織田信雄(おだのぶかつ)は、小牧長久手の戦いで羽柴秀吉に対抗したものの、最終的には秀吉に臣従し、その後は豊臣政権や江戸幕府のもとで波乱に満ちた人生を送りました。
豊臣政権では内大臣として徳川家康と並ぶ地位にまで昇進しましたが、小田原征伐後の国替え命令を拒否したことで改易・流罪となります。
しかし、その後は赦免され、関ヶ原の戦いや大坂の陣を経て、徳川家康のもとで再び大名として復帰。最終的には73歳まで生き、戦国乱世を生き抜いた織田信長の子としては珍しく天寿を全うしました。
この記事では、織田信雄が秀吉と和睦した経緯や豊臣政権での歩み、晩年の活躍、そして最後と死因について史実をもとにわかりやすく解説します。
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結論|織田信雄の最後とは?
織田信雄の最後を簡単にまとめると次のようになります。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 1584(天正12)年 11月15日 | 小牧長久手の戦いで羽柴秀吉と単独で和睦 |
| 1585(天正13)年 2月28日 | 大坂城へ出仕し、秀吉に正式に臣従 |
| 1590(天正18)年 7~8月ごろ | 国替え命令を拒否して改易・流罪 |
| 1592(文禄元)年ごろ | 徳川家康の尽力で赦免され、御伽衆として復帰 |
| 1600(慶長5)年 | 関ヶ原の戦い後に再び失領 |
| 1615(元和元)年 | 大坂の陣後、大和松山藩5万石で大名復帰 |
| 1630(寛永7)年 4月30日 | 京都で病死(享年73) |
織田信雄は、秀吉との対立から臣従、改易、復帰を繰り返しながらも、戦国時代から江戸時代初期まで生き抜いた戦国大名でした。
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小牧長久手の戦いでの織田信雄
小牧長久手の戦いにおいて織田信雄は徳川家康と同盟して、羽柴秀吉に対抗。
しかし本拠地である伊勢長島城に秀吉の軍勢が迫ってきたため、家康に相談することなく、単独で秀吉と和睦することになりました。
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時間の経過とともに羽柴秀吉が有利に
1584(天正12)3月上旬に起きた小牧長久手の戦いは、主に尾張・美濃・伊勢などで戦闘が展開。
これらのうち尾張の長久手の戦いなどでは、徳川家康が羽柴孫七郎信吉の別働隊を打ち破り、池田恒興らの大将を戦死に追い込むなど、織田信雄・徳川家康連合軍が優位に戦いを進めていました。
しかし時間が経過するにつれ、兵力と物量に勝る羽柴秀吉が次第に織田・徳川連合軍を圧倒。
羽柴勢は信雄の領国の一部である南伊勢の攻略を成し遂げ、10月末には秀吉自身が軍勢を率い、信雄の本拠地・伊勢長島城と目と鼻の先にある桑名にまで迫ってきました。
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1584(天正12)11月15日に秀吉と単独講和(実質的には「降伏」)
信雄は「秀吉迫る」の急報を浜松城に在城していた徳川家康に知らせ、家康は尾張の清須城まで出陣。
しかし尾張西部から伊勢にかけて羽柴勢が優勢に戦を進めていたこともあり、家康はそれ以上西へ軍を進めることはできませんでした。
こうして信雄は1584(天正12)11月15日にわずかな供を連れて、秀吉の陣所を訪問。
信雄は、同盟相手の徳川家康と協議することなく、秀吉と和睦を結ぶことになります。和睦といっても秀吉が長島城の目前にまで迫ってきてからの講和なので、実質的には「降伏」と同じです。
秀吉への領土の割譲と臣従
このとき秀吉が信雄に突きつけた和睦の条件は、主に以下の2点です。
- 信雄の領国のうち伊賀一国と南伊勢7郡の割譲
- 信雄・家康の双方から人質を提出すること
信雄の「降伏」によって織田家における主従関係が逆転。
両者は主従関係ではなく、秀吉を「父」、信雄を「子」とする擬制的な父子関係を結ぶことになります。
「父」は羽柴秀吉で「子」が織田信雄であること世間に証しするため、織田信雄は「天下の政庁」たる大坂城に出仕をしなければなりません。
こうした一連の外交儀式は、従来、織田信雄との「取次(外交)」を担当していた富田一白(とみたかずのぶ。富田知信)ではなく、秀吉の名代(代理人)を務めることができる、羽柴美濃守秀長が担当。
秀長は1585(天正13)年1月中に織田信雄が大坂城に出仕する話をまとめ上げ、同年2月28日に織田信雄が大坂城に出仕。
こうして正式に羽柴秀吉と織田信雄の主従関係が結ばれることになりました。
豊臣政権下における織田信雄
豊臣政権に組み込まれた織田信雄は、内大臣に任じられ、徳川家康と並ぶ最高位の大名の一人となりました。
しかし小田原征伐後に行われた秀吉による大大名に対する転封政策に従わず、改易・流罪に処されてしまいました。
秀長の「指南」を受けることに
大坂城に出仕して羽柴秀吉に臣従することを誓った織田信雄は、これ以降、羽柴秀長の「指南(しなん)」を受けることになります。
「指南」とは政治指導や軍事指導のことを意味し、いざ有事の場合には織田信雄とその軍勢は、羽柴秀長の指揮下に入ることになります。
豊臣政権No.2として徳川家康と同格の地位に
こののち、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は紀州征伐(1585年3月)・四国征伐(1585年5月)・九州征伐(1586年)・小田原征伐(1590年)と着実に天下統一への道を歩むこととなります。
この間、織田信雄は内大臣に昇進しており、この官位は関白・太政大臣の秀吉に次ぐ第2位の地位で、同じ地位には同じく内大臣であった徳川家康がいるだけです。
ちなみに同時期の豊臣秀長は従三位参議近衛中将であり、秀吉と信雄・家康に次ぐ、第三位の地位にいました。
織田信雄の娘・小姫と秀吉の養子縁組
このように信雄は「豊臣政権」における重要な構成員であったため、家同士での豊臣秀吉や徳川家康との結びつきも強化されます。
その1つとして考えられるのが養子縁組です。織田信雄は1587(天正15)年ごろに娘である小姫(おひめ)を、豊臣秀吉と北政所(「豊臣兄弟!」の寧々のこと)の夫婦と正式に養子縁組をさせています。
さらに「多聞院日記」の記述によると、小姫は1588(天正16)年正月28日に徳川家康の嫡男・徳川秀忠と聚楽第で婚約したとあります。
小田原征伐後の国替え命令を拒否して改易される
1590(天正18)年に小田原征伐を成功させた豊臣秀吉は、東海地方と甲斐・信濃の合計5カ国を領地としていた徳川家康を関東に転封させます。
その際、秀吉は尾張一国と北伊勢5郡を領地としていた織田信雄を、それまで家康の領地の一部であった駿河・遠江・三河の3カ国へ移封させようとしました。
しかし信雄はこの国替えを拒否。
加増転封であったにも関わらず信雄が国替えを拒否した理由は、領地が増えることよりも、父祖代々の慣れ親しんだ土地に残りたかったからと言われています。
秀吉の転封政策の狙いは、大大名たちを土地に根付かせないことです。
同時期にこの政策の対象となった徳川家康や蒲生氏郷などは、秀吉の政策の意図を見抜いて大人しく関東や会津に移動したものの、信雄は秀吉の意図を読まなかったようです
結局秀吉は転封に従わない信雄を改易処分にした上で、下野国烏山に配流。さらに烏山から出羽国秋田にまで追いやってしまいました。
豊臣秀吉に許され御伽衆として復帰
しかし、1591(天正19)2月ごろに徳川家康の尽力により、信雄は赦免され、秋田から帰還。
翌年の1592(文禄元)年ごろには大和国のうち、1万7,000石の捨て扶持を与えられ、秀吉の御伽衆に加えられることになりました。
晩年の織田信雄
豊臣秀吉の死後、織田信雄は関ヶ原の戦いや大坂の陣という天下分け目の戦いを経験します。
一時は再び所領を失いましたが、最終的には徳川家康のもとで大名として復帰し、江戸時代まで生き延びました。
関ヶ原の戦いで再び失領
1600(慶長5)年に関ヶ原の戦いが起こると、織田信雄(法名・常真)は西軍との関係を持ちながら行動していたと伝えられています。
史料によって行動の詳細は異なりますが、西軍から尾張一国を与えるとの誘いを受けたことや、一時は西軍に応じたとも記されています。
一方で、東軍側に情勢を伝えていたという記録もあり、信雄が最終的にどの程度西軍へ加担したかについては諸説あります。
しかし戦後、徳川家康は信雄の所領を認めず、信雄は再び改易され浪人となりました。
その後は大坂や京都で隠棲生活を送り、表舞台から距離を置くことになります。
大坂の陣で徳川方として参戦
1614(慶長19)年、大坂の陣が始まると、豊臣秀頼は信雄に対して大坂城へ入城し、豊臣方の中心人物になってほしいと期待していました。
しかし信雄は、豊臣方に加わることを拒否します。
片桐且元が城中で殺害される計画を知ると、その情報を伝えて脱出を助けたとも伝えられており、その後は徳川家康とも接触しました。
家康は信雄を厚遇し、大坂方の動きを報告するよう求めるなど、織田信長の次男として特別な扱いを受けていたようです。
結果として信雄は徳川方として行動し、豊臣家滅亡への流れの中で家康との信頼関係を築くことになりました。
大和松山藩主として復帰
大坂夏の陣が終結した1615(元和元)年、徳川家康は信雄に対し、大和国宇陀郡3万石と上野国甘楽郡など2万石、合わせて5万石を与えました。
こうして信雄は約15年ぶりに大名へ復帰します。
ただし、宇陀市の公式Webサイトの記事などによると、信雄自身は積極的に領国経営を行うことは少なく、京都の屋敷を拠点に茶の湯や鷹狩りなどを楽しみながら余生を送りました。
領国の政務は家臣や子の信良らに任せ、江戸幕府のもとで穏やかな晩年を過ごしたと考えられています。
織田信雄の最後・死因
死因は病死と考えられている
織田信雄の死因は病死と考えられています。
戦死や暗殺ではなく、高齢による自然死だったとみられています。
父・織田信長や兄弟の多くが戦乱の中で命を落としたことを考えると、戦国武将としては極めて珍しい最期でした。
1630年に73歳で死去
1630(寛永7)年4月30日、織田信雄は京都北野の屋敷で死去しました。
享年73。
墓所は京都・大徳寺総見院にあり、上野国小幡や大和国宇陀にも分骨されています。
戦国乱世を生き抜いた織田信長の次男
織田信雄は、父・織田信長の死後、
・清須会議
・賤ヶ岳の戦い
・小牧長久手の戦い
・小田原征伐
・関ヶ原の戦い
・大坂の陣
という、戦国時代後半の主要な出来事をほぼすべて経験しました。
途中で改易や流罪を経験しながらも、そのたびに政権へ復帰し、最終的には江戸時代まで生き延びています。
織田家・豊臣政権・徳川幕府という三つの時代を実際に生きた数少ない人物であり、その73年の生涯は、まさに戦国から江戸への移り変わりそのものを体現した人生だったといえるでしょう。
→ 清須会議とは?何が決められたのか
→ 賤ヶ岳の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説
→ 小牧長久手の戦はなぜ起きたのか?
→ 小牧長久手の戦はなぜ和睦したのか?
FAQ|織田信雄の最後とは?
Q. 織田信雄は最後どうなったのですか?
A. 小牧長久手の戦いで羽柴秀吉に臣従した後、豊臣政権では内大臣に昇進しました。しかし国替え命令を拒否して改易され、その後赦免されて復帰します。さらに大坂の陣後には大和松山藩5万石の大名となり、1630年に73歳で亡くなりました。
Q. 織田信雄の死因は何ですか?
A. 織田信雄の死因は病死と考えられています。1630(寛永7)年4月30日に京都で亡くなり、享年は73でした。戦国武将としては珍しく、戦死ではなく天寿を全うしました。
Q. 織田信雄はなぜ秀吉と和睦したのですか?
A. 小牧長久手の戦いでは当初、徳川家康とともに優勢な場面もありました。しかし戦況が長引くにつれて秀吉が優位となり、本拠地・伊勢長島城にも危機が迫ったため、1584年11月に家康へ相談せず単独で秀吉と和睦しました。
Q. 織田信雄はなぜ改易されたのですか?
A. 1590年、小田原征伐後に豊臣秀吉から三河・遠江・駿河への国替えを命じられました。しかし信雄はこれを拒否したため、秀吉の命令に背いたとして改易・流罪となりました。
Q. 織田信雄はその後、大名に復帰したのですか?
A. はい。関ヶ原の戦いでは再び所領を失いましたが、大坂の陣後の1615年に徳川家康から大和国宇陀郡など合わせて5万石を与えられ、大和松山藩主として大名に復帰しました。
Q. 織田信雄は織田信長の子どもの中で長生きした人物ですか?
A. はい。信長の子どもの多くが戦乱の中で命を落としたのに対し、信雄は73歳まで生きました。清須会議から豊臣政権、関ヶ原の戦い、大坂の陣、そして江戸時代初期までを見届けた数少ない織田一族の一人です。
織田信雄の最後に関連する主な人物
織田信雄
織田信雄は織田信長の次男として誕生。
信長の一門衆の1人として主に北伊勢や伊賀の統治を任されていました。
→ 織田信雄とは?織田信長の次男
→ 豊臣兄弟! 織田信雄(山脇辰哉)とは?
羽柴秀長(豊臣秀長)
羽柴秀長(豊臣秀長)は、織田信雄が羽柴秀吉の臣従を誓う際の「取次(外交担当者)」です。
信雄が秀吉に臣従を誓ったのちは、秀長は信雄の「指南(政治指導や軍事指導)」を行いました。
池田恒興
池田恒興は清須会議に参加した織田家の重臣の1人です。
小牧長久手の戦いにおいては羽柴秀吉に加勢したため、織田信雄とは対立することになります。
織田信雄に関連する歴史的事件
小牧長久手の戦い
織田信雄・家康連合軍が羽柴秀吉が、伊賀・伊勢・尾張の各地で戦った合戦です。
のちに織田信雄は羽柴秀吉と和睦することになります。
→ 小牧長久手の戦いはなぜ起きたのか?
→ 小牧長久手の戦いはなぜ和睦したのか?
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から第1話までのあらすじや、各週の流れについては下記の記事をご覧ください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
本能寺の変や山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、豊臣政権成立までの流れについては、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 柴裕之(編著)豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 黒田基樹 羽柴秀長と藤堂高虎 NHK出版新書
- 黒田基樹. 羽柴秀長の生涯 (平凡社新書 1088)
- 黒田基樹 秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治 講談社現代新書
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
