「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名で恐れられた佐久間盛政(さくまもりまさ)の最後(最期)は、賤ヶ岳の戦いで敗れたあとに捕らえられ、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)によって処刑されたと広く伝えられています。
しかし、その最期の様子を詳しく伝える史料は限られており、有名な逸話の多くは江戸時代初期に成立した「川角太閤記」や「甫庵太閤記」の内容に基づくものです。
この記事では、賤ヶ岳の戦いで敗れた経緯から捕縛、そして処刑までの流れを整理するとともに、「どこまでが史実として確認できるのか」という点についても解説します。
▼要点まとめ
・佐久間盛政は賤ヶ岳の戦いで敗北した後に捕らえられた
・秀吉の家臣になるよう勧められたという逸話が伝わる
・主君・柴田勝家が自害したのち最終的には京都で処刑されたとされる
・最期の詳しい様子は「川角太閤記」や「甫庵太閤記」などの軍記物が伝えている
・軍記物の記述は史実と創作を区別して読む必要がある
・大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも佐久間盛政(遠藤雄弥)の最後に注目
→ 賤ヶ岳の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説
→ 柴田勝家の最期
→ 豊臣兄弟! 佐久間盛政(遠藤雄弥)とは?
結論|佐久間盛政の最後は「処刑」が有力だが、最期の逸話は軍記物によって伝えられている
佐久間盛政は、1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた賤ヶ岳の戦いで敗北したあと越前で捕らえられ、その後処刑されたと考えられています。
このことから佐久間盛政の死因は、一般には1583(天正11)年5月12日に京都で処刑(斬首)されたことと考えられています。
ただし、
・秀吉が家臣になるよう説得した
・盛政がこれを拒否した
・自ら京都市中の引き回しを望んだ
といった有名な逸話は、「川角太閤記」や「甫庵太閤記」など後世に成立した軍記物によって伝えられたものです。
そのため、「佐久間盛政は処刑された」という点は広く受け入れられている一方、最期の細かなやり取りについては、そのまま史実と断定することはできません。
→ 賤ヶ岳の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説
→ 柴田勝家の最期
→ 豊臣兄弟! 佐久間盛政(遠藤雄弥)とは?
佐久間盛政の最後
賤ヶ岳の戦いで敗北
佐久間盛政の運命を決定づけたのが、1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた賤ヶ岳の戦いです。
羽柴秀吉は北近江で柴田勝家と対峙していましたが、岐阜城の織田信孝が挙兵したことに対応するため、美濃・大垣城へ約2万の本隊を率いて転戦していました。
この機を見た柴田勝家は、甥である佐久間盛政に別働隊として残った羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)の軍勢を目掛けて攻撃を命令。
盛政は、
・大岩山砦(中川清秀)
・岩崎山砦(高山右近)
・賤ヶ岳砦(桑山重晴)
へ次々と攻撃を仕掛けました。
まず大岩山砦では中川清秀を討ち取ることに成功し、羽柴勢を大きく圧倒します。
秀吉の「美濃大返し」で形勢逆転
しかしこのときの小一郎は配下の諸将に対して軍勢を陣の外に出さないように厳しく命令。佐久間盛政が羽柴軍の陣地深くまで攻め込むよう誘導します。
この間に兄・羽柴秀吉の本軍が盛政の予想より一日早く北近江へ帰還。いわゆる「美濃大返し」と言われる電撃戦です。
秀吉率いる約2万の本隊が賤ヶ岳へ到着すると、盛政は岩崎山砦と賤ヶ岳砦への攻撃を中止。
急いで柴田勝家の本隊と合流しようと退却を開始しました。
ところが、秀吉本隊はすぐさま反撃に転じます。
さらに羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)も柴田勢の本陣へ進軍を開始。
世にいう「賤ヶ岳の戦い」とは、この退却する佐久間盛政を羽柴秀吉が追撃した戦いとして知られています。
→ 賤ヶ岳の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説
→ 豊臣秀長とは?
北庄城へ戻れず越前で捕縛される
賤ヶ岳の戦いに敗れた盛政は、柴田勝家が率いる本隊との合流を図ろうとします。
しかしここで「佐久間盛政にとって信じられない事態が発生。佐久間盛政と柴田勝家をつなぐ中継地点の砦にいた前田利家・利長親子が加勢をしてくれる様子がありません。それどころか彼らは無断撤退を始める始末でした。
前田利家らによる実質的な「裏切り行為」により戦況は急速に悪化し、柴田勝家は本拠地がある越前・北庄城への全面撤退を余儀なくされます。
一方、佐久間盛政は北近江の戦場から離脱して落ち延びようとしますが、その途中で捕らえられたようです。
どこで捕らえられたのかについては、
・越前山中
・敦賀付近
・越前府中付近
など諸説があります。
なお同年4月23日までには羽柴秀吉は北庄城の攻囲を完成させ、翌24日には柴田勝家とお市夫妻を自害に追い込みました。
→ 前田利家はなぜ裏切ったのか?
→ 柴田勝家の最期
→ お市の最期
佐久間盛政 処刑までの経緯(國學院大学 名誉教授・桑田忠親氏の見解)
捕らえられた佐久間盛政は、その後京都の槇島(現在の京都府宇治市付近)へ護送されたと伝えられています。
そして天正11(1583)年5月12日、京都市中を引き回された後に処刑されたとされています。
ただし、この一連の経緯を詳しく伝える史料は、一次史料ではなく江戸時代初期に成立した軍記物が中心です。
豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学名誉教授である故・桑田忠親氏も著作「豊臣秀吉研究 上」において、佐久間盛政の最後(最期)の様子を伝えていますが、「川角太閤記」と「甫庵太閤記」から引用した話であると断った上で紹介しています。
「川角太閤記」と「甫庵太閤記」は、賤ヶ岳の戦いから数十年後に成立した軍記物です。
佐久間盛政の最期の様子についてはやや割り引いて捉える必要があるでしょう。
「川角太閤記」が伝える最期
佐久間盛政の最期として最もよく知られている話は、「川角太閤記」に記されています。
それによれば、盛政は越前敦賀付近の山中で百姓に見つかり、寝込みを襲われて捕らえられました。
秀吉は盛政の武勇を惜しみ、縄を解いて丁重に槇島まで護送するよう命じた一方、盛政を捕らえた百姓たちは処刑したとされています。
さらに秀吉は、盛政ほどの武将であれば家臣として迎えたいと考え、蜂須賀正勝を使者として送り、
一国を与えるので仕えないか
と説得したとも伝えられています。
しかし盛政は、
柴田勝家が滅んだ以上、生き永らえる理由はない
として申し出を断ったとされています。
京都市中引き回しを望んだという逸話
「川角太閤記」では、さらに有名な逸話も紹介されています。
秀吉が、
最後に望みはあるか
と尋ねると、盛政は
京都市中を車に乗せられ、縄目を受けた姿を人々に見せてほしい。
そうすれば秀吉公の威光は天下に知れ渡るでしょう。
と答えたとされています。
秀吉はこの願いを受け入れ、盛政に死装束を与えます。
ところが盛政は、
この着物では見栄えが悪い。
として別の小袖を希望したとも伝えられています。
最後まで武将としての誇りを失わなかった人物として描かれている点が、この逸話の特徴です。
「甫庵太閤記」でもほぼ同様の話が伝わる
江戸時代初期に成立した「甫庵太閤記」でも、秀吉が盛政の武勇を惜しみ、召し抱えようとしたものの断られたという話が紹介されています。
また、
・最後まで柴田勝家への忠義を貫いたこと
・秀吉がその忠節を高く評価したこと
なども共通して描かれています。
現在一般に広く知られている
・「秀吉の勧誘を拒否した」
・「堂々と引き回しを望んだ」
という逸話は、「川角太閤記」と「甫庵太閤記」によって広く伝わったものと言えるでしょう。
「川角太閤記」と「甫庵太閤記」とは?
佐久間盛政の最期を語るうえで欠かせない史料が、「川角太閤記」と「甫庵太閤記」です。
どちらも豊臣秀吉の生涯を描いた軍記物ですが、秀吉やその家臣たちが活躍した時代から少し後になって成立した書物であるため、史実だけでなく逸話や脚色も含まれていると考えられています。
川角太閤記(かわすみたいこうき)とは
「川角太閤記(かわすみたいこうき)」は、江戸時代初期に川角三郎右衛門(かわすみさぶろうえもん)がまとめた軍記物です。
川角三郎右衛門は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名である田中吉政に仕えた人物とされ、豊臣家ゆかりの人々から伝え聞いた話をもとに本書を編さんしたと考えられています。
佐久間盛政の捕縛や秀吉とのやり取り、京都市中引き回しの逸話などは、この「川角太閤記」によって現在まで広く伝えられています。
甫庵太閤記(ほあんたいこうき)
「甫庵太閤記(ほあんたいこうき)」は、儒学者・小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期の1616(元和2)年ごろに著した軍記物です。
正式な書名は「太閤記」ですが、同名の作品と区別するため、一般には著者名を付けて「甫庵太閤記」と呼ばれています。
戦国時代から江戸時代初期にかけて最も広く読まれた太閤記の一つであり、江戸時代の人々が抱いた豊臣秀吉像にも大きな影響を与えました。
佐久間盛政が秀吉から仕官を勧められながらも柴田勝家への忠義を貫いたという逸話も、この「甫庵太閤記」に見ることができます。
豊臣兄弟! 佐久間盛政の最後(最期)
NHKは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の公式ガイドブックにおいて、33話「市の最期」で賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(池松壮亮)に大敗した柴田勝家(山口馬木也)とお市(宮﨑あおい)が最期を迎える様子を伝えています。
ただしこのあらすじを見る限り、佐久間盛政が処刑されることについては言及されていません。
史実では、賤ヶ岳の戦いの敗北後に佐久間盛政は捕らえられ、その後処刑されたと伝えられています。
ドラマでも史実に沿って描かれるのであれば、柴田勝家の滅亡後、遠藤雄弥さんが演じる佐久間盛政も最期を迎える可能性が高いでしょう。
→ 豊臣兄弟! 33話「市の最期」あらすじ
→ 豊臣兄弟! 佐久間盛政(遠藤雄弥)とは?
FAQ|佐久間盛政の最後について
Q. 佐久間盛政の最後(最期)はどうなりましたか?
A. 賤ヶ岳の戦いで敗れたあと越前で捕らえられ、京都へ送られて処刑されたと考えられています。
Q. 佐久間盛政の死因は何ですか?
A. 一般的には、1583(天正11)年5月12日に京都で処刑(斬首)されたことが死因とされています。
Q. 秀吉は佐久間盛政を助けようとしたのですか?
A. 「川角太閤記」や「甫庵太閤記」では、秀吉が家臣になるよう勧めたものの、盛政が柴田勝家への忠義を理由に断ったと伝えています。
ただし、この逸話は軍記物による記述であり、史実として断定することはできません。
Q. 京都市中の引き回しを望んだという話は本当ですか?
A. この話も「川角太閤記」などに見られる逸話です。
現在では有名なエピソードですが、一次史料で確認できる事実ではないため、史実と伝承を区別して読む必要があります。
佐久間盛政 最後 関連人物
柴田勝家の最後(最期)
主君・柴田勝家が北庄城で迎えた最後について詳しく紹介しています。
→ 柴田勝家の最期
お市の最後(最期)
柴田勝家とともに北庄城で自害した、お市の最期を解説しています。
→ お市の最期
豊臣秀長とは
豊臣秀長は賤ヶ岳の戦いの当時は羽柴小一郎長秀を名乗っていました。
賤ヶ岳の戦いの前半において小一郎は、柴田勝家や佐久間盛政らの軍勢をわざと引き付けておく役割を担っていました。
桑山重晴とは
桑山重晴は豊臣秀長の筆頭家老として知られた人物です。
賤ヶ岳の戦いでは賤ヶ岳砦の守る大将として佐久間盛政の猛攻撃を防戦する役割を担っていました。
豊臣兄弟!佐久間盛政とは?
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で描かれる佐久間盛政の役柄や見どころについて紹介しています。
豊臣兄弟! 桑山重晴とは?
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で描かれる桑山重晴の役柄や見どころについて紹介しています。
佐久間盛政 最後 関連する歴史的事件
賤ヶ岳の戦いとは?
佐久間盛政が活躍し、そして敗北した賤ヶ岳の戦いについて詳しく解説しています。
前田利家の裏切り
佐久間盛政は賤ヶ岳の戦いの後半で羽柴秀吉の追撃を受け敗れたというイメージがあります。
しかし、佐久間盛政の敗北を決定づけたのは、前田利家らによる「裏切り行為」であると考えられています。
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (角川選書 1403)
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
