豊臣秀長には、正室・慈雲院(慶)のほかに、摂取院光秀や「きくの母」とされる女性たちが側室として存在していた可能性があります。
特に摂取院光秀は、豊臣秀長の長女「秀保の妻」の母と考えられており、豊臣秀長家の血統問題とも深く関わる女性です。
また、「きくの母」については史料が少ないものの、秀長の娘・きくの存在から、別の側室がいた可能性も指摘されています。
▼要点まとめ
・豊臣秀長には複数の側室がいた可能性がある
・摂取院光秀は「秀保の妻」の母と考えられている
・「きくの母」は名前・出自など不明
・側室たちは秀長家の血統問題とも関わる
・秀長家は「家督」と「血統」が複雑に分かれている
本記事では、豊臣秀長の側室たちについて、摂取院光秀や「きくの母」を中心に分かりやすく整理します。
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結論|豊臣秀長の側室たちは秀長家の血統問題とも関わっていた
豊臣秀長の側室として特に有名なのが、摂取院光秀です。
摂取院光秀は、秀長の長女「秀保の妻」の母と考えられており、豊臣秀長家の血統問題を考えるうえでも重要な人物です。
また、「秀保の妻」は、秀長の養嗣子・豊臣秀保の正室となった人物であり、「秀長家の家督」と「秀長の血統」が複雑に交差する存在でもありました。
また、「きくの母」とされる女性については詳細な史料が少ないものの、秀長には複数の側室が存在していた可能性があります。
豊臣秀長家は、養嗣子・豊臣秀保によって家督が継承された一方で、娘たちを通じた血統の継続可能性も指摘されており、側室たちの存在はその背景とも深く関わっています。
→ 「秀保の妻」とは誰?
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NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・小一郎(仲野太賀)はのちに豊臣秀長(1540~1591年)と呼ばれることになります。
その豊臣秀長には、長男・与一郎を出産した正室(正妻)の慈雲院(「豊臣兄弟!」にキャストされている吉岡里帆さんが演じる慶にあたる女性)の他に、2人の側室がいたと考えられています。その女性たちを表にすると以下の通りです。
1人目の側室: 摂取院光秀
豊臣秀長の1人目の側室は摂取院光秀または光秀尼という名前で知られています。「摂取院光秀」や「光秀尼」という名前は法名のことで、実名は分かっていません。
「豊臣兄弟!」で摂取院光秀に相当する女性が登場するならば、「寧々(浜辺美波)」や「直(白石聖)」のような俗世で使っていた名前で登場することになるでしょう。
摂取院光秀は大和国の筒井家に仕えていた秋篠伝左衛門尉の娘として、初めは秀長の女房衆として仕え、1587(天正15)年に秀長の長女(いわゆる「秀保の妻」)を出産したことで、側室(別妻)の立場に引き上げられたと考えられています。
2人目の側室: 「きく(大善院)の母」
豊臣秀長の側室としては摂取院光秀の存在は非常に有名ですが、実は側室と思われる女性が少なくともあと1人います。
なぜならその女性は豊臣秀長の次女となる「きく」もしく「おきく」と呼ばれる女の子を出産しているからです。
このことから「きくの母」の系統は毛利家との婚姻関係にもつながっていることが分かります。
きくは豊臣秀長の死後に豊臣秀吉の養子となり、毛利秀元に嫁ぎ、亡くなったときには「大善院」という法名をおくられていることが分かっています。
さらにきくの実母は正室の慈雲院でもなく、側室の摂取院光秀でないことも分かっています。
「きくの母」は出自どころか名前も不明であるため、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんは自著の中で秀長の側室として「きくの母」の存在を認めつつ、詳細について多くは説明していません。
きくの母については判明しない。誕生の時期から考えて、正妻の慈雲院でなかったことは間違いないだろう。では姉の秀保妻と同母であったろうか。しかし誕生年が一年違いでしかなかったことを見ると、その可能性は低いと思われる。秀保妻の母摂取院とは別人から生まれた可能性が高いと考えられる。
なお「きくの母」は1594(文禄3)年に、秀長の後継者である豊臣秀保と摂取院光秀の娘が結婚したときに、祝儀として進物を贈られていなかったことから、側室ではなく妾であった可能性も指摘されています。
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんと柴裕之さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
