池田恒興(いけだつねおき)は織田信長の乳兄弟として知られ、1582(天正10)年6月2日に発生した本能寺の変後には羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)を支持し、豊臣政権の成立に大きく貢献した戦国武将です。
山崎の戦い・清須会議・賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いなどで一貫して秀吉に協力し、秀吉が天下人への道を歩む過程で大きく貢献をした人物であったと言えるでしょう。
この記事では、池田恒興とはどのような武将だったのか、豊臣秀吉(羽柴秀吉)との関係や功績を中心に、史実をもとにわかりやすく解説します。
→ 本能寺の変とは?
→ 山崎の戦いとは?
→ 清須会議とは?
→ 小牧長久手の戦いはなぜ起きたのか?
→ 豊臣兄弟!池田恒興(堀井新太)とは?
→ 池田恒興の最後とは?
結論|池田恒興と豊臣秀吉の関係とは?
池田恒興とは、織田信長の乳兄弟として織田家を支えた重臣の1人でした。
本能寺の変で織田信長が亡くなった後は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による天下一統(天下統一)の事業に大きく貢献した武将です。
池田恒興が豊臣秀吉を支えた主な功績は次のとおりです。
・山崎の戦いで明智光秀討伐に参加
・清須会議後に秀吉による政治クーデターに参加
・領地であった摂津を秀吉に明け渡す
・小牧長久手の戦いで秀吉に味方し犬山城を占拠
池田恒興は、織田家の家臣という立場から、豊臣政権の成立に大きく貢献した武将の一人でした。
→ 本能寺の変とは?
→ 山崎の戦いとは?
→ 清須会議とは?
→ 小牧長久手の戦いはなぜ起きたのか?
→ 豊臣兄弟!池田恒興(堀井新太)とは?
→ 池田恒興の最後とは?
池田恒興とは?
織田信長の乳兄弟として育つ
池田恒興は1536(天文5)年に誕生。
母・養徳院(ようとくいん)は織田信長の乳母を務めていたため、恒興は幼いころから信長とともに育ちます。
このため池田恒興は「信長の乳兄弟」と呼ばれ、生涯にわたって厚い信任を受けました。
若いころから織田家に仕え、
・桶狭間の戦い
・美濃攻め
・伊勢攻め
・長島一向一揆
・石山本願寺攻め
など数多くの合戦に従軍しています。
有岡城の戦いで摂津各地を転戦
さらに「信長公記」を読むと、池田恒興は1578(天正6)年に荒木村重が反旗を翻した有岡城の戦いでの活躍が目立ちます。
1579(天正7)年9月2日に荒木村重が有岡城から尼崎城へ、さらに花熊城へ逃亡すると、池田恒興はその後を追って、1580(天正8)年7月に尼崎・花熊の2城を攻略。
その恩賞として池田恒興には有岡城が与えられることになります。
池田恒興は山崎の戦いで羽柴秀吉に味方
山崎の戦いで羽柴勢の第二陣として参加
1582(天正10)年6月2日、本能寺の変によって織田信長が討たれます。
事件当時、池田恒興は摂津に在国していました。
備中高松城へ出陣する準備を進めていた恒興は、信長の死を知るとただちに羽柴秀吉と行動をともにします。
秀吉は毛利氏との講和を成立させて、6月11日には摂津の尼崎まで帰還。
池田恒興はこの尼崎で羽柴秀吉に合流し、木村隼人・中村一氏・加藤光泰らともに羽柴勢の第二陣に加わりました。
→ 本能寺の変とは?
明智勢の側面を攻撃
6月13日の午後4時ごろから始まった山崎の戦いは、緒戦において羽柴勢の先鋒・中川清秀と高山右近が、明智勢の斎藤利三らに苦戦を強いられます。
しかし、羽柴勢の第一陣である羽柴小一郎長秀と黒田官兵衛が天王山で戦線を支えている間に、羽柴勢の第二陣が主戦場に到着。形勢は次第に明智勢から羽柴勢の有利に変わっていきました。
このとき羽柴勢の第二陣として出撃した池田恒興は、自らの軍勢を山崎の東側に展開し、明智勢の左翼を突く活躍をしたと言われています。
池田恒興は清須会議でも羽柴秀吉を支持
清須会議における池田恒興の立場
山崎の戦いから約半月後の1582(天正10)年6月27日、尾張国の清須城で清須会議が開かれます。
この清須会議では、
・織田家の運営体制
・山崎の戦いにおける論功行賞
などが決定されました。
池田恒興は、
・柴田勝家
・羽柴秀吉
・丹羽長秀
とともに織田家重臣の1人として会議へ参加。
このとき池田恒興は、織田家の新しい当主となった織田信長の嫡孫・三法師を直接補佐する重臣の1人となっています。
→ 清須会議とは?
→ 丹羽長秀とは?
→ 柴田勝家とは?
→ 三法師とは?
なぜ池田恒興は秀吉を支持したのか?
清須会議において池田恒興が秀吉を支持した理由について、一次史料には明確な記録が残っていません。
堺屋太一氏の小説「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」を読むと、恒興が秀吉を支持した理由は、秀吉が恒興による摂津西部の支配を認めたからとあります。
この記述が、必ずしも史実を言い表しているかどうかは分かりません。
しかし有岡城の戦い以降、池田恒興は摂津国でも特に西に位置する伊丹・尼崎・花熊を転戦し、中西新八郎など荒木村重の与力武将を自分の味方に引き入れたことは「信長公記」の記述から事実のようです。
これらの戦の過程において、池田恒興は自分の家来たちや、味方についてくれた西摂津の国衆・地侍たちを数多く負傷または戦死させていたことでしょう。
そんな彼らに報いるために、池田恒興に摂津の地に執着心があったとしても何ら不思議はありません。
羽柴秀吉はこうした池田恒興の戦歴をよく把握し、その意向を汲んでくれたからこそ、秀吉を支持したと推測できます。
会議の結果、池田恒興は大坂城に、長男・元助は伊丹城(有岡城)に、次男・照政は兵庫城にそれぞれ移ることになりました。
羽柴秀吉の政治クーデターにも同調
清須会議で織田家の新しい運営体制が決まりましたが、次第に羽柴秀吉の専横が目立つようになります。
柴田勝家はこうした秀吉の動きに強い反発を示しますが、丹羽長秀・池田恒興の2名は秀吉に同調
清須会議が行われた約4ヶ月後である1582(天正10)年10月28日、羽柴秀吉は政治的クーデターを実行。
織田家の当主は三法師であったにも関わらず、この体制を骨抜きにして、信長の次男である織田信雄が実質的な当主となる体制に転換しました。
このクーデターには丹羽長秀と池田恒興も参加。この時点で池田恒興は完全に「秀吉派の織田家重臣」であったと言って良いでしょう。
→ 丹羽長秀とは?
→ 柴田勝家とは?
→ 織田信雄とは?織田信長の次男
池田恒興は賤ヶ岳の戦い以降も一貫して秀吉を支持
摂津大坂の地を明け渡す
羽柴秀吉が1583(天正11)年4月に起きた賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家とその一族を殲滅すると、実質的に「織田家No.1」の実力者となります。
秀吉は自らの権威を高めるために、「織田家の政庁」という機能を持った安土城を凌ぐ、「天下の政庁」としての城を摂津の大坂に築くことを構想。
このときも池田恒興は羽柴秀吉に協力。長年にわたって勝ち取った摂津大坂の地を秀吉に明け渡し、自らは美濃大垣(大柿)に国替えをしてもらうことになります。
池田恒興の娘が豊臣秀次の正室・若政所に
また池田恒興と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は親戚関係にもあります。
池田恒興の娘たちのうち1人は実名(じつみょう)が不明ながら「若政所(わかまんどころ)」と呼ばれ、羽柴秀吉の甥・三好信吉(のちの羽柴秀次、豊臣秀次)の正室として1583(天正11)年ごろに結婚していたと考えられています。
こうした親戚関係は池田恒興と羽柴秀吉の絆をより深めることになったでしょう。
→ 三好信吉とは?のちの豊臣秀次のこと
→ 若政所とは?池田恒興の娘で豊臣秀次の正室
小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉に味方
賤ヶ岳の戦いののち、織田家の名代である織田信雄と宿老である羽柴秀吉の政治勢力が激突。
1584(天正12)年3月から11月にかけて羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の間で小牧長久手の戦いが始まります。
当初、徳川家康は池田恒興は調略をすれば味方につくと考えていたようです。
しかし池田恒興は秀吉との長年の関係、さらには姻戚関係にあったことを重視し、羽柴秀吉に味方。大垣城で挙兵をし、織田信雄・徳川家康連合軍の重要拠点であった犬山城の奪取に成功します。
ただ犬山城を占拠した後、池田恒興は活躍することはありませんでした。
その後の池田恒興の動向については下記の記事が参考になるでしょう。
→ 織田信雄とは?織田信長の次男
→ 小牧長久手の戦いはなぜ起きたのか?
→ 池田恒興の最後とは?
FAQ|池田恒興と豊臣秀吉の関係
Q. 池田恒興とはどんな武将ですか?
A. 池田恒興は、織田信長の乳兄弟として知られる織田家の重臣です。
本能寺の変後は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)を支持し、山崎の戦い・清須会議・賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いなどで活躍しました。
Q. 池田恒興はなぜ羽柴秀吉(豊臣秀吉)を支持したのですか?
A. 一次史料には明確な理由は記されていません。
ただし、山崎の戦いで秀吉と協力したことに加え、清須会議後に摂津西部の支配を認められたことや、娘が秀吉の甥・豊臣秀次(当時は三好信吉)の正室となり姻戚関係を結んだことが、秀吉を支持した理由の一つと考えられています。
Q. 池田恒興と豊臣秀吉の関係は?
A. 本能寺の変以前は、ともに織田信長に仕えた重臣同士でした。
しかし信長の死後は、池田恒興は一貫して羽柴秀吉を支持し、豊臣政権成立を支えた有力武将の一人となりました。
Q. 池田恒興の功績は何ですか?
A. 山崎の戦いで明智光秀討伐に参加し、清須会議では秀吉を支持しました。
さらに摂津大坂の地を秀吉へ譲って大坂城築城に協力し、小牧長久手の戦いでも羽柴軍として参戦するなど、豊臣政権成立に大きく貢献しています。
Q. 池田恒興は豊臣秀吉の家臣だったのですか?
A. 織田信長の存命中は織田家の家臣でした。
本能寺の変後は羽柴秀吉に従い、豊臣政権を支える重臣として活動しています。
池田恒興に関連する人物たち
池田恒興: 信長死後に羽柴秀吉に接近
池田恒興は織田信長の乳兄弟で織田家の家臣でした。
本能寺の変で信長が死去したのち、羽柴秀吉と急速に接近することになります。
→ 池田恒興の最後とは?
→ 豊臣兄弟!池田恒興(堀井新太)とは?
織田信長: 池田恒興の最初の主君
織田信長は池田恒興の乳兄弟であり主君でした。
明智光秀: 本能寺の変の首謀者
明智光秀は本能寺の変の首謀者で、池田恒興の主君・織田信長を自害に追い込みました。
池田恒興は本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智光秀討伐軍に参加しました。
柴田勝家: 清須会議ののち秀吉・恒興と対立
柴田勝家は清須会議ののち羽柴秀吉と激しく対立した重臣です。
秀吉を支持していた恒興にとって、勝家とは間接的に対立していたと言えるでしょう。
丹羽長秀: 清須会議ののち恒興とともに秀吉を支持
丹羽長秀は、清須会議ののち、池田恒興とともに秀吉支持に回った重臣です。
織田信雄: 小牧長久手の戦いで敵対関係に
織田信雄は織田信長の次男です。
織田家の家臣であった池田恒興から見ると主筋にあたりますが、小牧長久手の戦いでは敵対関係になります。
三好信吉(のちの羽柴秀次・豊臣秀次): 恒興の婿
三好信吉とは、のちの羽柴秀次・豊臣秀次であり、池田恒興の婿にあたります。
若政所: 池田恒興の娘
若政所(わかまんどころ)は、池田恒興の娘で三好信吉の正室です。
池田恒興に関連する歴史的事件
本能寺の変
本能寺の変は1582(天正10)年6月2日早朝に織田信長が明智光秀に討たれた事件です。
山崎の戦い
山崎の戦いは1582(天正10)年6月13日、山城国の山崎において羽柴秀吉が明智光秀を討った合戦です。
清須会議
「清須会議」は1582(天正10)年6月27日に、尾張国の清須城において、信長亡き後の織田家の運営体制を決めるために開催された会議です。
小牧長久手の戦い
小牧長久手の戦いは1584(天正12)3月から11月にかけて、主に尾張・伊勢・美濃の各地を戦場とした、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の間で行われた戦いです。
→ 小牧長久手の戦い なぜ発生したのか?
→ 小牧長久手の戦い なぜ両軍は和睦したのか?
→ 豊臣兄弟! 小牧長久手の戦いとは?
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (角川選書 1403)
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
- 堺屋太一 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)
- 河内将芳 図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石 戎光祥出版
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
