小牧長久手の戦いでは、長久手の戦いで徳川家康が大勝利を収めました。
それにもかかわらず最終的には、同盟相手の織田信雄は羽柴秀吉と単独で講和し、徳川家康も戦いを終えることになります。
では、なぜ戦闘で優勢だった織田・徳川連合軍は和睦を選んだのでしょうか。
この記事では、織田信雄が単独講和に踏み切った理由や、徳川家康が戦いを終えた理由、さらに家康が豊臣秀吉に正式に臣従するまでの流れを史実に基づいてわかりやすく解説します。
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結論|小牧長久手の戦いはなぜ和睦した?
小牧長久手の戦いが和睦に至った最大の理由は、尾張方面の戦局が膠着する一方、美濃・伊勢方面では羽柴秀吉が優勢となり、織田信雄が単独講和を選択したためです。
信雄が秀吉に臣従したことで、信雄を支援するという大義名分を失った徳川家康も戦いを継続できなくなりました。
その後も家康は直ちに臣従することはありませんでしたが、秀吉が紀州征伐・四国征伐・越中攻めなどによって周辺勢力を平定し、朝廷での地位も急速に高めたことで、1586(天正14)年10月27日に正式に臣従することになります。
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小牧長久手の戦いを簡単におさらい
小牧長久手の戦いは、賤ヶ岳の戦い後に織田家内部で起きた、織田信雄と羽柴秀吉の政治的対立から始まりました。
織田家の名代である信雄と、天下の政務を主導し始めた宿老・秀吉の関係は次第に悪化し、信雄は秀吉との取次を務めていた三家老を殺害します。
これを受けて徳川家康が信雄を支援を表明し、尾張に出陣。1584(天正12)年、小牧長久手の戦いが始まりました。
戦闘では長久手の戦いで徳川家康が勝利したものの、その後は戦線が膠着し、最終的には外交交渉によって戦争が終結することになります。
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小牧長久手の戦いで織田信雄はなぜ単独で和睦したのか?
織田信雄が同盟相手の徳川家康と協議することなく、羽柴秀吉と和睦した主な理由は、本拠地である伊勢長島城の落城が目前に迫ったためです。
長久手の戦い以降における戦闘の推移
1584(天正12)4月9日の起きた長久手の戦いでは徳川家康が、羽柴秀吉の甥・羽柴孫七郎信吉が率いる、別働隊1万6,000もの軍勢のうち、3人の大将(池田恒興・元助・森長可など)と1万以上の将兵を討ち取るという大勝利に終わりました。
しかし長久手の戦い以降、尾張方面で両軍の本隊同士が衝突する戦闘は縮小。膠着状態に陥ります。
代わりに主な戦闘は、その周辺諸国である美濃・伊勢方面で局地戦へと移っていきます。
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羽柴秀吉が織田信雄の本拠地・伊勢長島城に迫る
これらの局地戦でも両軍は当初、互角の戦いでしたが、1584(天正12)8月ごろになると兵力と物量に優る羽柴勢が、織田信雄・徳川家康連合軍よりも優勢にたち始めました。
同年9月に入ると信雄・家康の側から秀吉に対して講和を持ちかけるようになりますが、尾張における領土割譲や人質提出の条件などが合わず講和は成立しませんでした。
しかし講和交渉が決裂したのちに両軍の戦闘が再開。
羽柴勢は、信雄の領国の一部である南伊勢の攻略を成し遂げ、10月末には秀吉自身が信雄の本拠地・伊勢長島城と目と鼻の先にある桑名にまで迫ってきました。
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織田信雄が単独で講和を優先した
信雄は「秀吉迫る」の急報を浜松城に在城していた徳川家康に知らせ、家康は清須城まで出陣。しかし尾張西部から伊勢にかけて羽柴勢が優勢に戦を進めていたこともあり、家康はそれ以上西へ軍を進めることはできませんでした。
こうして信雄は1584(天正12)11月15日にわずかな供を連れて、秀吉の陣所を訪問。
同盟軍である徳川家康と協議することなく、和睦を結ぶことになります。和睦といっても秀吉が長島城の目前にまで迫ってきてからの講和なので、実質的には「降伏」と同じです。
このとき秀吉が信雄に突きつけた和睦の条件は、主に以下の2点です。
- 信雄の領国のうち伊賀一国と南伊勢7郡の割譲
- 信雄・家康の双方から人質を提出すること
信雄の「降伏」によって織田家における主従関係が逆転。両者は主従関係から父子の関係に見直されますが、「父」は羽柴秀吉で、「子」が織田信雄に当たります。
織田信雄は羽柴秀吉に正式に従属
織田家における「主従関係」が逆転し「父子関係」に変わったことを明確に世間に示すため、織田信雄が大坂城にいる羽柴秀吉に出仕し臣従を誓うという儀式が必要です。
こうした一連の外交儀礼は通常、信雄との取次(外交)を担当する秀吉の家臣が中に入って実務を仕切ります。
しかし、秀吉と信雄はもともとは「主従関係」であったことから、秀吉の名代(代理人)を務めることができる、弟・羽柴秀長(のちの豊臣秀長)が担当しました。
秀長は1585(天正13)年1月に、織田信雄が大坂城に出仕する話をまとめ上げ、同年2月28日に織田信雄が大坂城に出仕。正式に羽柴秀吉と織田信雄の主従関係が結ばれることになりました。
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織田信雄が単独講和したのちの徳川家康の動向
徳川家康も織田信雄と同様に秀吉との戦闘を停止しますが、簡単には臣従しません。
家康が秀吉に臣従を誓うまでに約2年の歳月がかかりました。
家康は戦う大義名分を失った
もともと徳川家康は「織田信雄を助ける」という大義名分で小牧長久手の戦いに参戦しました。
そのため織田・徳川連合軍における名目的な立場は織田信雄の方が上です。
そのため1584(天正12)年11月15日に総大将である織田信雄が、秀吉の陣所を訪問して両者が和睦をしたことで、徳川家康も戦争を継続する大義名分を失うことになりました。
和睦はしても臣従はしない徳川家康
ただし徳川家康は織田信雄と違って容易に臣従しません。
なぜなら小牧長久手の戦いは、尾張・美濃・伊勢での戦闘だけではなく、その他の地域でも「外交戦」が展開されていたからです。
その中でも特に秀吉に対抗していた勢力が、紀州の根来衆・雑賀衆、四国の長宗我部元親、越中の佐々成政です。
家康自身も東海地方と甲斐・信濃の合計5か国の大領主であり、しかも関東の北条氏政とは政略結婚を通じて、姻戚関係にあります。
秀吉は家康が臣従しなければならない理由を作り出した
秀吉自身もこうした日本各地の勢力関係がよく分かっています。
そのため家康を臣従させるために、家康の領国を直接攻撃することはありませんでした。
代わりに、
- 紀州征伐(1585年3月)
- 四国征伐(1585年5月)
- 越中攻め(1585年7月)
などを行い、家康と結託しそうな周辺勢力を討伐することから手をつけていきます。
秀吉はこうした軍事行動に加えて、朝廷に対する政治工作も積極的に仕掛けました。
小牧長久手の戦い当時、徳川家康の官位は「従五位下三河守」に過ぎなかったのに対し、秀吉は朝廷に働きかけ、自らの官位を短期間のうちに高めていきます。
| 日付 | 羽柴秀吉の官位 |
|---|---|
| 1584年10月2日 | 従五位下 左近衛少将 |
| 1584年11月22日 | 従三位 権大納言 |
| 1585年3月2日 | 従二位 内大臣 |
| 1585年7月11日 | 従一位 関白 |
家康が秀吉に臣従することを決めた最後の理由
こうして秀吉は軍事と、朝廷に対する政治工作の2つの側面から、徳川家康を秀吉に臣従せざるを得ないという状況を固めていきます。
最終的には家康は1586(天正14)年10月26日に上洛し、翌27日に聚楽第の大広間で居並ぶ諸国の大名たちの前で、秀吉に臣従を誓いました。
徳川家康が豊臣秀吉に正式に臣従することを誓った理由は、秀吉の妹である朝日姫(「豊臣兄弟!」のあさひにあたる女性)を正室に迎え、「豊臣秀吉の義弟」という、実弟・豊臣秀長に匹敵する政治的地位を手に入れたためであると考えられています。
FAQ | 小牧長久手の戦いの和睦についてよくある質問
Q. 小牧長久手の戦いはなぜ和睦した?
A. 尾張方面では戦局が膠着する一方、美濃・伊勢方面では羽柴秀吉が優勢となり、織田信雄が単独講和を選んだからです。
Q. 徳川家康は負けたのですか?
A. 戦闘では負けていません。
長久手の戦いでは大勝利を収めましたが、織田信雄が単独で秀吉と和睦したため、戦争を続ける大義名分を失いました。
Q. 織田信雄は徳川家康を裏切ったのですか?
A. 家康に相談せず秀吉と講和したため、そのように評価されることもあります。
ただし、羽柴軍が伊勢へ迫る中で領国を守る必要があり、信雄には講和を急ぐ事情がありました。
Q. 豊臣秀吉はなぜ最終的に勝てたのですか?
A. 長久手では敗れたものの、美濃・伊勢方面で優位に立ち、さらに外交や朝廷工作によって織田信雄・徳川家康を孤立させたためです。
戦術では家康、戦略では秀吉が勝利した戦いと評価されています。
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小牧長久手の戦いはなぜ起きたのか
1584(天正12)年3月から11月の小牧長久手の戦いが起きた主な理由は、賤ヶ岳の戦い後に織田家内部で起きた、名代の織田信雄と宿老の羽柴秀吉の政治的対立です。
豊臣兄弟!の小牧長久手の戦い
大河ドラマ「豊臣兄弟!」における小牧長久手の戦いは、34話以降に描かれます。
ドラマにおける小牧長久手の戦いの見どころについて紹介します。
小牧長久手の戦い 関連人物
羽柴小一郎長秀
羽柴小一郎長秀とは、のちの豊臣秀長のことです。
小牧長久手の戦いが始まった時期は「羽柴小一郎長秀」を名乗り、終わりごろの時期になると「羽柴美濃守秀長」と改名したと考えられています。
羽柴孫七郎信吉
羽柴孫七郎信吉とは、のちの豊臣秀次のことです。
小牧長久手の戦いが始まった時期は「羽柴孫七郎信吉」を名乗り、終わりごろの時期になると「羽柴孫七郎秀次」と改名したと考えられています。
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羽柴秀勝(於次丸)
羽柴秀勝は、もとは織田信長の五男で、羽柴秀吉の養嗣子です。
小牧長久手の戦いでは叔父にあたる羽柴小一郎長秀の補佐を受けながら、伊勢・美濃方面の戦線の総大将となりました。
織田信雄
織田信雄は、織田信長の次男です。
小牧長久手の戦いにおいて徳川家康と連合軍を形成し、羽柴秀吉と対抗しました。
本拠地が伊勢の長島城にあったことから、主に伊勢の戦線を担当し、羽柴秀勝(於次丸)・羽柴小一郎長秀らが率いる軍勢と対峙することになります。
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池田恒興
池田恒興は織田家の重臣で、織田信長とは乳兄弟の関係にあります。
小牧長久手の戦いの開戦当時は、美濃大柿(大垣)城主で、羽柴勢に加勢しました。
しかし1584(天正12)年4月9日に発生した長久手の戦いにおいて、長男の元助と婿の森長可とともに戦死しました。
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豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から第1話までのあらすじや、各週の流れについては下記の記事をご覧ください。
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豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
本能寺の変や山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、豊臣政権成立までの流れについては、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
これらの本の著者のうち黒田基樹さんと柴裕之さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 黒田基樹 羽柴秀長の生涯 (平凡社新書 1088)
- 柴裕之 羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書 679)
