池田恒興(いけだつねおき)の最後は、1584(天正12)年4月9日に起きた長久手の戦いにおける戦死でした。
池田恒興は織田信長の乳兄弟として知られ、本能寺の変後は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)を支え続けましたが、小牧長久手の戦いでは徳川家康率いる軍勢の反撃を受け、長男・池田元助や森長可らとともに命を落とします。
この池田恒興らの戦死は羽柴秀吉にとって手痛い敗戦でしたが、その一方で秀吉は織田信雄・徳川家康との和睦に成功。「天下人」への歩みを止めることはありませんでした。
この記事では、池田恒興の最後や死因、長久手の戦いで何が起きたのか、そしてその死が豊臣政権へ与えた影響について史実をもとにわかりやすく解説します。
→ 小牧長久手の戦いはなぜ起きた?
→ 小牧長久手の戦いはなぜ和睦した?
→ 池田恒興とは?豊臣秀吉との関係や功績を解説
→ 豊臣兄弟!池田恒興(堀井新太)とは?
→ 織田信雄とは?織田信長の次男
結論|池田恒興の最後とは?
池田恒興の最後は、1584(天正12)年4月9日の長久手の戦いにおける戦死です。
1584(天正12)年3月に小牧長久手の戦いが発生したのち、池田恒興が戦死するまでの流れをまとめると次のようになります。
| 日付 | 主な出来事 |
|---|---|
| 3月13日 | 池田恒興(羽柴方)が大垣城を出陣し、同日に犬山城を占拠 |
| 3月15日 | 織田信雄・徳川家康が小牧山を占拠 |
| 3月17日 | 羽黒の戦い 森長可が酒井忠次に敗退 |
| 3月21日 | 羽柴秀吉が犬山城に入城 |
| 4月7日 | 羽柴孫七郎信吉・池田恒興らの別働隊が犬山城から南下 |
| 4月8日 | 徳川家康が小牧山の本陣を抜けて羽柴勢の別働隊を追撃 |
| 4月9日 | 羽柴勢の別働隊が徳川家康・榊原康政らに挟撃され池田恒興・池田元助・森長可らが戦死 |
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池田恒興の最後
一般的に池田恒興の死因は、長久手の戦いにおける戦死と説明されます。
ただ戦死に至った背景をたどると、池田恒興自身の焦りや羽柴秀吉の後継者問題に行きつくことが分かります。
小牧長久手の戦いで羽柴秀吉に味方
1583(天正11)年4月に起きた賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った羽柴秀吉は、織田家最大の実力者となります。
しかし、織田信長の次男・織田信雄は、宿老に過ぎない秀吉が織田家の実権を握ることに反発しました。
徳川家康も信雄を支援したため、1584(天正12)年3月から羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の間で小牧長久手の戦いが始まります。
このとき池田恒興は、長年支えてきた羽柴秀吉に味方する道を選びました。
実は徳川家康は、池田恒興を味方へ引き入れようと調略を試みたとも伝えられています。
しかし池田恒興は、山崎の戦い以来ともに歩んできた秀吉との信頼関係や、豊臣秀次(当時は三好信吉)と娘との婚姻による姻戚関係を重視し、秀吉に加勢することを決断しました。
→ 賤ヶ岳の戦いとは戦局と戦闘の推移を解説
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→ 三好信吉とは?のちの豊臣秀次のこと
犬山城を占領して戦いを優位に進める
池田恒興は美濃国大垣城で兵を挙げると、羽柴勢の先鋒として行動を開始しました。
まず目標となったのが木曽川沿いの要衝・犬山城です。
犬山城は尾張・美濃・三河を結ぶ重要拠点であり、この城を押さえることは徳川家康や織田信雄の軍勢に対して大きな圧力となります。
また池田恒興は犬山を居城にしていたことがあり地理にも明るく、羽柴勢の一員として手柄を挙げるために絶好の機会でした。
1584(天正12)年3月13日、池田恒興は長男・池田元助と家老・伊木忠次に命じて夜陰に紛れて犬山城の背後を襲わせます。
不意を打たれた城方は混乱に陥り、犬山城を落城させることに成功しました。
豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学の名誉教授である故・桑田忠親氏が記した「豊臣秀吉研究 上」によると、「犬山城落城」の知らせを聞いた秀吉は、その戦功を激賞したと説明しています。
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羽黒の戦いで婿・森長可が敗北
池田恒興が犬山城を占拠した4日後、今度は小牧山に本陣を構える徳川勢が反撃に出ます。
徳川家康は配下の部将である酒井忠次と奥平信昌に命じて、羽黒に陣取る池田恒興の婿・森長可を急襲。
羽黒は犬山と小牧山の中間地点にある両軍の最前線です。酒井忠次と奥平信昌の部隊は、この戦闘によって森長可を退かせることに成功し、長可は犬山城への撤退を余儀なくされます。
「豊臣秀吉研究 上」によると、羽黒での敗報を知らされた秀吉は、森長可の部隊に対して効果的な援軍を送ることができなかった池田恒興に対し厳しく叱責したとあります。
この羽黒での敗戦が池田恒興にとって「次は挽回せねば」という心理的なプレッシャーとなったのでしょう。
「三河中入り作戦」を献策
羽黒の戦い以降、羽柴勢と徳川勢の勢力が拮抗し、戦線が膠着状態に陥りました。
そんな中、功を焦る池田恒興は「三河中入り作戦」を秀吉に献策。
徳川勢は小牧山の本陣を中心として各城塞が緊密に連絡が取れており、それでいて兵站を確保するための三河に通じる岡崎街道にアクセスしやすいという要地を確保していました。
「三河中入り作戦」とは羽柴勢の別働隊が三河に向けて侵攻し、徳川勢が輸送路として使っている岡崎街道を遮断することが狙いです。
秀吉の後継者問題も孕んだ「三河中入り作戦」が許可される
しかし、秀吉は池田恒興が献策した作戦案に、あまり積極的ではなかったと考えられます。
なぜなら優秀な野戦指揮官として知られる徳川家康が、重要な輸送路である岡崎街道に何の備えもしていないとは考えられなかったからです。
ただ恒興の作戦案に対して、甥の羽柴孫七郎信吉(のちの豊臣秀次)が別働隊の大将になりたいと志願してきたため、作戦案を承諾。
恒興の策に乗り気でなかった秀吉が、羽柴孫七郎信吉を別働隊の総大将とする「三河中入り作戦」の実行を許可した理由の1つとして考えられることが、当時の後継者である羽柴秀勝(於次丸)が病弱だったことでしょう。
万一、秀勝が病死するようなことがあれば、秀吉は甥の秀次を自分の後継者として指名する必要があります。しかし「秀吉の後継者」として秀次を指名するためには、他の武将たちの手前、その地位に相応しい実績が必要です。
もし秀吉に実子の男子が複数おり、後継者問題に悩む必要がなければ、池田恒興の献策した「三河中入り作戦」は実行されなかったのかもしれません。
なお、史実における羽柴秀次は1584(天正12)5月に陣中で病気を患い、小牧長久手の戦いの最中にも関わらず、領国である丹波亀山に帰国することが許されています。
→ 三好孫七郎信吉とは?羽柴孫七郎信吉の1つ前の名前
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→ 羽柴秀勝の死因
羽柴孫七郎信吉の別働隊が長久手の戦いで大敗
1584(天正12)4月7日、羽柴秀吉は犬山城を出て近くの楽田城に入城するそぶりを見せて、徳川家康を小牧山の本陣に引き付けておく一方、羽柴孫七郎信吉・池田恒興・池田元助・森長可らが率いる別働隊の1万6,000が犬山から南下。
しかし徳川家康は、羽柴勢の一連の行動と作戦意図を見抜いており、自身は4月8日の夜半に小牧山の本陣を抜けて別働隊を追撃。
翌日の9日には、小牧山の本陣とは別行動をしていた榊原康政・大須賀康高らと図って挟撃し、長久手で大いに打ち破りました。
池田恒興の死因は戦死
徳川家康は後日、同年4月21日付で下野国皆川城主・皆川広照宛てに長久手の戦いにおける戦闘の様子を知らせる書状を送っています。
「皆川文書」に収められたその書状には、
大将之者共悉、其外一万余討取候
とあります。
この文書で言う「大将之者共」とは主に池田恒興・池田元助・森長可ら3名の大将のことを指しています。
つまり池田恒興の死因とは長久手の戦いにおける戦死です。
また家康は書状の中で「一万余討取候」とも記しており、羽柴勢の別働隊が不意を打たれて大混乱に陥っていたことが目に浮かぶようです。
大将である池田恒興自身も、徳川勢の足軽や雑兵たちが多数混じった乱戦の最中に討死したと考えられます。
池田恒興の死後
羽柴秀吉が甥・羽柴孫七郎信吉の責任を追及
日本中世史を研究している小和田哲男氏の「豊臣秀次『殺生関白』の悲劇」によると、山鹿素行が編纂した「武家事紀」の記述を取り上げ、羽柴秀吉が長久手の戦いにおける敗戦の責任を、別働隊の総大将であった羽柴孫七郎信吉に厳しく問い詰める書状を出したとあります。
この責任追及の書状には主に5つのポイントがあったようです。
- 「秀吉の甥」と言う立場で傲慢な振る舞いをしてはならない
- 今回の敗戦は秀次の進退問題である
- 池田恒興らを戦死させたことは重大な責任問題である
- 今後行いを改めないのであれば斬首に処する
- 秀勝が病身であるため秀次を自分の名代(後継者候補)にしても良いと考えている
小和田氏によると、秀吉は書状の前半において、「甥であろうと容赦はしない」と言わんばかりに秀次を脅している一方で、後半においては秀次に期待していることを匂わせる内容にもなっていると指摘しています。
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→ 羽柴秀勝の死因
秀吉は甥・秀次に奮起を促した
要するに秀吉は長久手の戦いにおける大敗を機に、甥・秀次に奮起を促したかったでしょう。
残念ながらこの書状を受け取ったときの、羽柴孫七郎信吉の気持ちを表した文書や書状などは残っていません。
ただ一般論として考えると、もしこのような手紙を自分の叔父から受け取れば、義理の父・池田恒興をはじめとして何千もの将兵を無駄死にさせてしまったことについて、さぞかし自責の念に駆られることでしょう。
秀次は紀州攻め(紀州討伐)で汚名を挽回する
ただ秀次にとって幸いだったことは、比較的早く長久手の戦いでの汚名を挽回する機会が回ってきたことです。
1585(天正13)3月10日、羽柴秀吉は小牧長久手の戦いにおいて、織田信雄・徳川家康連合軍に味方した紀州の根来衆・雑賀衆の討伐を決意。
この紀州攻めにおいて秀吉は自ら総大将として出陣。その副将として弟・羽柴秀長と甥・羽柴秀次を指名しました。
このときの秀次は「同じ失態を繰り返せば次はない」と言う覚悟があったのでしょう。
「太閤史料集」に所収された「天正記」の「紀州御発向記」において根来衆・雑賀衆の前衛陣地となっていた和泉国の千石堀城に対し、秀次は自ら率いる部隊の兵士たちを鼓舞して遮二無二攻めかかっている様子が記述されています。
この千石堀城の戦いにおける勝利は、秀吉による紀州攻めの成功に繋がったと考えられています。
豊臣兄弟!池田恒興の最後はどう描かれる?
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、池田恒興を堀井新太さんが演じています。
30話「清須会議」以降は羽柴秀吉を支える重臣として描かれ、
・清須会議
・賤ヶ岳の戦い
・小牧長久手の戦い
でも重要な役割を担うことになります。
NHK公式ガイドブックでは、34話以降に小牧長久手の戦いが描かれる予定です。
史実どおりであれば、池田恒興は犬山城攻略や三河中入り作戦に参加したのち、長久手の戦いで討死することになるでしょう。
織田信長の乳兄弟として始まり、本能寺の変後は秀吉を支え続けた池田恒興が、どのような最期を迎えるのかも見どころの一つになりそうです。
→ 豊臣兄弟!池田恒興(堀井新太)とは?
→ 豊臣兄弟!小牧長久手の戦いとは?
FAQ|池田恒興の最後
Q. 池田恒興の最後はどうなりましたか?
A. 池田恒興は1584(天正12)年4月9日に行われた長久手の戦いで戦死しました。
羽柴秀吉の命を受けて三河中入り作戦に参加しましたが、徳川家康が作戦を見抜いて別働隊を追撃。長久手で挟撃され、長男・池田元助や森長可らとともに討死しています。
Q. 池田恒興の死因は何ですか?
A. 池田恒興の死因は、長久手の戦いにおける戦死です。
「皆川文書」に収められた徳川家康の書状には、池田恒興・池田元助・森長可ら大将が討ち取られたことが記されており、羽柴勢が大敗したことがうかがえます。
Q. なぜ池田恒興は三河中入り作戦を提案したのですか?
A. 羽黒の戦いで婿・森長可が敗れたこともあり、戦況を打開したいという思いがあったためと考えられています。
また、犬山城を攻略した功績に続いてさらに大きな戦果を挙げようという焦りもあった可能性があります。
Q. なぜ羽柴秀吉は危険な三河中入り作戦を許可したのですか?
A. 秀吉自身は作戦に積極的ではなかったと考えられています。
しかし、後継者候補だった羽柴秀勝(於次丸)が病弱であったことや、甥の羽柴孫七郎信吉(のちの豊臣秀次)に武功を立てさせたいという事情もあり、別働隊の出陣を認めたと考えられます。
Q. 池田恒興の戦死は羽柴秀吉にどのような影響を与えましたか?
A. 池田恒興は本能寺の変以来、一貫して秀吉を支えてきた有力重臣でした。
そのため長久手の戦いで恒興・池田元助・森長可らを失ったことは羽柴勢にとって大きな損失となりました。
一方で秀吉はその後、織田信雄との和睦に成功し、さらに徳川家康とも和睦を結んだことで、最終的には天下統一への歩みを止めることはありませんでした。
Q. 長久手の敗戦後、羽柴秀次はどうなりましたか?
A. 羽柴秀吉は長久手の敗戦後、別働隊の総大将だった羽柴孫七郎信吉(のちの豊臣秀次)を厳しく叱責しました。
しかし一方で、秀次を将来の後継者候補として期待する内容も書状には含まれていたとされます。
その後、秀次は1585(天正13)年の紀州攻めで武功を挙げ、長久手での敗戦による汚名を挽回していきました。
池田恒興の最後に関連する人物たち
池田恒興: 長久手の戦いで戦死
池田恒興は織田信長の乳兄弟で織田家の家臣でした。
本能寺の変で信長が死去したのち、羽柴秀吉と急速に接近することになります。
→ 池田恒興とは?豊臣秀吉との関係や功績を解説
→ 豊臣兄弟!池田恒興(堀井新太)とは?
織田信雄: 小牧長久手の戦いで敵対関係に
織田信雄は織田信長の次男です。
織田家の家臣であった池田恒興から見ると主筋にあたりますが、小牧長久手の戦いでは敵対関係になります。
→ → 織田信雄とは?織田信長の次男
三好信吉(のちの羽柴秀次・豊臣秀次): 恒興の婿
三好信吉とは、のちの羽柴秀次・豊臣秀次であり、池田恒興の婿にあたります。
若政所: 池田恒興の娘
若政所(わかまんどころ)は、池田恒興の娘で三好信吉の正室です。
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (角川選書 1403)
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
- 堺屋太一 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)
- 河内将芳 図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石 戎光祥出版
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
