「豊臣兄弟!」の26話から登場する羽柴秀勝(於次丸)は、織田信長の五男として生まれ、のちに羽柴秀吉・寧々夫妻の養子となった戦国武将です。
本能寺の変後には丹波亀山城主となり、大徳寺で行われた信長の葬儀では喪主も務めました。
しかし1585(天正13)年、18歳という若さで亡くなります。
その死によって秀吉の後継者問題にも大きな影響が生じました。
▼ 羽柴秀勝(於次丸)の死因 要点まとめ
・織田信長の五男
・羽柴秀吉の養子
・丹波亀山城主
・1585(天正13)年12月20日に死去
・死因は病死と考えられる
・享年18
・領地は秀吉の甥・豊臣秀勝(小吉)が継承
・秀吉の後継者候補だった
この記事では、羽柴秀勝(於次丸)の死因や最期、その後の領地と歴史への影響について解説します。
→ 羽柴秀勝(於次丸)とは誰?豊臣秀吉・寧々の養子となった織田信長の五男を解説
結論|羽柴秀勝(於次丸)の死因とは?
・1585(天正13)年12月20日に死亡
・享年18
・死因は病死と考えられている
・丹波亀山城主だった
・死後は小吉秀勝が領地を継承
・生きていれば秀吉の後継者になった可能性もあった
→ 羽柴秀勝(於次丸)とは誰?豊臣秀吉・寧々の養子となった織田信長の五男を解説
豊臣兄弟!で羽柴秀勝の最期はどう描かれる?
清須会議後の羽柴家を支える存在
「豊臣兄弟!」では羽柴秀吉(池松壮亮)と寧々(浜辺美波)の養子として、第26話「信長を笑わせろ」以降、羽柴家と織田家を繋ぐ重要人物として描かれます。
羽柴秀勝(柊木陽太)は、本能寺の変ののちに行われた「清須会議」の決定により丹波亀山城主に。さらに大徳寺で行われた信長の葬儀では喪主を務めることに。
→ 「豊臣兄弟!」 第26話「信長を笑わせろ」あらすじ
→ 清須会議とは?会議で決められたこととは?
その後は若くして病死
しかし実際の歴史において、羽柴秀勝は1585(天正13)年12月20日に死去。
まだ18歳の若さでした。
「豊臣兄弟!」のNHK公式ガイドブックの「あらすじ」では、1583(天正11)年の時代である、33話「市の最期」までのストーリーが紹介されています。
そのため羽柴秀勝は、34話以降で死去してドラマから退場する可能性があるでしょう。
羽柴秀勝(於次丸)はいつ死んだ?
1585年12月20日に死亡
羽柴秀勝(於次丸)が亡くなったのは1585(天正13)年12月20日です。
享年18。
本能寺の変から約3年半後のことでした。
賤ヶ岳の戦いから小牧長久手の戦いで
羽柴秀勝は1583(天正11)年2月ごろから病気がちになっていたとみられます。
体調を悪くしていた時期は、ちょうど賤ヶ岳の戦い(1583年4月)や小牧長久手の戦い(1584年3月)が行われいた時期と重なります。
秀勝は小牧長久手の戦いにおいて、伊勢松ヶ島城の攻撃に参加したのち陣中で発病。1584(天正12)年5月に領国である丹波亀山に帰国することが許されています。
→ 賤ヶ岳の戦いとは(準備中)
→ 小牧長久手の戦いとは(準備中)
一時病状が回復 毛利輝元の養女と結婚
丹波亀山に帰国した秀勝の病状は一進一退を繰り返していたようです。
1584(天正12)年10月には病状でさらに悪化したものの、同年12月には病状が回復し、毛利輝元の養女と大坂城で結婚。
この毛利輝元の養女とは、毛利家の重臣・内藤元種(もとたね)の娘であると考えられています。
最終的には18才の若さで亡くなる
結婚したのち、1585(天正13)年正月には鷹狩りに出かけたと言う記録が残っているなど、体調がかなり回復したと見られます。
しかし「羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究)」の第1部「Ⅵ 御次秀勝と生母養観院」の記述に基づくと、最終的には羽柴秀勝は、同年の12月20日に死去しました。
当時の豊臣秀吉は紀州征伐・四国征伐を終えて関白に任官し、天下統一へ向けて勢力を急速に拡大中。
そんな時期に後継者候補だった秀勝を失ったことは、秀吉にとって大きな痛手だったと言えるでしょう。
羽柴秀勝(於次丸)の死因とは?
秀勝の正確な死因は不明
羽柴秀勝の死因は現在のところ分かっていません。
秀勝の詳しい死因について、「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんの著作である、
を読んでもその死因については言及されていません。
秀勝の死因は「病死」が最も妥当
羽柴秀勝は賤ヶ岳の戦いの2ヶ月前から病を発して、その病状は一進一退を繰り返していました。
そうした史実を考えると、羽柴秀勝の死因は「病死」と考えるのが最も妥当かもしれません。
羽柴秀勝(於次丸)の領地はどうなった?
羽柴秀勝の死後、丹波亀山領は豊臣秀勝(小吉)へ引き継がれました。
丹波亀山城主だった
羽柴秀勝は1585年12月20日に亡くなった時点で、亀山城主として丹波亀山の地を治めていました。
ただ秀勝と結婚していた毛利家の養女の間には子供がいなかったことから、羽柴秀勝の家系は一代で消えてしまいます。
死後は小吉秀勝が継承
代わりに丹波亀山の地を与えられた人物は、豊臣秀勝です。
豊臣秀勝は幼名が小吉(こきち)であり、前任者の羽柴於次丸秀勝と区別するために、研究者の間では「小吉秀勝(こきちひでかつ)」と呼ばれています。
なお、小吉秀勝は秀吉の姉・瑞竜院殿日秀尼(「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)の次男で、秀吉から見ると甥にあたる人物です。
「於次丸秀勝」から「小吉秀勝」へ交代する
羽柴秀勝が丹波亀山の地で亡くなったことによって
- 羽柴秀勝(於次丸)
- 豊臣秀勝(小吉)
の2人が続けて丹波亀山と関わることになります。
そのため両者は混同されやすい人物でもあります。
もし羽柴秀勝(於次丸)が生きていたら?
秀吉の正式な後継者になった可能性
もし秀勝が長生きしていたなら、秀吉の後継者となった可能性があります。
秀勝は信長の五男であり、秀吉の養子でもありました。
これは豊臣(羽柴)家と織田家の両方の血統的正統性を示せる立場でした。
日本史が変わった可能性も
実際の歴史では、
- 鶴松の誕生と夭逝
- 豊臣秀次の関白任官
- お拾(のちの豊臣秀頼)の誕生
- 豊臣秀次切腹事件
などによって後継者問題が大きく揺れ動きました。
こうした後継者問題の多くは、羽柴秀勝(於次丸)が早世したことによって発生した側面もあります。
もし秀勝が生き続けていたなら、豊臣家の後継体制はまったく違う形になっていたかもしれません。
関連記事|羽柴秀勝(於次丸)をさらに詳しく知りたい方へ
羽柴秀勝(於次丸)とは誰?
羽柴秀勝(於次丸)は元は織田信長の五男で、1580(天正8)年ごろまでには羽柴秀吉・寧々夫妻と正式に養子縁組をしていたと考えられています。
→ 羽柴秀勝(於次丸)とは誰?豊臣秀吉・寧々の養子となった織田信長の五男を解説
豊臣秀勝(小吉)とは誰?
豊臣秀勝(小吉)は豊臣秀吉・秀長兄弟の姉・瑞竜院殿日秀尼(「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)の次男です。
秀吉と秀長の兄弟とは叔父と甥の関係にあります。
羽柴秀勝は3人いた?
豊臣秀吉(羽柴秀吉)はその身内のうち、「秀勝」と名乗る男子は3人いたと考えられています。
下記の記事はそれぞれの「秀勝」の違いについて説明しています。
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (角川選書 1403)
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
