院日記」の同年12月7日のくだりには、
熊野山ノ木ヲ売ヘキ由被申付、二万本ヱリ切テ大坂へ遣、ウリテ代金毎月過分ニ上之、関白殿へ被聞、曲事トテ被召捕、一昨日五日於西大寺被誅了。
と記されています。現代語に翻訳すると、
熊野の山の木を売るよう命じられ、二万本を伐採して大坂へ送り売却した。その代金が過剰であることが関白・豊臣秀吉の耳に入り、不正であるとして捕らえられ、12月5日に奈良・西大寺で処刑された。
という内容になります。
吉川平助の動機は不明
この記録から分かる吉川平助の行為とは、
・熊野の材木二万本を伐採したこと
・大坂で売却したこと
・その取引が「曲事(不正)」と判断されたこと
・吉川平助が斬首されたこと
です。
一方で、「なぜそのような取引を行ったのか」という動機については一切記されていません。
吉川平助の首は六条河原でさらされた
吉川平助は西大寺で斬首され六条河原でさらし首に
吉川平助は大和国の大寺で斬首されたあと、その首は京都・六条河原へ送られました。
六条河原で平助の首が晒された事実については、当時京に滞在していた島津義弘が、国許にいた家臣・伊地知重秀へ送った書状から確認できます。
平助に対する処刑は諸国の大名を震え上がらせた
島津義弘は吉川平助の首が、京の六条河原でさらされたことについて、「恐ろしいことである」という趣旨の書状をを書き送っています。
六条河原は、戦国時代から安土桃山時代にかけて罪人の処刑やさらし首が行われた場所として知られていました。
そのため、平助の首を六条河原でさらしたことは、京の人々だけでなく在京していた諸大名にも広く知られる出来事となったのでしょう。
島津義弘ほどの有力大名がこの出来事を国元の家臣にも伝えていることから、事件が当時の大名たちにまで大きな衝撃を与えたことがうかがえます。
なぜ吉川平助は材木不正売買事件を起こしたのか
吉川平助が斬首された理由は「材木不正売買事件」であることが「多聞院日記」から確認できます。
しかし、事件の動機については現在でも分かっていません。
「多聞院日記」には、
・材木を売却したこと
・売却代金が「過分」であったこと
・不正として処刑されたこと
は記されていますが、
・なぜ高値で売却したのか
・私腹を肥やそうとしたのか
・誰かの指示があったのか
といった経緯には触れられていません。
そのため、吉川平助が利益を私的に得ようとしていたのか、それとも別の事情があったのかは、史料から判断することはできません。
現在の研究でも、事件の詳細な経緯は不明とされています。
また、首が六条河原でさらされたことは島津義弘も「恐ろしいことである」と書き送っており、当時の大名たちにも強い印象を与えたことが分かります。
秀吉が諸大名への見せしめを意図していたと断定することはできません。しかし、豊臣政権の重臣であっても不正があれば厳しく処罰されるという姿勢を広く示す結果になった可能性は考えられるでしょう。
材木不正売買事件には不可解な点も多い
吉川平助は豊臣秀吉から材木の不当な高値取引について罪を問われ斬首されました。
しかし平助に対する刑が執行されたのちの顛末を見ると、単純な横領事件としては説明しにくい点がいくつもあります。
妻子には処罰が及ばなかった
「多聞院日記」には、吉川平助の処刑について続けて、
「女・子供ハ不苦云々」
と記されています。
これは、
「妻や子供には罪は及ばなかった」
という意味です。
戦国時代において、重罪を犯した武士に対して本人だけでなく、その妻子た家臣までも連座させられ、罪に問われることは珍しくありませんでした。
しかし吉川平助の場合、処罰の対象となったのは本人だけであり、家族に対する厳しい処分が下された形跡が見られません。
実際、斬首された吉川平助の息子である、二代目吉川平助はその後も豊臣秀長に仕えていたことが確認されています。
豊臣秀長も最終的には処罰されなかった
「多聞院日記」には、
「主ニハ一円無過事也」
とも記されています。
これは、
「主君(秀長)には何の落ち度もなかった」
という意味です。
一方で、
「大納言殿天下ノ面目失儀也」
ともあり、秀長は家臣の不祥事によって面目を失ったことが分かります。
事件の翌年である1589(天正17)年1月、秀長は秀吉へ謝罪するため大坂城を訪れました。
しかし、このとき秀吉は秀長との面会さえ拒否したと伝えられています。
ただし、その後の秀吉と秀長の関係が決定的に悪化した形跡はなく、秀長自身が処罰を受けた記録もありません。
つまり、事件の責任は吉川平助一人に帰され、主君である秀長には最終的な処分は及ばなかったことになります。
山奉行の後任は藤堂高虎と羽田正親
処刑後、吉川平助が務めていた熊野山奉行には、
・藤堂高虎
・羽田正親
という秀長の重臣たちが任命されました。
熊野山奉行は、材木の管理だけでなく豊臣政権の重要な財政基盤にも関わる役職でした。
そのため、秀長は信頼の厚い重臣を後任に据えることで、失われた信用を回復しようとしたと考えられます。
→ 藤堂高虎とは 何をした人なのか?
→ 羽田正親とは 豊臣秀長の重臣の1人
吉川平助の死後とその後
1591(天正19)年1月21日、豊臣秀長は病死。秀長の生前に後継者と定められていた豊臣秀保が大和大納言家を継承しました。
しかし秀保も1595(文禄4)年4月に若くして病没し、後継者がいなかったため大和大納言家は断絶します。
このとき、藤堂高虎は豊臣秀吉の、羽田正親は豊臣秀次の直臣として召し抱えられるなど、豊臣秀長・秀保に仕えていた多くの家臣たちは、他の豊臣一門衆の大名に改めて仕えることになりました。
ところが、二代目吉川平助は、誰に召もし抱えられることなく浪人になったと伝えられています。
その理由は明らかではありません。
ただ、父・吉川平助が材木売買事件によって処刑されたことが影響した可能性は指摘されています。
さらに二代目平助の子・庄兵衛は武士を辞め、町人として生涯を送ったとされています。
吉川家は完全に断絶したわけではありませんが、豊臣政権の中枢で活躍した家柄としての歴史は、この事件を境に大きく変わることになりました。
豊臣兄弟!における吉川平助の最後
吉川平助による材木不正売買事件と、その斬首刑の執行が行われた時期とは、1588(天正16)12月ごろの時期であると考えられています。
1588(天正16)年12月とは、豊臣秀長が亡くなる約2年前のことです。
そうした時系列をもとにすると、「豊臣兄弟!」で吉川平助(松岡広大)による材木不正売買事件が描かれる場合、ドラマ終盤の重大な事件となるでしょう。
「豊臣兄弟!」独自の解釈として、平助が経済事件を起こした動機や、その背景がどのように描かれるのかも見どころの一つです。
→ 豊臣秀長の年表
→ 豊臣兄弟! 吉川平助(松岡広大)とは?
吉川平助に関するよくある質問
Q. 吉川平助の最後は?
1588(天正16)年、材木売買事件の責任を問われ、豊臣秀吉の命令によって奈良・西大寺で斬首されました。
Q. 吉川平助の死因は?
死因は斬首刑です。
熊野山奉行として担当していた材木売買が不正と判断され、処刑されました。
Q. 吉川平助はなぜ斬首された?
「多聞院日記」には、熊野の材木を不当に高値で売却したことが原因と記されています。
ただし、なぜそのような取引を行ったのかという動機については史料に記録がなく、現在でも分かっていません。
Q. 吉川平助の首はどうなった?
奈良・西大寺で斬首されたあと、首は京都・六条河原でさらされました。
この出来事は島津義弘も家臣への書状で伝えており、当時の諸大名にも大きな衝撃を与えたことが分かります。
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参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
