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山崎の戦いとは?羽柴秀吉が明智光秀を討った決戦をわかりやすく解説【豊臣兄弟!】

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山崎の戦いとは、1582(天正10)年6月13日に羽柴秀吉と明智光秀が戦った合戦です。

本能寺の変で織田信長を討った明智光秀に対し、羽柴秀吉がわずか11日後に挑み勝利した戦いとして知られています。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では第28話「急げ!秀吉」から第29話「天下への道」にかけ、本能寺の変に続く重要な戦いとして描かれます。

▼山崎の戦い 要点まとめ

・1582年6月13日、本能寺の変の11日後に起きた合戦
・現在の京都府大山崎町周辺で行われ、天王山の確保が勝敗を左右した
・羽柴秀吉が明智光秀を破り、天下人への道を切り開いた

この記事では、山崎の戦いに至るまでの戦局、戦闘の推移、戦場となった場所、天王山の意味、明智光秀の敗因、そして羽柴秀吉が天下人へ近づくまでの流れをわかりやすく解説します。

本能寺の変とは?
豊臣兄弟!最終回までの全話ネタバレまとめ
豊臣兄弟!全話あらすじ一覧と結末の流れ
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目次

結論|山崎の戦いとは?

・1582年6月13日に羽柴秀吉と明智光秀が戦った合戦
・本能寺の変のわずか11日後に発生
・戦場は現在の京都府乙訓郡大山崎町周辺
・天王山を先に押さえた秀吉軍が勝利
・光秀は敗走後に小栗栖の藪において落ち武者狩りに遭い討死
・この勝利によって秀吉は織田家の主導権争いで優位に立った

本能寺の変とは?
明智光秀はなぜ羽柴秀吉に敗れたのか?
織田信長はなぜ明智光秀に裏切られたのか?

豊臣兄弟!で山崎の戦いはどう描かれる?

大河ドラマ「豊臣兄弟!」において、山崎の戦いは第28話「急げ!秀吉」と第29話「天下への道」で描かれます。

小一郎は史実通り、黒田官兵衛と共に別働隊を率いて、明智勢と対峙することになります。

本能寺の変は織田信長の物語の終わりでした。

しかし山崎の戦いは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と小一郎(豊臣秀長)の物語が本格的に始まる戦いでもあります。

特に小一郎は、この後の賤ヶ岳の戦い、紀州征伐、四国征伐、九州征伐などで兄・秀吉を支える存在として活躍していくことになります。

山崎の戦いとは?

山崎の戦いとは、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、備中高松城での戦いから、わずか10日後には摂津国の富田(現在の大阪府高槻市)まで引き返してきた羽柴秀吉が戦った合戦です。

本能寺の変後、安土城を抑えた光秀は、畿内各地の与力武将たちに信長を討った自分の正統性を主張。

ところが羽柴秀吉は、備中高松において毛利氏との講和を成立させると、「中国大返し」によって畿内へ帰還。

そして両軍は山城国の山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)で激突することになったのです。

この戦いによって明智光秀の天下はわずか13日で終わりを迎え、代わって羽柴秀吉が天下人への道を歩むきっかけをつくることになりました。

山崎の戦いはいつ起きた?

山崎の戦いが起きたのは1582(天正10)年6月13日です。

本能寺の変は1582年6月2日早朝に発生しました。

つまり光秀が信長を討ってから、わずか11日後に決戦が行われたことになります。

このときの羽柴秀吉とその軍勢は、以下の時系列に沿って明智光秀の軍勢と対峙しました。

  • 6月2日夜半~3日ごろ: 秀吉が「信長が光秀に討たれる」の知らせに接する
  • 6月4日: 備中高松城の清水宗治を切腹させ毛利との和睦が成立
  • 6月5日~6日: 備中高松からの撤兵
  • 6月7日: 播磨国の姫路城に到着
  • 6月11日: 摂津国の尼崎城に到着
  • 6月12日: 摂津国の富田で軍議を招集
  • 6月13日: 両軍の先鋒隊が天王山付近で交戦

わずか10日間で備中で毛利と戦闘中であった軍勢を畿内に引き返させ、明智光秀が率いる軍勢に勝利した秀吉の行動力は「中国大返し」と呼ばれ、日本史上でも屈指の軍事行動として知られています。

山崎の戦いの場所はどこ?

戦場となったのは山城国の山崎という場所です。

山城国山崎は京都府乙訓郡大山崎町周辺にあたり、現在でも京都と大阪を結ぶ交通の要衝として知られています。

山崎は、西に天王山がそびえ、東に淀川が流れており、大軍が展開できる場所が限られていたため、天然の要害ともいえる地形でした。

現在でも、

  • 天王山(てんのうざん)
  • 宝積寺(ほうしゃくじ)
  • 山崎古戦場(やまざきこせんじょう)

などの史跡が残されています。

山崎の戦いは誰と誰が戦った?

山崎の戦いは、

  • 羽柴秀吉軍
  • 明智光秀軍

によって戦われました。

羽柴秀吉軍の布陣(総兵力: 約3万6,000~4万)

羽柴秀吉軍の構成は以下のとおりであったと考えられています。

名目上の総大将は第三陣の織田信孝でしたが、実質的な総大将は第四陣の羽柴秀吉で、総兵力は3万6,000から4万ほどでした。

  • 先鋒隊: 中川清秀・高山右近
  • 第一陣: 羽柴小一郎秀長・黒田官兵衛・神子田正治
  • 第二陣: 池田恒興・加藤光泰・木村隼人・中村一氏
  • 第三陣: 織田信孝・丹羽長秀
  • 第四陣(本陣): 羽柴秀吉

明智光秀軍の布陣(総兵力:約1万3,000~1万6,000 )

対して応戦する明智光秀軍の構成は以下のとおりであったと考えられます。

明智軍の総大将は明智光秀で総兵力は約1万3,000から1万6,000ほどと伝わっています。

  • 先鋒隊: 斎藤利三・柴田源左衛門・阿閉貞征
  • 右翼: 伊勢与三郎貞興・御牧三左衛門
  • 左翼: 松田太郎左衛門・並河掃部
  • 本陣: 明智光秀

必ずしも有利ではなかった羽柴秀吉軍

兵力だけを見ると羽柴軍が断然、有利です。

しかし羽柴軍には中川清秀・高山右近・池田恒興・織田信孝・丹羽長秀といった指揮命令の系統が異なる部隊が含まれています。悪くいえば「寄せ集め」でした。

しかも先鋒を務める中川清秀と高山右近は、つい最近まで明智光秀の与力武将で、光秀を裏切って秀吉に加勢。

したがって、もし戦いの緒戦で中川・高山の両隊が突き崩されると、羽柴軍は全軍が動揺して裏切りや寝返りが発生する危険を孕んでいました。

一方、明智軍は数の上では劣るといえども、全て明智光秀直属の精鋭部隊です。戦闘が多少不利に動いても全軍が崩壊する恐れは少ない構成となっていました。

このように山崎の戦いは見た目の兵力だけでは、戦前に勝敗の行方を予想することは難しっかたのです。

天王山が勝敗を決めた理由

そんな戦いの鍵を握ったのが山崎の西側にそびえる天王山です。その天王山をいち早く制したのが、秀吉軍の第一陣を率いる小一郎(羽柴小一郎長秀)でした。

小一郎は天王山東側の斜面に陣取り、「守るに固く攻めるに易い」という高地を確保することに成功。

おかげで羽柴軍先鋒隊の中川・高山の両隊は、明智軍の先鋒である斎藤・柴田・阿閉の三隊に対して常に劣勢であったにも関わらず、羽柴軍全体の戦線が崩壊することはありませんでした。

こうして小一郎が天王山の地形を利用して戦線全体を抑えている間に、羽柴軍は第二陣の池田・加藤・木村・中村の各隊が到着。

時間の経過とともに数に勝る羽柴軍が明智軍を圧倒し始めました。

ちなみに羽柴秀吉(より正確には羽柴小一郎長秀)が天王山を制して明智光秀に勝利した故事から、現代においても「天王山」という言葉そのものに「勝負の分かれ目」という意味が含まれています。

山崎の戦いで明智光秀はなぜ負けた?

明智光秀は、山崎の戦いにおける当日の戦闘において羽柴秀吉に敗れる以前に、戦略レベルで極めて不利な状況に追い込まれていました。

最終的に光秀が山崎の戦いで敗北の理由は、いくつかの要因が重なったことにあります。

1. そもそも大義名分がなかった

「主君殺し」の明智光秀には、織田家の他の重臣たちと戦をする大義名分がありません。

そのことは明智光秀自身が十分に分かっており、だからこそ本能寺の変で織田信長を討ち取った後、自身の軍勢を三手に分けています。

  1. 近江坂本城の守備固め
  2. 京の抑え
  3. 安土城の抑え

1の軍勢は北陸方面から戻ってくるであろう柴田勝家の抑え、2の軍勢は天皇や公家に対して正統性を唱えるため、3の軍勢は織田家内部での正統性を訴えるため、それぞれとった軍事行動です。

つまり明智光秀は、最初から戦争を行う際に最も忌み嫌われている「兵力分散」という愚かな戦術を強いられることが決まっていました。

その結果、明智秀満をはじめとして光秀が頼りとする親類衆が山崎に集まることはできず、明智軍には羽柴軍の3分の1程度しか兵がいなかったのです。

2. 味方が集まらなかった

大義名分の無さは、別の形でも欠点が露呈。明智光秀には一族以外からも味方の武将が集まらなかったのです。

光秀は畿内各地に散らばる織田家配下の武将たちに決起を呼びかける書状を再三に渡って送りますが、光秀が期待した返答を得ることはできません。

光秀は以下の武将たちが自軍の味方につくことを期待していたようです。

  1. 中川清秀(摂津茨木)
  2. 高山右近(摂津高槻)
  3. 細川藤孝(丹後)
  4. 細川忠興(丹後)
  5. 筒井順慶(大和)

ところが中川清秀と高山右近はあからさまに羽柴方に寝返り。

細川藤孝は、「死んだ信長を弔う」という名目で剃髪・出家。「幽斎」と名乗って中立の態度を表明。

藤孝の息子・細川忠興は娘の玉(細川ガラシャのこと)を嫁がせた婿であるにも関わらず、父の幽斎に同調して丹後から出てこようとしません。

筒井順慶に至ってはなぜか大和郡山城で籠城を始めるなど、彼らが光秀に合流することはありませんでした。

こうした「味方を集められなかった」という戦略的な失敗は、山崎の戦いで小一郎らによって天王山を取られたのち、劣勢を挽回できなかった戦術・戦闘レベルでの敗北につながります。

3. 秀吉が予想外の速さで畿内に戻ってきた

もし備中にいたはずの羽柴秀吉が、畿内に帰ってくることがもっと遅ければ、山崎の戦いでの勝敗の行方はどうなっていたでしょうか?

ひょっとすると、明智光秀は当時の正親町天皇や公家への政治工作を通じて、「明智政権」の正統性を主張できたかもしれません。

ところが戦巧者で知られた光秀さえも予測できないほどの速さで、秀吉が軍勢を率いて摂津と山城の国境まで舞い戻ってきました。

このことは単に秀吉の軍事行動が早かったというだけはなく、秀吉は光秀が朝廷に対する政治工作をするための時間も与えなかったという意味もあったでしょう。

しかも國學院大学の名誉教授である故・桑田忠親氏の著書「豊臣秀吉研究 上」によると、秀吉は自軍が優位に立てるよう「中国大返し」の最中に政治工作と宣伝工作までしていたと説明されています。

例えば秀吉は、光秀を裏切って味方についてくれた摂津茨木城主の中川清秀に対し、6月5日付の書状において「上様(信長のこと)は生きておられる。近江の膳所で安全が確保された」というプロパガンダを送信。

このように「主君の仇討ち」という大義名分を掲げた秀吉の周到な根回しは、本能寺の変が発生したことにより激しく動揺する畿内の諸将たちを、明智ではなく羽柴の味方につかせる効果があったと考えられます。

本能寺の変とは?

山崎の戦いをわかりやすく説明すると?

山崎の戦いを一言で説明するなら、

「本能寺の変を起こした明智光秀を、羽柴秀吉が討った戦い」

です。

信長を失った織田家の中で、最も素早く行動したのが秀吉でした。

秀吉はこの戦いによって、

  • 信長の仇討ち
  • 織田家内での発言力強化
  • 天下人への第一歩

を同時に実現したのです。

豊臣秀吉にとって山崎の戦いとは?

秀吉にとって山崎の戦いは織田家における勢力拡大する絶好の機会でした。

本能寺の変以前の秀吉は、あくまでも織田家の有力家臣の一人に過ぎませんでした。

しかし山崎の戦いで光秀を討ったことによって、

「信長の仇討ちを果たした武将」

として大きな名声を得て織田家の筆頭家老であった柴田勝家と肩を並べる存在となりました。

その後、

  • 清須会議
  • 賤ヶ岳の戦い

を経て、天下統一へ向かっていくことになるのです。

山崎の戦いの後どうなった?

敗れた明智光秀は近江の坂本城を目指して逃亡します。

しかし山城国にある小栗栖の森で落ち武者狩りに襲われて命を落としました。

こうして本能寺の変からわずか13日後に光秀の天下は終わります。

一方の秀吉は山崎の戦いの勝利によって織田家の主導権争いで優位に立ちました。

そして織田信長亡き後の日本を動かす中心人物となっていくのです。

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FAQ|山崎の戦いについて

Q. 山崎の戦いとは何ですか?

山崎の戦いとは、1582(天正10)年6月13日に羽柴秀吉と明智光秀が戦った合戦です。

本能寺の変のわずか11日後に行われ、秀吉が勝利しました。

Q. 山崎の戦いはいつ起きた?

1582(天正10)年6月13日に起きました。

本能寺の変が起きた6月2日からわずか11日後の出来事です。

Q. 山崎の戦いの場所はどこ?

現在の京都府乙訓郡大山崎町周辺です。

京都と大阪を結ぶ交通の要衝で戦われました。

Q. 山崎の戦いで有名な天王山とは?

戦場全体を見渡せる高地です。

秀吉軍が天王山を確保したことで戦いを有利に進めました。

Q. 山崎の戦いで明智光秀はなぜ負けた?

大義名分がなかったこと、味方が集まらなかったこと、中国大返しで秀吉が予想以上に早く戻ったこと、天王山を確保できなかったことが主な敗因です。

Q. 豊臣秀吉にとって山崎の戦いとは?

信長の仇討ちを果たした戦いです。

この勝利によって秀吉は織田家の主導権争いで優位に立ち、天下人への道を歩み始めました。

Q. 大河ドラマ「豊臣兄弟!」で山崎の戦いは描かれる?

山崎の戦いは第28話「急げ!秀吉」と第29話「天下への道」で描かれます。

山崎の戦いは本能寺の変の直後に起きた合戦であり、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と小一郎(のちの豊臣秀長)の地位を大きく飛躍させるきっかけとなった戦いだからです。

豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ

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豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説

参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。

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