織田信忠(おだのぶただ)は、織田信長の嫡男として生まれた戦国武将です。
1575(天正3)年11月には家督を継承しており、本能寺の変が発生した時点で正式な織田家当主でした。
しかし1582(天正10)年6月2日、本能寺の変で父・信長とともに命を落とします。
もし信長の正統な後継者である信忠が生きていれば、羽柴秀吉が台頭することもなかったかもしれません。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも、織田信忠は本能寺の変を語る上で欠かせない重要人物となるでしょう。
▼ 織田信忠 要点まとめ
・織田信長の嫡男
・1575(天正3)年11月に家督を継承
・正統な織田家当主
・本能寺の変で二条御所に籠城
・脱出勧められながらも抗戦し自害
・嫡男は三法師(後の織田秀信)
・信忠の死が清須会議の発端となった
この記事では、織田信忠の生涯や本能寺の変での最期、その後の織田家への影響について分かりやすく解説します。
→ 織田信長はどうなる?本能寺の変後の織田家と後継者を解説
→ 本能寺の変とは?信長を討った戦国時代最大のクーデターを解説
結論|織田信忠とは?
・織田信長の嫡男
・1575年11月に織田家の家督を継承
・正統な織田家当主
・本能寺の変で二条御所(二条城)に籠城
・脱出勧告を受けるも抗戦し自害
・嫡男は三法師(後の織田秀信)
・信忠の死が清須会議につながった
→ 織田信長はどうなる?本能寺の変後の織田家と後継者を解説
→ 本能寺の変とは?信長を討った戦国時代最大のクーデターを解説
豊臣兄弟!で織田信忠はどう描かれる?
本能寺の変では明智光秀に抵抗したのち自害
織田信忠(小関裕太)は本能寺の変の当日、父・織田信長(小栗旬)が本能寺で襲撃されたという知らせを受けると、自らは二条御所(二条城)に籠城。
明智光秀と徹底抗戦を試みるも、敵わず自害。二条御所は喪失し、信忠の首級は明智方に確認されず、遺体も家臣によって秘匿されたと伝わっています。
→ 豊臣兄弟!28話「急げ!秀吉」あらすじ(準備中)
信長亡き後の織田家を左右する存在
本能寺の変で信長と信忠がともに死亡したことによって、織田家は最高権力者と当主を同時に失いました。
このことが第30話「清須会議」で描かれる清須会議や、その後の賤ヶ岳の戦い、さらには羽柴秀吉(池松壮亮)の台頭へと歴史が動き始めます。
「豊臣兄弟!」でも信忠の死は物語の大きな転換点となるでしょう。
→ 豊臣兄弟!30話「清須会議」あらすじ(準備中)
織田信忠とはどんな人物?
織田信長の嫡男として生まれる
織田信忠は織田信長の嫡男として1557(弘治3)年に誕生。幼名は奇妙丸(奇妙)。
元服後の信忠は石山合戦、1574(天正2)年2月の岩村城の戦い、同年7月から9月にかけての伊勢長島攻めなどに参加。
畿内とその周辺各地を転戦した戦国武将の1人としても知られています。
1575(天正3)年11月に家督を継承
「信長公記」によると、1575(天正3)年11月28日、信長は嫡男の信忠に家督を継承。
このとき信長は自身の居城を安土城に移すことに決めて、当主・信忠は岐阜城主として美濃・尾張の2カ国を統治することになります。
信長は信忠の嫡男だったから当主になったというよりも、次男・信雄や三男・信孝など他の兄弟たちと比べて目立った戦功があり、織田家の当主として、能力的にもっともふさわしかったと言えるでしょう。
後継体制も盤石だった織田家
もちろん信長は信忠に家督を譲ったと言っても、「織田家の最高権力者」は信長のままです。
政治・軍事・外交などの織田家にとっての重要事項は、信長が最終的な意志決定を下すことになります。
中世の武家社会において、名のある武士は40才ぐらいで嫡男に当主の座を譲ることが慣例でした。ただ家督を譲ると言ってもその武士は、40代で引退することはほとんどなく、政治・軍事・外交など家の実権は握ったままです。
一般的に「革命児」と言われることが多い織田信長ですが、こと家の相続に関しては中世の慣例に則っていたと言えるでしょう。
もっとも信長が万一にも病死や戦死などをしても、「最高権力者」の座は速やかに信忠に移ることになります。
そうした意味では織田家の支配体制は、信長が信忠に当主の座を譲った時から本能寺の変が発生する直前までの間、家臣たちに口出しをさせないという意味で盤石であった言えるでしょう。
織田信忠はなぜ逃げなかった?
本能寺の変の当日は京・妙覚寺に宿泊
本能寺の変が発生した1582(天正10)6月2日、織田信忠は、父・信長とともに備中高松城攻めに出陣するため、京・妙覚寺で宿泊。
信忠は信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲したことを知ると、自身はわずかな手勢とともに二条御所(二条城)に籠城。
二条御所から脱出する機会はあった
「信長公記」では信忠の最期の様子が詳しく説明されています。
それによると、京都所司代の村井貞勝らは、二条御所に籠城した信忠に対して脱出するよう勧めたとあります。
信忠が逃げなかった理由は雑兵に討ち取られるのが嫌だったから
しかし信忠は家臣たちから勧められた脱出を拒否。切腹して自害する道を選んだと言います。
信忠が潔く自害することを選んだ理由は、
「(明智光秀が)これほどの大規模な謀反を起こすには厳重な包囲網を敷いているに違いない。逃亡の際に雑兵の手にかかって討ち取られるのは忍びない」
というものでした。
つまり信忠が逃げなかった理由を簡単に説明すると、「包囲網を突破できず雑兵の手にかかることを避けるため」ということになるでしょう。
信忠は明智勢に徹底抗戦したのち自害
信忠は家臣たちに自分の決意を説明している間にも、明智勢は続々と御所に押し寄せてきます。
信忠とその家臣たちは死を覚悟して明智勢に抵抗。やがて明智勢は御所に火を放ち、信忠は覚悟を決めて切腹しました。
信忠の介錯は近臣の1人である鎌田新介が行い、遺命に従って遺体は隠され、のちに荼毘に付されたとあります。
「豊臣兄弟!」の28話「急げ!秀吉」では、明智光秀は信長の遺体とともに、信忠の遺体も探すよう兵たちに命じますが、ついに見つけることができなかったとされています。
「信忠の遺体が見つからない」というストーリーは、「信長公記」の記述を反映していると考えられるでしょう。
織田信忠の最期|本能寺の変で死亡
織田信忠はいつ死んだ?
信忠が死亡したのは1582(天正10)年6月2日です。
父・信長が本能寺で死亡した日と同じです。
二条御所で明智軍と戦う
京・妙覚寺に宿泊していた信忠は京都の二条御所に籠城し、明智光秀の軍勢と戦いました。
しかし圧倒的な兵力差の前に形勢は悪化していきます。
最後は自害
最終的に信忠は自害しました。
こうして織田家は信長だけでなく、後継者である信忠も同日に失うことになったのです。
明智光秀について詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
織田信忠の子供・三法師とは?
嫡男は三法師
信忠には嫡男の三法師がいました。信長から三法師を見ると、嫡孫にあたります。
三法師は後に織田秀信と名乗る人物です。
本来は三法師が織田家を継ぐ立場だった
武家社会の原則から考えれば、信忠の死後は、嫡男の三法師が織田家の家督を継ぐことになります。
そのため信長・信忠亡き後の織田家の支配体制を決める「清須会議」において、三法師は織田家の正統な後継者となることに重臣同士の間で暗黙の了解がありました。
「清須会議」での三法師はわずか3才の幼児だった
しかし1582(天正10)年6月27日に「清須会議」が開催された時点での三法師の年齢は3才。現在の満年齢による数え方をすると2才の幼児に過ぎませんでした。
したがって「清須会議」における最大の議題とは、
「織田家の当主を誰にするのか?」
ではなく、
「誰が三法師の名代(後見人)となるのか?」
でした。
織田家の運営は4人の重臣による集団指導体制に
「清須会議」では「三法師の名代(後見人)を誰にするか」を巡って紛糾。
なぜなら、
- 次男: 織田信雄
- 三男: 織田信孝
の2人が名代の候補者として相応しいか議論されますが、どちらにしても一長一短があったからです。
最終的に、会議は「名代を選ぶ」のではなく、「4人の重臣が三法師を支える」という話に流れます。
つまりの4人の織田家重臣である、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興が、当主・三法師を支えるということで決着がつきました。
しかし歴史的に見ると、4人の家老による集団指導体制こそが、織田家の縮小が始まる出発点であったと言えるでしょう。
もし織田信忠が生きていたら?
清須会議は不要だった可能性
もし織田信忠が二条御所から脱出に成功し、本能寺の変を生き延びていたなら、その後の織田家はどうなっていたでしょうか?
おそらく明智光秀を討伐することになった山崎の戦いでは、名目的にも実質的にも織田家の総大将として、謀反人・明智光秀を討ち取っていた可能性が高いでしょう(実際の山崎の戦いでは名目上の総大将は織田信孝で、実質的な総大将は羽柴秀吉だった)。
そうすると織田家のその後の支配体制を決める「清須会議」など不要です。
誰の目から見ても織田家の最高権力者は、すでに当主となっていた織田信忠で、その正統性について家臣から難癖をつけられる理由などありません。
秀吉の台頭は難しかったかもしれない
後年、羽柴秀吉が織田家を乗っ取るような形で政治勢力を拡張し、天下統一の道を歩み始めます。
そうした野望が実現した大きな理由の1つには、織田信長と織田信忠が本能寺の変において同時に死んだことによって、織田家の後継者問題に介入できたことです。
そう考えると、「信長の死」だけでなく「信忠の死」も、秀吉にとって自分の政治勢力を拡張するためのまたとない機会であったと言えるでしょう。
もし織田信忠が本能寺の変を生き延びていれば、その後の日本史は大きく変わっていた可能性があります。
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参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (角川選書 1403)
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
