大河ドラマ「豊臣兄弟!」の30話「清須会議」から33話「市の最期」にかけて重要人物となる三法師(さんぼうし)。
三法師(さんぽうし)は織田信長の嫡孫であり、本能寺の変後に開かれた「清須会議」で織田家の当主に選ばれた人物です。
しかし当時の三法師はわずか3才(満年齢で2才)の幼児に過ぎません。
そのため「清須会議」では柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人の重臣たちが、三法師を直接補佐する体制が整えられました。
▼ 三法師の要点まとめ
・織田信長の嫡孫
・父は織田信忠
・本能寺の変で父と祖父を失う
・清須会議で織田家当主となる
・信雄と信孝の後見人争いの中心人物
・のちに織田秀信と改名
・豊臣秀勝の娘を妻に迎える
・岐阜13万石を相続
・関ヶ原の戦いで西軍に参加
・敗戦後は高野山へ追放
この記事では三法師の生涯とその後について解説します。
結論|三法師とは?
三法師とは、織田信長の長男・織田信忠の嫡男で、のちの織田秀信です。
▼ 三法師とは
・織田信長の嫡孫
・本能寺の変で父と祖父を失う
・清須会議で織田家当主になる
・信雄と信孝の後見人争いを象徴する子供
・元服後に織田秀信と改名
・秀吉の甥・豊臣秀勝の娘と結婚
・岐阜13万石の大名となる
・関ヶ原の戦いで西軍に参加
・敗戦後に高野山へ追放
「豊臣兄弟!」では、30話「清須会議」から33話「市の最期」にかけて重要人物として描かれる可能性があります。
三法師が当主に選ばれた経緯について詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
豊臣兄弟!での三法師
30話「清須会議」
本能寺の変と山崎の戦いの後、信長亡き後の織田家の支配体制を決めるために、30話「清須会議」において「清須会議」が開催されます。
三法師は織田信長(小栗旬)の嫡孫であり、先代当主・信忠(小関裕太)の嫡男です。
よって織田家の当主は、会議が始まる前から、三法師が務めることに暗黙の了解があります。
問題は三法師は数え年で3才の幼児であることです。そのため「清須会議」の焦点は、当主・三法師の名代(後見人)を務めるかです。
会議の席では三法師の叔父にあたり、信長の次男・織田信雄(山脇辰哉)と三男・織田信孝(結木滉星)が推挙されます。
31話「これで、お別れにございます」
清須会議の結果、名代は置かず、4人の重臣である柴田勝家(山口馬木也)・羽柴秀吉(池松壮亮)・丹羽長秀(池田鉄洋)・池田恒興(堀井新太)が、当主・三法師を直接補佐するという体制に決まりました。
しかしこの決定に納得がいかない信孝は、本来、安土城を居城とする三法師を、自らの居城である岐阜城に引き留めます。
信孝の野心を危険視する秀吉は、山城において山崎城の築城を急ぎ、信孝の行動を牽制。
→ 豊臣兄弟!31話「これで、お別れにございます」あらすじ(準備中)
32話「賤ヶ岳の決闘」
秀吉と信孝の政治的抗争は、やがて柴田勝家も巻き込んで軍事的衝突に発展。
いつまでも三法師を手放さない信孝に業を煮やした秀吉は、軍勢を率いて岐阜城を包囲。武力を背景として信孝から三法師の身柄を引き取ります。
しかし信孝は三法師の身柄を引き渡したものの、のちに柴田勝家の挙兵に呼応して岐阜城で挙兵。
→ 豊臣兄弟!32話「賤ヶ岳の決闘」あらすじ(準備中)
33話「市の最期」
賤ヶ岳の戦いで大勝した羽柴秀吉は、柴田勝家と織田信孝を自害に追い込むことに成功。
三法師はすでに秀吉の庇護のもとに置かれており、秀吉は独断で戦後の論功行賞を行うことになります。
→ 豊臣兄弟!33話「市の最期」あらすじ(準備中)
三法師の生涯
織田信忠の嫡男として誕生
三法師は1579(天正7)年頃に誕生。父は織田信長の嫡男・織田信忠でした。
信長から見れば嫡孫にあたり、順調にいけば信忠の跡をついで織田家の当主となる立場の子供でした
本能寺の変で父と祖父を失う
1582(天正10)年6月2日早朝、本能寺の変が発生し、明智光秀が織田信長と信忠をほぼ同時に襲撃。
祖父・信長は本能寺で自害し、父・信忠も同日に二条御所で自害しました。
→ 明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか?
→ 本能寺の変とは?
清須会議で織田家当主となる
謀反の首謀者である明智光秀が山崎の戦いにおいて討伐されたのち、1582(天正10)年6月27日に尾張の清須城において「清須会議」が開催されました。
信長亡き後の織田家の支配体制を決め、重臣間での利害関係を調整するための会議です。
三法師は信長の嫡孫であり、先代当主の信忠の嫡男であったことから、当初から当主は三法師が務めると会議の出席者の間に暗黙の了解があります。
問題は三法師は数え年で3才の幼児であり、まだ政治などとてもできないという点です。
そのため「清須会議」の最大の争点は、当主・三法師の名代(後見人)を誰が務めるかということでした。
その候補者として信長の次男・信雄と三男・信孝が推挙されます。
しかしどちらを選んでも血統・能力・戦功などで一長一短があるため、「名代を置く」という案は先送りに。
代わりに柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人の重臣たちが、当主の三法師を直接補佐するという「集団指導体制」が採用されました。
当然、3才に過ぎない三法師は、これらの決定に一切、口を挟むことはできません。
信孝と秀吉の対立に巻き込まれる
清須会議における決定事項は、すべて「当主は三法師である」という前提に取り決められたものでした。
ところがその前提を根底から覆す事態が発生します。
三法師を補佐するはずの羽柴秀吉が、1582(天正10)年10月28日に丹羽長秀・池田恒興を抱き込んで「政治的クーデター」を決行。
「当主・三法師」という大前提を骨抜きにして、信長の次男・信雄を実質的な当主にするという事態が発生しました。
このころ三法師は叔父である、信長の三男・信孝によって身柄が預かられている状態。信孝は事実上の「名代」になっていたのです。
そのため、いつまでも三法師を手放さない信孝を見た羽柴秀吉が、一種の「賭け」に打って出ました。
三法師の立場からすると、秀吉も信孝も「清須会議」で取り決められた協定に違反しています。
しかし何分にも三法師は、こうした大人たちの勝手な振る舞いに異を唱えるには幼過ぎました。
結局、両者の抗争は柴田勝家も巻き込んで、1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた賤ヶ岳の戦いに発展。
→ 丹羽長秀はどんな人物だったのか?
→ 織田信孝の最後とは?
→ 柴田勝家はどうなる?
→ 賤ヶ岳の戦いとは?(準備中)
賤ヶ岳の戦いののちの三法師
賤ヶ岳の戦いの直後は、三法師は安土城において、秀吉の庇護を受けていました。
しかし秀吉は、柴田勝家を殲滅し実質的に「織田家No.1」の地位を占めることになり、「織田家の政庁」である安土城の機能を停止。大坂城を新しく築く構想を持ち始めます。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当している黒田基樹氏の著作「お市の方の生涯」によると、三法師は安土城から近江坂本城で居住させられるようになったと説明しています。
三法師のその後
織田秀信と改名
1588(天正16)年4月に聚楽第行幸に際して、三法師は9才で元服。
織田秀信(おだひでのぶ)と名前を改めます。同時に従五位下侍従に任官。
黒田基樹さんの著作「羽柴秀吉とその一族」によると、秀信は12才のころには近江国の大溝を領地としており、ついで近江国の大津に移封されたとあります。
岐阜13万石の領主として「岐阜中納言」に
1592(文禄元)年に豊臣秀吉の甥・豊臣秀勝(小吉)が朝鮮の巨済島で病死。
秀信はこのときすでに豊臣秀勝の娘と結婚していたため、義父の遺領となった美濃の岐阜13万石と岐阜城を相続することになります。
このころの秀信の朝廷における官位官職は、従三位権中納言の地位にありました。
これらのことから秀信は「岐阜中納言」と呼ばれ、他の大名たちと比べ飛び抜けて高い政治的地位にあったことがうかがえます。
関ヶ原の戦いで西軍に参加
1600(慶長5)年9月に起こった関ヶ原の戦いにおいて、織田秀信は、石田三成率いる西軍に加勢。
木曽川沿いに軍勢を展開し池田輝政と福島正則を迎え撃ちますが敵わず、岐阜城に籠城。
しかも籠城戦も池田輝政によって追い詰めれ自害しようとするも、輝政によって止められ岐阜城を開城しました。
高野山追放後に26才で死去
関ヶ原敗戦後、秀信は岐阜13万石を没収され高野山への追放処分を受けることに。
そのまま織田秀信は高野山の地で26歳で死去。織田秀信の死因ははっきりしませんが、一説によると自害したという説があります。
織田信長の嫡孫として、わずか3才で織田家の当主となったものの、最終的には豊臣政権と徳川政権の狭間で埋もれていった人物と言えるでしょう。
FAQ|三法師について
Q. 三法師とは誰ですか?
A. 織田信長の嫡孫で、のちの織田秀信です。
Q. 三法師は信長の何ですか?
A. 長男・織田信忠の嫡男で、信長から見れば孫にあたります。
Q. なぜ清須会議で三法師は当主になったのですか?
A. 父・信忠が織田家当主の座にあったため、その嫡男である三法師が、織田家の当主に選ばれました。
Q. 三法師の後見人は誰になりましたか?
A. 「清須会議」の結果、三法師に名代(後見人)が置かれる案は先送りされました。
代わって、重臣の柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が、三法師を直接補佐する「集団指導体制」が採用されることになりました。
Q. 三法師はその後どうなりましたか?
A. 元服して織田秀信となり、岐阜13万石の大名となりました。その後は関ヶ原の戦いで西軍に参加。高野山へ追放されました。
Q. 羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と三法師の関係は?
A. 秀吉は三法師を織田家当主として支持し、その後も豊臣政権下で保護・統制していきました。
Q. 三法師の後の名前は何ですか?
A. 三法師は元服後に織田秀信(おだひでのぶ)と改名しました。関ヶ原の戦いでは西軍として岐阜城を守備したことで知られています。
三法師に関連する主な人物たち
織田信長と織田信忠: 本能寺の変で死亡
織田信長は三法師の祖父で、信忠は父にあたります。
清須会議が開催された主な理由は本能寺の変で織田信長・信忠亡き後の織田家の運営体制を決めるためです。
→ 織田信長はどうなる?本能寺の変で死亡する理由とその後
→ 織田信忠の最期
織田信雄: 三法師の名代(後見人)候補の1人
織田信雄は三法師の叔父にあたります。
清須会議が開催されたときは、ほとんど期待された人物ではありませんでしたが、羽柴秀吉がクーデターを起こしたのちに、織田家における実質的な当主となります。
織田信孝: 三法師の名代(後見人)候補の1人
織田信孝は三法師の叔父にあたります。
山崎の戦いでは秀吉と共同歩調を取ったものの、清須会議以降の織田信孝は羽柴秀吉と激しく対立することになります。
丹羽長秀: 三法師を直接補佐する重臣の一人
丹羽長秀は清須会議に出席した重臣の一人であり、会議での決定を受けて三法師を直接補佐することになります。
柴田勝家: 織田信孝に味方
柴田勝家は、三法師の叔父・織田信孝に味方した織田家の重臣です。
清須会議の体制が崩壊した後の最大の敗者とも言える人物です。
三法師に関連する歴史的事件
清須会議
清須会議は1582(天正10)年6月27日に尾張国の清須城において、織田家の重臣たちの間で、信長亡き後の織田家の運営体制が話し合われました。
→ 清須会議とは?
賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いは1583(天正11)年4月20日・21日にかけて行われました。
清須会議ののちに賤ヶ岳の戦いが行われたと理解されがちですが、その前にいくつもの政治的対立や軍事的衝突が存在しています。
賤ヶ岳の戦いの本質とは、「羽柴秀吉VS柴田勝家・織田信孝の最終決戦」という意味合いが強い戦いでした。
→ 賤ヶ岳の戦いとは?(準備中)
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 柴裕之(編著)豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
