小牧長久手の戦いは、1584(天正12)年に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が争った合戦です。
一般には「秀吉と家康が戦った戦い」として知られていますが、実際の発端は、織田家内部で進んだ政治的対立にありました。
1583(天正11)年4月に起きた賤ヶ岳の戦いを経て、織田家では「名代・織田信雄」と「宿老・羽柴秀吉」の間で主導権争いが激化。やがて徳川家康も信雄を支援する形で参戦し、小牧長久手の戦いへ発展します。
この記事では、小牧長久手の戦いがなぜ起きたのかを中心に、織田信雄と羽柴秀吉の対立、徳川家康が参戦した理由、そして戦局の流れまで史実に基づいてわかりやすく解説します。
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結論|小牧長久手の戦いはなぜ起きた?
小牧長久手の戦いが起きた最大の理由は、織田家の実質的な当主である織田信雄と、天下の政務を主導し始めた羽柴秀吉との政治的対立でした。
その後、
・織田信雄が秀吉との取次役だった3人の家老を殺害したこと
・徳川家康が信雄を支援するため尾張へ出陣したこと
によって対立は決定的となり、小牧長久手の戦いが始まります。
戦いでは長久手で徳川家康が大勝したものの、戦争全体は膠着状態となり、最終的には羽柴秀吉が外交によって織田信雄・徳川家康との和睦を実現しました。
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小牧長久手の戦いとは?わかりやすく説明
いつ・どこで起きた戦いか
小牧長久手の戦いは、1584(天正12)年3月から11月にかけて行われた戦いです。
主な戦場は尾張国の小牧山・犬山・楽田・長久手を中心として、美濃・伊勢・近江など近隣の周辺諸国に広がりました。
また、紀州・中国・四国・北陸・関東でも両陣営による「外交戦」が展開され、全国規模の戦いとなっています。
小牧長久手の戦いの結果: 戦術では家康、戦略では秀吉が勝利
小牧長久手の戦いは、羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の連合軍が戦った合戦です。
賤ヶ岳の戦いを経て、織田家内部で羽柴秀吉と織田信雄の対立が深まり、そこへ徳川家康が信雄を支援する形で参戦しました。
戦闘や戦術のレベルでは徳川家康が長久手の戦いで勝利を収めるなど、織田信雄・徳川家康連合軍の優位で戦が展開しましたが、両軍はやがて膠着状態に。
最終的には羽柴秀吉が織田信雄と徳川家康に個別に和睦をすることに持ち込むことに成功。
小牧長久手の戦いは、政治工作も含めた全体的な戦略レベルでは羽柴秀吉が勝利した戦いであったと言えるでしょう。
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小牧長久手の戦いが起きた理由
小牧長久手の戦いは突然始まったわけではありません。
賤ヶ岳の戦い後、織田家内部で羽柴秀吉と織田信雄の政治的対立が深まり、それが戦争へ発展しました。
まずは開戦までの経緯を順番に見ていきましょう。
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賤ヶ岳の戦いののちに「信雄-秀吉」のラインが織田家のトップに
羽柴秀吉は1583(天正11)年4月の賤ヶ岳の戦いで、織田家のライバルであった織田信孝・柴田勝家とその一族郎党を殲滅。
織田家の運営は、織田信長の嫡孫であった三法師を当主として「(名代)織田信雄-(宿老)羽柴秀吉」というラインで収まったかに見えました。
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名代・織田信雄と宿老・羽柴秀吉の食い違い
しかし「名代・織田信雄」と「宿老・羽柴秀吉」の間で早くも政治的な分裂が発生。理由は統治のあり方です。
名代の信雄は従来の尾張に加え、賤ヶ岳の戦いの論功行賞で得た北伊勢5郡と伊賀の領国統治を優先。
一方、宿老の秀吉は織田家の政庁である安土城を廃城し、城主である三法師を近江坂本城に移動させ、天下の政庁たる大坂城を築城。
1584年1月20日付のルイス・フロイスの書翰によると、秀吉は天下の政務を執る姿勢を見せ始めたとあります。
このころの秀吉は、信雄の頭を飛び越えて、北条家と佐竹義重らの抗争をはじめとし「関東惣無事(関東情勢の沈静化)」にも介入し始めました。
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織田信雄が秀吉との取次を担当した「三家老」を殺害
「名代」として織田家の実質的な当主である織田信雄は、頭ごなしに天下の政務を執り始める「宿老・羽柴秀吉」の存在が面白くありません。
両者の仲は次第に険悪なものとなり、「家忠日記」の1583(天正11)11月20日のくだりには「信雄が畿内で切腹をした」という記述があり、世間に不穏な噂まで出回る始末でした。
しかし1584(天正12)年の初頭までは、両者の対立は表面化することはなかったようです。
これは織田信雄の3人の家老である、
・津川雄光(つがわかつみつ)
・岡田重孝(おかだしげたか)
・浅井長時(あざいながとき)
の3人が秀吉との取次(外交のこと)を担当し、両者の関係が維持できるように周旋をしていたからです。
ところが、織田信雄は、東海3ヶ国と甲斐・信濃を領国とする徳川家康を味方につけた上で、 1584(天正12)年3月6日に、これら三家老を殺害。
信雄は外交担当者を排除することで秀吉との手切れを示す一方で、同年3月9日に三河から尾張に進軍していた徳川家康は、清須城に入城。
こうして織田信雄・徳川家康の連合軍が形成され、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の抗争である、小牧長久手の戦いが始まることになりました。
小牧長久手の戦い 戦局と戦闘の推移
開戦後は尾張だけでなく、美濃・伊勢・紀州・四国・中国・北陸など各地で戦闘や外交戦が展開されました。
ここでは戦局がどのように推移したのかを時系列で見ていきます。
戦闘の前に各地で外交戦を展開
小牧長久手の戦いでの戦闘が始まる前に、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の両陣営は、それぞれ自軍が優位に立てるよう、戦場となった伊勢・尾張・美濃以外の地域でも外交戦を展開していました。
| 地域 | 羽柴秀吉方 | 織田信雄・徳川家康方 |
|---|---|---|
| 紀州方面 | 中村一氏・蜂須賀家政・黒田官兵衛 | 根来衆・雑賀衆 |
| 中国方面 | 宇喜多秀家 | 毛利輝元 |
| 四国方面 | 仙石秀久 | 長宗我部元親 |
| 北陸方面 | 上杉景勝・前田利家・丹羽長秀 | 佐々成政 |
羽黒・岩崎方面の戦い
徳川家康が1584(天正12)3月9日に清須城に入城した時期には、すでに伊勢において部将レベルでの局地戦が開かれていました。
それに呼応する形で主だった両軍の武将たちが出陣し、その時系列は以下のとおりです。
| 日付 | 主な出来事 |
|---|---|
| 3月13日 | 池田恒興(羽柴方)が大垣城を出陣し、同日に犬山城を占拠 |
| 3月15日 | 徳川家康が小牧山を占拠 |
| 3月16日 | 羽柴小一郎長秀が別働隊を率いて伊勢松ヶ島城を攻略 |
| 3月17日 | 羽黒の戦いが勃発 |
3月17日に行われた羽黒の戦いとは、池田恒興によって犬山城が占拠されたことを知った徳川家康が、配下の部将である酒井忠次と奥平信昌に命じて、恒興の婿である森長可を急襲させた戦いのことです。
羽黒は犬山と小牧山の中間地点にある両軍の最前線です。酒井忠次と奥平信昌の部隊は、この戦闘によって森長可を退かせることに成功し、長可は犬山城への撤退を余儀なくされます。
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小牧山での対陣
羽黒での敗報を大坂城で聞いた秀吉は、池田・森などの諸将では徳川家康に対抗することができないことを悟り、3月21日に自ら約3万の本隊を率いて大坂城を出陣しました。
近江・美濃を経て3月27日に尾張の犬山城に入城しましたが、秀吉はこの行軍中に徳川家康が容易ならざる防御態勢をとっていることを把握。
秀吉の見るところ、家康が本陣を構える小牧山を中心として各砦が緊密に連携が取れ、それでいて兵站を確保するための三河へ通じる岡崎街道へのアクセスが容易だったようです。
戦上手で知られた秀吉でさえも、攻め手が思いつきません。
一方、徳川勢は羽柴勢よりも優位な陣地を構築することに成功しましたが、兵力において羽柴勢に劣っていました。そのため彼らは自ら進んで羽柴勢に攻撃を仕掛けることができません。
こうして羽柴勢と徳川勢は、ただ睨み合いが続くだけの膠着状態に陥ったのです。
長久手の戦い|池田恒興・池田元助・森長可の戦死
池田恒興による三河中入り作戦の立案
豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学の名誉教授である故・桑田忠親氏が記した「豊臣秀吉研究 上」によると、羽黒の戦いで森長可の苦戦を助けることができなかった池田恒興とその子・元助は、秀吉に厳しく叱責されたとあります。
そこで池田親子は名誉挽回をするために、秀吉にある作戦を献策。その作戦が「三河中入り作戦」です。
その作戦の狙いは、徳川家康が小牧山の本陣から出てこないことを逆手に取り、羽柴勢の別働隊が三河へ侵攻し、輸送路となっている岡崎街道を遮断するという作戦でした。
しかし、秀吉は池田恒興の作戦案に、あまり乗り気ではありません。
優秀な野戦指揮官として知られる徳川家康が、輸送路となる岡崎街道に何の備えもしていないとは考えられなかったからです。
しかし恒興の作戦案に対して、甥の羽柴孫七郎信吉(のちの豊臣秀次)が別働隊の大将になりたいと志願してきたため、作戦案を承諾。
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羽柴孫七郎信吉の別働隊が大敗
1584(天正12)4月7日、羽柴秀吉は犬山城を出て近くの楽田城に入城するそぶりを見せて、徳川家康を小牧山の本陣に引き付けておく一方、羽柴孫七郎信吉を大将とする別働隊1万6,000も犬山から南下。
しかし家康は、羽柴勢の一連の行動と作戦意図を見抜いており、自身は4月8日の夜半に小牧山の本陣を抜けて羽柴孫七郎信吉を追撃。
翌日の9日には、小牧山の本陣とは別行動をしていた榊原康政と図って、羽柴勢の別働隊を挟撃し、長久手で大いに打ち破ります。
これが長久手の戦いと呼ばれる戦闘ですが、徳川家康は後日、同年4月21日付で下野国皆川城主・皆川広照宛てに戦闘の様子を知らせる書状を送っています。
「皆川文書」に収められたその書状には
大将之者共悉、其外一万余討取候
とあります。
「大将之者」とは池田恒興・池田元助・森長可らのことを指しています。加えて1万以上の将兵を「討取候」とありますので、長久手の戦いは徳川家康の大勝利だったと言えるでしょう。
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小牧長久手の戦いの結末
小牧長久手方面の戦局は膠着状態になる
長久手の戦いで大勝利を収めた徳川家康は、深追いせず長久手の近くにあった小幡城に入城。
こののち羽柴勢と徳川勢は両軍ともに本陣の周りの砦を固めるだけで、お互いに自らが攻勢に出ることを避けるようになっていました。
攻勢に出ると隙が生じ、その隙を相手に突かれることが分かっていたからです。
戦に負けなかった織田信雄と徳川家康がはなぜ羽柴秀吉と和睦したのか?
長久手の戦い以降、小牧・犬山・長久手など尾張方面の戦線は、羽柴勢と徳川勢の膠着状態が続くことになります。
しかしその周辺国である美濃や伊勢では局地戦が続き、特に織田信雄の領国である伊勢や国境の尾張西部では、羽柴勢が優勢な形で戦闘が続いていました。
そこで戦闘が長引くことを嫌った羽柴秀吉は、戦いを戦闘や戦術レベルではなく、戦略レベルで相手を圧倒する作戦に切り替えます。
のちに羽柴秀吉は織田信雄、徳川家康と個別に和睦へ持ち込み、最終的に信雄と家康は正式に秀吉に臣従を誓うこととなりました。
戦闘では劣らなかった織田信雄や徳川家康が、なぜ羽柴秀吉と和睦するに至ったかその理由については、下記の記事で詳しく説明します。
FAQ | 小牧長久手の戦いについてよくある質問
Q. 小牧長久手の戦いはなぜ起きた?
A. 織田家の名代であった織田信雄と、天下の政務を主導し始めた羽柴秀吉の対立が原因です。
最終的に信雄が秀吉との取次を務めていた三家老(津川雄光・岡田重孝・浅井長時)を殺害したことで両者の関係は決裂し、徳川家康も信雄を支援して参戦しました。
Q. 徳川家康はなぜ参戦したのですか?
A. 織田信雄から支援を求められたことに加え、羽柴秀吉の勢力拡大を警戒していたためです。
家康は尾張へ出陣し、信雄との連合軍を結成しました。
Q. 織田信雄はなぜ羽柴秀吉と対立したのですか?
A. 賤ヶ岳の戦い後、秀吉が織田家の宿老という立場を超えて天下の政務に介入し始めたためです。
名代として織田家を代表する信雄との間で主導権争いが激化しました。
豊臣秀次は小牧長久手の戦いで何をしましたか?
羽柴秀吉の甥である羽柴孫七郎信吉(三好信吉のこと。のちの豊臣秀次)は、三河中入り作戦の別働隊総大将を務めました。
しかし徳川家康に作戦を見抜かれ、長久手の戦いで敗戦。池田恒興・池田元助・森長可など羽柴勢の大将を戦死させるという失態を犯しました。
小牧長久手の戦いはなぜ起きたのか 関連記事
小牧長久手の戦いはなぜ和睦したのか
小牧長久手の戦いの結末は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、織田信雄・徳川家康と和睦し、最終的に臣従を誓わせています。
局地戦では負けなかった徳川家康らがなぜ秀吉に従うことになったかについては、下記の記事で詳しく説明しています。
豊臣兄弟!の小牧長久手の戦い
大河ドラマ「豊臣兄弟!」における小牧長久手の戦いは、34話以降に描かれます。
ドラマにおける小牧長久手の戦いの見どころについて紹介します。
小牧長久手の戦い 関連人物
羽柴小一郎長秀
羽柴小一郎長秀とは、のちの豊臣秀長のことです。
小牧長久手の戦いが始まった時期は「羽柴小一郎長秀」を名乗り、終わりごろの時期になると「羽柴美濃守秀長」と改名したと考えられています。
羽柴孫七郎信吉
羽柴孫七郎信吉とは、のちの豊臣秀次のことです。
小牧長久手の戦いが始まった時期は「羽柴孫七郎信吉」を名乗り、終わりごろの時期になると「羽柴孫七郎秀次」と改名したと考えられています。
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羽柴秀勝(於次丸)
羽柴秀勝は、もとは織田信長の五男で、羽柴秀吉の養嗣子です。
小牧長久手の戦いでは叔父にあたる羽柴小一郎長秀の補佐を受けながら、伊勢・美濃方面の戦線の総大将となりました。
織田信雄
織田信雄は、織田信長の次男です。
小牧長久手の戦いにおいて徳川家康と連合軍を形成し、羽柴秀吉と対抗しました。
本拠地が伊勢の長島城にあったことから、主に伊勢の戦線を担当し、羽柴秀勝(於次丸)・羽柴小一郎長秀らが率いる軍勢と対峙することになります。
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池田恒興
池田恒興は織田家の重臣で、織田信長とは乳兄弟の関係にあります。
小牧長久手の戦いの開戦当時は、美濃大柿(大垣)城主で、羽柴勢に加勢しました。
しかし1584(天正12)年4月9日に発生した長久手の戦いにおいて、長男の元助と婿の森長可とともに戦死しました。
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豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から第1話までのあらすじや、各週の流れについては下記の記事をご覧ください。
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豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
本能寺の変や山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、豊臣政権成立までの流れについては、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
これらの本の著者のうち黒田基樹さんと柴裕之さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 黒田基樹 羽柴秀長の生涯 (平凡社新書 1088)
- 柴裕之 羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書 679)
