丹羽長秀(にわながひで)は、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の28話「急げ!秀吉」から31話「これで、お別れにございます」にかけて重要人物となる織田家の重臣です。
丹羽長秀は織田信長に長年仕えた宿老の1人であり、本能寺の変の後には羽柴秀吉を支持。山崎の戦い・清須会議を乗り切り、のちに越前・加賀2ヶ国の大大名となりました。
また丹羽長秀の三男・千丸は、羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)の養嗣子となったことでも知られています。
▼ 丹羽長秀の要点まとめ
・柴田勝家と並ぶ織田家の宿老
・本能寺の変ののち織田信澄を殺害
・山崎の戦いで織田信孝とともに羽柴秀吉に加勢
・清須会議に出席
・池田恒興とともに秀吉を支持
・三男・千丸は羽柴秀長の養嗣子
・1585(天正13)年に病死
この記事では丹羽長秀の生涯や本能寺の変・山崎の戦い・清須会議での役割、その最期について解説します。
→ 本能寺の変の経過を詳しく解説
→ 山崎の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説
→ 清須会議で決まったことを詳しく解説
結論|丹羽長秀とは?
丹羽長秀とは、織田信長に長年仕えた重臣であり、山崎の戦い以降、羽柴秀吉に協力した人物として知られています。
▼ 丹羽長秀とは
・柴田勝家と並ぶ織田家の宿老
・本能寺の変ののち織田信澄を殺害
・山崎の戦いで織田信孝とともに羽柴秀吉に加勢
・清須会議に出席
・池田恒興とともに秀吉を支持
・三男・千丸は羽柴秀長の養嗣子
・1585(天正13)年に病死
「豊臣兄弟!」では、28話「急げ!秀吉」から31話「これで、お別れにございます」において描かれる羽柴秀吉と柴田勝家の対立の中で、どちらの陣営につくか重要な役割を担う可能性があります。
豊臣兄弟!での丹羽長秀
28話「急げ!秀吉」
28話「急げ!秀吉」において本能寺の変を大坂城で知った、織田信長(小栗旬)の甥で明智光秀(要潤)の婿である織田信澄(緒形敦)が決起。
これに対して事件が起こる直前まで、長宗我部元親(磯部寛之)を攻めるために、四国渡海の準備を進めていた織田信孝(結木滉星)と丹羽長秀(池田鉄洋)は急きょ攻撃目標を変更。
信孝と丹羽長秀は大坂城を攻撃し、信澄を殺害に追い込みます。
→ 本能寺の変とは?
→ 明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか?
→ 織田信澄とは?本当に本能寺の変ののち決起したのか?
→ 長宗我部元親とは? 本能寺の変の遠因となった人物
→ 織田信孝とは?信長の三男・なぜ信澄を殺害したのか?
→ 豊臣兄弟! 28話「急げ!秀吉」あらすじ
29話「天下への道」
29話「天下への道」において丹羽長秀は織田信孝とともに行動し、山城国の山崎の手前で秀吉(池松壮亮)・小一郎(仲野太賀)らの軍勢と合流。
丹羽長秀は軍議の席において、光秀を決して侮ることなく、盤石の構えを用意した上で攻撃を仕掛けるべきだという意見を唱えます。
→ 山崎の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説
→ 豊臣兄弟! 29話「天下への道」あらすじ
30話「清須会議」
30話「清須会議」において、信長亡き後の織田家の新体制を決めるために清須会議が開催されます。
丹羽長秀は、柴田勝家(山口馬木也)・羽柴秀吉・池田恒興(堀井新太)と並ぶ織田家の重臣として出席。
秀吉にしてみれば、筆頭家老の柴田勝家よりも優位な立場で会議を進めるためには、丹羽長秀と池田恒興を味方につけたいところです。
そこで小一郎が兄・秀吉に代わって丹羽長秀の真意を探ろうとします。しかし長秀は口を閉ざして自分の考えを教えてくれません。
→ 清須会議とは?何が決められたのか?
→ 豊臣兄弟! 30話「清須会議」あらすじ
31話「これで、お別れにございます」
31話「これで、お別れにございます」において、織田信孝は「安土城の修復が終えるまで」という理由を口実として、当主・三法師を居城の岐阜城で預かり、決して手放そうとしません。
信孝に野心ありと見た秀吉は、小一郎を通じて安土城の修復を担当している、丹羽長秀に工事を急ぐよう依頼。
ところが長秀は秀吉の真意こそ警戒しており、使者の小一郎をほうほうのていで追い返すことに。
→ 三法師とは誰? 織田信長の嫡孫 織田信忠の嫡男
→ 織田信孝とは? 織田信長の三男 三法師の名代候補
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丹羽長秀と織田信長の関係
織田信長の重臣として活躍
丹羽長秀は織田信長に仕えた重臣です。
柴田勝家・明智光秀・滝川一益らと並ぶ宿老の1人であり、織田政権を支える重要人物でした。
信長からの信頼も厚く、「米五郎左(こめごろうざ)」という異名でも知られています。
これは領国経営や兵站能力に優れていたことを示す逸話として有名です。
丹羽長秀は織田信長と姻戚関係にあった
丹羽長秀の妻は、織田信長の庶兄・織田信広の妻です。
従って丹羽長秀は単に織田家の重臣だっただけでなく、織田信長と姻戚関係もあり、公私に渡って織田家と強いつながりがありました
こうした関係を考えると、丹羽長秀個人にとっても、本能寺の変で織田信長が明智光秀によって自害に追い込まれたことは大きな衝撃だったと考えられます。
→ 明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか?
→ 本能寺の変について詳しく解説
本能寺の変前後における丹羽長秀の行動
四国の長宗我部元親を攻撃する寸前だった
1582(天正10)年6月2日早朝に本能寺の変が発生する前の、同年5月に織田信孝と丹羽長秀は四国の長宗我部元親を攻撃するよう信長から命令を受けていました。
そのため信孝と丹羽長秀は、事件の直前までには、遠征するための軍勢をほとんど四国に渡海させており、あとは自分たちとその直属部隊が海を渡るだけという状態でした。
大坂城の織田信澄を殺害
信孝と丹羽長秀は、四国に渡海する寸前に信長の訃報を知ることとなり、急遽行動を変更。
ともに四国攻めを命じられ、大坂城の二の丸に在城していた織田信澄を攻撃し殺害に追い込みました。
「信長公記」や、豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学名誉教授の故・桑田忠親氏の著作である「豊臣秀吉研究 上」では、信孝と丹羽長秀がなぜ織田信澄を殺害するに至ったかは理由は示されていません。
ただ織田信澄は織田信長の甥でありながら、明智光秀の婿でもあるという特殊な立場でした。
そのため彼らは信澄が光秀と共謀していることを疑い、殺害するに至ったと推測されます。
山崎の戦いにおける丹羽長秀
羽柴秀吉に加勢
本能寺の変後、羽柴秀吉が「中国大返し」によって備中高松から畿内へ帰還。
1582(天正10)年 6月12日には摂津と山城の国境にある摂津の富田(現在の大阪府高槻市)まで戻ってきました。
信孝と丹羽長秀はこの富田において羽柴秀吉の軍勢と合流。当時の信孝と丹羽長秀の軍勢の兵力は7,000程度だったと言われています。
信孝は庶子とは言えど信長の男子です。信孝と丹羽長秀が「謀反人の明智光秀を成敗する」という大義名分は十分にありました。
しかし山崎の戦いにおける、明智光秀の兵力は1万3,000から1万6,000程度だったことを考えると、信孝と丹羽長秀の軍勢だけでは勝ち目がありません。
そこで「中国大返し」で戻ってきた羽柴秀吉の助力を得ることで、明智光秀に対抗しようとしたと考えられています。
山崎の戦いでは第三陣
富田で開かれた軍議の結果、信孝は明智光秀討伐の名目上の総大将に推挙され、丹羽長秀はその補佐を担当したと考えられます。
この戦いは1582(天正10)年6月13日に行われた山崎の戦いですが、丹羽長秀は信孝とともに羽柴勢の第三陣を形成していたと考えられます。
清須会議と丹羽長秀
集団指導体制の1人に選ばれる
山崎の戦いの後、信長亡き後の織田家の新体制を決めるため、1582(天正10)年 6月27日に「清須会議」が開催されます。
丹羽長秀は織田家の重臣の1人として、他の重臣である柴田勝家・羽柴秀吉・池田恒興らとともに会議に出席。
清須会議は当初、当主を三法師として、
- 信長の次男: 織田信雄
- 信長の三男: 織田信孝
のどちらを名代(後見人)にするかを巡って話し合いが難航。
やがて「名代を選ぶ」という案は先送りにされ、織田家の運営は、4人の重臣たちが当主・三法師を直接補佐するという「集団指導体制」が採用されることとなりました。
→ 三法師とは誰? 織田信長の嫡孫 織田信忠の嫡男
→ 織田信雄とは? 織田信長の次男で三法師の名代候補
→ 清須会議で決められたこととは?
近江坂本城が居城に
清須会議では織田家の運営体制以外にも、山崎の戦いにおける論功行賞も行われました。
その結果、丹羽長秀には近江国のうち滋賀郡と高島郡が新しい領地として与えられることが決定。
滋賀郡はもともと明智光秀の旧領であり、丹羽長秀は坂本城を居城とすることが定められました。
丹羽長秀と豊臣秀長の関係
三男・千丸が羽柴小一郎長秀の養嗣子となる
1582(天正10)年6月27日に開催された清須会議の前後の出来事として、丹羽長秀の三男・千丸が羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)の養子(養嗣子)となっています。
このころの羽柴秀吉は織田家の中で柴田勝家や織田信孝と政治勢力を競っており、自分の政治勢力を拡大するために、丹羽長秀や池田恒興といった他の重臣たちを自らの側に引き込んでおく必要がありました。
当時、秀吉の弟であるが羽柴小一郎長秀は、嫡男であった羽柴与一郎を亡くしており、ちょうどその後継者の地位が空席となっていました。
秀吉はそのことに目をつけ、弟・小一郎に丹羽長秀の三男である千丸を引き取らせ、養子(養嗣子)にさせました。
この小一郎と千丸の養子縁組によって、羽柴秀吉と丹羽長秀の関係はより強いものとなったと考えられます。
→ 羽柴与一郎とは誰?
→ 羽柴与一郎の死因とは?
→ 豊臣秀長の2番目の後継者 千丸(のちの藤堂高吉)について詳しく解説
家臣・杉若無心が羽柴小一郎の家臣にへ転籍
なお、千丸が与一郎の養子となる際、丹羽長秀の家臣であった杉若無心(すぎわかむしん)という家来が、羽柴小一郎長秀の家臣に転じました。
杉若無心の娘は丹羽長秀の側室となっており、長秀とその側室との間にできた子供が千丸でした。
そうした血縁関係があったため、杉若無心は千丸の「付け家老」という立場として、いわば「転籍」してきたと考えられています。
この杉若無心は、のちに豊臣秀長による紀伊国の統治に貢献しており、朝廷から従五位下越後守の官位を授けられるほど優秀な家臣でした。
→ 豊臣秀長の家臣 杉若無心とは?紀伊国の統治に尽力
→ 豊臣秀長の家臣一覧
丹羽長秀の最期(最後)
賤ヶ岳の戦いののち越前・加賀2カ国の大大名に
1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に味方。
戦後には越前と加賀の2カ国を治める大大名となります。
また1584(天正12)年3月から11月にかけて行われた小牧長久手の戦いでは、9月28日に越中の佐々成政と対峙。
→ 賤ヶ岳の戦いとは?
→ 小牧長久手の戦いとは(準備中)
丹羽長秀は病死
丹羽長秀は1585(天正13)年4月16日に病死。寄生虫が関わる病気だったと言われれる一方で、自害による最期だったという言い伝えもあります。
丹羽長秀の死によって越前と加賀は嫡男の丹羽長重によって相続されると見られましたが、長重は年少であると理由で丹羽家の領地は若狭一国に減封されることになりました。
FAQ|丹羽長秀について
Q. 丹羽長秀とは誰ですか?
A. 織田信長に仕えた重臣で、本能寺の変後は羽柴秀吉を支持した武将です。
Q. 丹羽長秀は本能寺の変で何をしましたか?
A. 事件の直後、明智光秀の婿であった織田信澄を織田信孝とともに殺害に追い込みました。
Q. 丹羽長秀は山崎の戦いに参加しましたか?
A. はい。羽柴秀吉方として明智光秀討伐に協力しました。
Q. 丹羽長秀は清須会議でどのような立場でしたか?
A. 新しく織田家の当主となった三法師を直接補佐する重臣の1人となりました。
Q. 丹羽長秀と柴田勝家の関係は?
A. 丹羽長秀と柴田勝家はともに織田家宿老でした。
清須会議後はともに織田家を支えましたが、その後の権力争いで異なる立場を取るようになりました
Q. 丹羽長秀と羽柴秀長(豊臣秀長)の関係は?
A. 三男・千丸を秀長の養嗣子に出しており、両家は深い関係にありました。
丹羽長秀に関連する主な人物
織田信孝: 信長の三男で三法師の名代候補
清須会議後に秀吉と激しく対立した信長の三男です。
丹羽長秀は本能寺の変・山崎の戦いまでは信孝と行動を共にしていましたが、やがて袂を分つことになります。
→ 織田信孝とは?
長宗我部元親: 本能寺の変直前までの攻撃目標
本能寺の変直前まで丹羽長秀は、四国の長宗我部元親を攻める準備に追われていました。
→ 長宗我部元親とは?なぜ織田信長に攻められようとしたのか?
織田信澄: 大坂城で攻撃し殺害に追い込む
本能寺の変で信長の訃報を知った丹羽長秀と織田信孝は、攻撃目標を四国の長宗我部元親から、大坂城に在城した織田信澄に変更し殺害に追い込みました。
明智光秀: 山崎の戦いで討伐
丹羽長秀は織田信孝とともに羽柴秀吉の軍勢に合流し、山崎の戦いにおいて明智光秀討伐に貢献しています。
三法師: 織田家の新しい当主
清須会議で織田家当主となった信長の嫡孫です。
丹羽長秀は織田家の重臣の一人として、当主・三法師を直接補佐することになります。
→ 三法師とは誰?
柴田勝家: 賤ヶ岳の戦いで敵味方に別れる
清須会議後に秀吉と激しく対立した織田家の筆頭家老です。
もともと丹羽長秀も柴田勝家も織田家の宿老という立場でしたが、賤ヶ岳の戦いでは敵味方に分かれて戦うことになります。
→ 柴田勝家の最期
池田恒興: 清須会議に出席した重臣
清須会議ののち秀吉とともに行動した織田家の重臣です。
→ 池田恒興とは?(準備中)
丹羽長秀に関連する歴史的事件
本能寺の変
明智光秀によって織田信長・信忠が自害に追い込まれた日本史上でも屈指のクーデター事件です
→ 本能寺の変とは?
山崎の戦い
本能寺の変ののちに羽柴秀吉と明智光秀が激突した合戦です。
→ 山崎の戦いとは?
清須会議
信長死後に織田家の体制を決定した会議です。
→ 清須会議とは?
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から第1話までの流れを確認したい方はこちらをご覧ください。
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開を知りたい方はこちらをご覧ください。
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 柴裕之(編著)豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 堺屋太一 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)
