大河ドラマ「豊臣兄弟!」の33話「市の最期」以降に注目される人間関係の1つが茶々と寧々の関係です。
茶々は豊臣秀吉の側室として豊臣秀頼を生んだ女性であり、後に淀殿(淀君)として知られます。
一方の寧々は、秀吉がまだ木下藤吉郎秀吉と呼ばれていた頃から苦楽を共にした正室(正妻)であり、後に北政所(きたのまんどころ)と呼ばれる女性です。
ドラマや小説では、
・寧々と茶々は対立していた
・茶々は寧々を追い落とした
・寧々は茶々を嫌っていた
と描かれることがあります。
しかし実際のところ、二人の関係はそれほど単純ではなかったと考えられます。
この記事では、
・茶々と寧々の違い
・二人の関係
・本当に不仲だったのか
・秀吉の子供をめぐる関係
・「豊臣兄弟!」での描かれ方
について史実をもとに解説します。
結論|寧々と茶々は「正室と側室」という違いはあったが不仲だった証拠は少ない
寧々と茶々の最大の違いは、
・寧々=豊臣秀吉の正室(正妻)
・茶々=豊臣秀吉の側室(別妻)
という立場です。
また、
・寧々は秀吉の天下統一を支えた糟糠の妻
・茶々は秀吉の後継者・秀頼を生み豊臣家の血統を繋いだ女性
という違いもありました。
そのため後世には「対立していた」というイメージが広まりましたが、実際に2人が激しく争ったことを示す史料はほとんどありません。
現在の歴史研究では、後世の創作によって不仲説が強調された可能性も指摘されています。
茶々と寧々の違い
茶々と寧々の2人の基本的な違いを整理してみましょう。
| 項目 | 寧々 | 茶々 |
|---|---|---|
| 生年 | 1549(天文17)年 | 1569(永禄11)年頃 |
| 出自 | 浅野長勝・朝日殿の養女 | 浅井長政とお市の長女 |
| 秀吉との関係 | 正室 | 側室 |
| 子供 | 実子なし | 鶴松・秀頼 |
| 後の呼び名 | 北政所・高台院 | 淀殿(淀君) |
寧々は秀吉が織田家の侍大将にすぎなかった頃からまだ支え続けた妻でした。
一方の茶々は、織田信長の姪という高い血統を持つ女性であり、豊臣家の後継者を生む役割を担うことになります。
茶々と寧々の関係
茶々が寧々を排除しようとした動きは見られない
茶々と寧々はともに豊臣秀吉の妻という立場でした。
そのため、
- 正室と側室
- 豊臣家の後継者問題
- 秀頼の存在
などをめぐって緊張関係があったかもしれません。
しかし豊臣秀吉の女性関係について詳しく言及した、
という研究書を読む限り、
「寧々が茶々を排除しようとした」
あるいは
「茶々が寧々を追い落とした」
といった記述は見つかりません。
秀吉は寧々を通じて茶々を呼び寄せていた
むしろ豊臣政権が安定していた秀吉の生前には、茶々と寧々が大きく対立した形跡は乏しいと考えられています。
その証拠の1つとして挙げられるのが、1590(天正18)年の小田原征伐に従事していた豊臣秀吉が、寧々(北政所)に仕える「五さ」という名の侍女に宛てて出した直筆書状です。
この書状の内容をかいつまんで説明すると
「小田原征伐は暇だから茶々を呼び寄せたい。ついては寧々(北政所)が茶々に対して小田原行きを指図するように」
という内容です。
この点について、豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学名誉教授である故・桑田忠親氏の著作「豊臣秀吉 下」によると、秀吉は自分の家庭内における序列をきちんと弁えていたと指摘しています。
つまり秀吉は、正室・寧々の頭越しに側室・茶々を呼びつけるのではなく、
秀吉
↓
寧々(正室)
↓
茶々(側室)
という奥向きでの命令系統をよく心得た上で、淀君を小田原に呼び寄せるように注意を払っています。
こうした書状を見ると、豊臣家のプライベート空間は、正室・寧々がしっかりとグリップを握っていたと考えられるでしょう。
なぜ茶々と寧々は不仲と言われるのか?
茶々と寧々が不仲であったという説は、主に江戸時代に成立した読本や記録の根拠があやふやであったり、曲解されていることに基づくと考えられます。
ここでは江戸時代に成立した読本と記録から2人の不仲説を考察します。
1. 「絵本太閤記」で感情的対立が描かれた
「絵本太閤記」の「黒百合の茶会」において、寧々と茶々の間で感情的対立が描かれています。
しかし「絵本太閤記」は、江戸時代中期 の1797(寛政9)年に初版が出版された読本です。いわば現代の小説のようなもので、出典が必ずしも明らかではありません。
実際、桑田忠親名誉教授は「興味深く書かれているが、確かな文献資料には見当たらない」と指摘しています。
2.「村井長頼覚書」で側室同士の争いが記録された
「村井長頼覚書」では、1598(慶長3)年3月15日に行われた「醍醐の花見」の席において、茶々と、秀吉の別の側室である松の丸殿の間で「盃争い」があったことが記録されています。
「村井長頼覚書」は前田旧侯爵家伝来の古記録で江戸時代初期に成立していますので、「絵本太閤記」よりはかなり信憑性が高い記録と言えるでしょう。
ただし、この盃争いに関して寧々(北政所)は争いをする2人の仲裁をしていました。よってこの記録をもって「茶々と寧々は不仲であった」とするのはいささか的外れであると言わざるを得ません。
なぜ寧々は茶々に秀吉の子供を産ませたのか?
茶々と寧々の関係を考える上で重要なのが、鶴松とお拾(のちの豊臣秀頼)の誕生の問題です。
秀吉には多くの側室がいましたが、豊臣家の後継者候補または後継者となる男子を生んだのは茶々だけでした。
この点について、豊臣秀吉の正室である寧々(北政所)の存在を抜きにして語ることはできません。
茶々が秀吉を子を産むことができたのは「織田信長の姪」だから
側室のうち茶々だけが豊臣秀吉の子供を産むことができた理由は、茶々は織田家の姫であり、血筋の確かさを寧々が認めていたからと言えるでしょう。
豊臣政権は、
本能寺の変(1582年)
↓
山崎の戦い(1582年)
↓
清須会議(1582年)
↓
賤ヶ岳の戦い(1583年)
↓
小牧長久手の戦い(1584年)
を経て成立した政権です。
本能寺の変が発生する直前までは織田信長を中心とする政権でしたが、その2年後の小牧長久手の戦いには羽柴秀吉を中心とする政権に変わっています。
たとえ政権のリーダーが変わっても、血統を重視する中世の封建社会の常識から考えると、羽柴秀吉が正統性を得るためには常に「織田信長の血筋」が求められました。
→ 本能寺の変とは?
→ 山崎の戦いとは?
→ 清須会議とは?
→ 賤ヶ岳の戦いとは?
→ 小牧長久手の戦いとは?(準備中)
織田信長の五男・於次丸秀勝の存在
実は羽柴秀吉と寧々の夫妻は、織田信長がまだ存命中の頃から五男・秀勝(於次丸)を養子(養嗣子)に迎えていました。
もし秀勝が病死することがなければ、豊臣家の後継者は豊臣秀頼ではなく、この秀勝が後を継いでいたかもしれません。
しかし秀勝は1585(天正13)年12月20日に病死。豊臣家では一時的に織田信長の血を引く後継者が絶えた状態にありました。
そんなときに注目された女性が、「織田家の姫」である側室の茶々です。 茶々は「織田信長の姪」として豊臣政権の正統性を訴えるためにうってつけの人物です。
秀吉の正室である寧々も茶々が織田信長の血を引いているからこそ、秀吉の子供を産む許可を与えたと考えられます。
→ 羽柴秀勝(於次丸)とは?
→ 羽柴秀勝(於次丸)の死因とは?
寧々が「承認権」を行使して茶々に秀吉の子供を産ませた
当時、大名のプライベート空間を仕切る正室(正妻)には、どの側室が子供を産むことができるかという、一種の承認権がありました。
例えば徳川秀忠の正室である江は、当初、秀忠の四男である保科正之(のちの会津藩初代藩主)を秀忠の子供として認めていませんでした。正室である江が認めた出産ではなかったためです。
それだけ正室の「承認権」は強かったのです。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹氏の著作「お市の方の生涯」によると、豊臣家における寧々の「承認権」についてこう指摘しています。
茶々の場合についていえば、寧々は茶々にのみ、秀吉の子どもを産むことを認めた、と考えるべきなのである。
黒田 基樹. お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書) (p. 159). (Function). Kindle Edition.
秀吉の死後に二人の関係はどうなったのか
1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると、
- 寧々は京都へ移る
- 茶々は秀頼の後見人となる
という形で立場が分かれます。
ただし、それ以降も両者が直接対立したことを示す決定的な史料は確認されていません。
むしろ豊臣家と徳川家の対立が深まる中で、それぞれ異なる立場から行動していたと見る方が自然でしょう。
豊臣兄弟!で描かれる茶々と寧々
33話「市の最期」
33話「市の最期」において茶々(井上和)が住んでいた越前の北庄城が羽柴秀吉(池松壮亮)によって攻囲されます。
落城する直前、茶々は妹たちである初と江とともに城を退去し、秀吉が3人を庇護。
その後、茶々・初・江の三姉妹は秀吉が治める領国の1つである播磨国の姫路城で預けられることに。
このとき茶々たちを世話する役目を担ったのが、秀吉の正室である寧々(浜辺美波)です。
豊臣兄弟! 34話以降の茶々と秀吉の関係
現在、出版されている大河ドラマ「豊臣兄弟!」の公式ガイドブックは33話までの「あらすじ」しか発表していません。
33話「市の最期」において茶々の世話は寧々に任されることだけが描かれ、2人の本格的な交流は描かれていません。
しかし今後、
- 茶々の成長
- 茶々の側室入り
- 鶴松の誕生
が描かれるにつれて、2人の関係も重要なテーマになると考えられます。
特に、
- 正室の寧々
- 側室の茶々
という構図は、ドラマ後半の見どころの一つになるでしょう。
FAQ 茶々と寧々の関係
Q. 茶々と寧々の違いは何ですか?
寧々は秀吉の正室、茶々は側室です。
Q. 茶々と寧々は不仲だったのですか?
不仲だったというイメージはありますが、それを裏付ける史料は多くありません。
Q. 茶々と寧々はどちらが立場が上ですか?
豊臣秀吉の生前は正室である寧々の方が上位の立場でした。
Q. 茶々と寧々は「豊臣兄弟!」で描かれますか?
今後の物語後半で重要な関係として描かれる可能性があります。
Q. なぜ茶々だけが秀吉の子供を産めたのですか?
茶々が織田信長の姪であり、豊臣政権の正統性を支える血筋だったことに加え、正室の寧々が認めていたと考えられているからです。
茶々と寧々に関わる人物の記事一覧
茶々: のちの淀殿(淀君)
茶々の生涯や井上和さんのプロフィールについて詳しく解説しています。
寧々: 豊臣秀吉の正室
寧々は豊臣秀吉の正室(正妻)でのちに北政所と呼ばれる女性です。
→ 寧々は誰の子?
お市: 茶々の母
お市は茶々の母であり、柴田勝家とともに北庄城で最期を迎えました。
浅井長政: 茶々の父
浅井長政は茶々の父です。
織田信長の総攻撃を受けて自害に追い込まれますが、その戦功は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の活躍が大きかったと考えられています。
柴田勝家: 信長亡き後の茶々の庇護者
柴田勝家は織田信長が亡くなったのちの茶々の庇護者です。賤ヶ岳の戦い後に北庄城で自害しました。
織田信長: 茶々の伯父
織田信長は茶々の伯父にあたります。
浅井長政が亡くなったのち、茶々は岐阜城で庇護されていました。
→ 織田信長の最期
浅野長勝: 寧々の養父
浅野長勝は寧々の養父です。
織田信長の馬廻衆として織田家に仕える武士でした。
茶々と秀吉に関わる歴史的事件
本能寺の変
織田信長が明智光秀によって自害に追い込まれた事件です。
茶々にとっては大きな後ろ盾を失う出来事となりました。
→ 本能寺の変とは?
清須会議
お市と柴田勝家の再婚が決まった会議です。
茶々が北庄城へ移るきっかけとなりました。
→ 清須会議とは?
賤ヶ岳の戦い
秀吉と柴田勝家が争った合戦です。
その勝敗は茶々が秀吉と出会うきっかけとなる出来事となりました。
→ 賤ヶ岳の戦いとは?秀吉と柴田勝家の決戦をわかりやすく解説
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (角川選書 1403)
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
- 桑田忠親 淀君 (人物叢書 新装版) 吉川弘文館
