大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(とよとみひでなが)の家臣団は、軍事だけでなく行政・外交・築城・検地まで担った「実務型家臣団」です。
藤堂高虎・桑山重晴・羽田正親をはじめ、豊臣秀長の家臣たちを一覧で紹介するとともに、それぞれの役割や功績をわかりやすく解説します。
→ 藤堂高虎とは何をした人なのか?
→ 豊臣兄弟!藤堂高虎(佳久創)とは?
→ 桑山重晴とは?豊臣秀長の筆頭家老
→ 豊臣兄弟!桑山重晴(住田隆)とは?
→ 羽田正親とは?和歌山城の築城に尽力
→ 豊臣兄弟!羽田正親(平埜生成)とは?
→ 吉川平助とは?熊野山奉行や紀伊湊の管理
→ 豊臣兄弟!吉川平助(松岡広大)とは?
→ 小堀正次とは?検地のエキスパート
→ 豊臣兄弟!小堀正次(萩原護)とは?
結論|豊臣秀長の家臣団は軍事と行政を支えた実務型組織
豊臣秀長の家臣団とは、合戦だけでなく、領国経営や外交まで担った豊臣政権でも屈指の実務型家臣団でした。
豊臣秀長の20名の家臣とは次のとおりです。
| 家臣の名前 | 主な役割 |
|---|---|
| 藤堂高虎 | 軍事・外交・築城などオールマイティ |
| 桑山重晴 | 筆頭家老・和歌山城代 |
| 羽田正親 | 和歌山城の築城・和泉統治 |
| 吉川平助 | 山奉行・紀伊湊の管理 |
| 小堀正次 | 検地奉行 |
| 杉若無心 | 紀伊国 田辺城主・紀伊南部の平定 |
| 横浜良慶 | 大和国の内政・寺社勢力の管理・豊臣秀保の後見人 |
| 横浜民部少輔 | 横浜良慶の息子 |
| 宇多頼忠 | 紀伊国 広城主・紀伊南部の平定 |
| 木下助兵衛 | 但馬国 出石城主 |
| 青木一矩 | 紀伊国 入山城主。豊臣秀長の従兄弟 |
| 上坂意信 | 丹羽福知山領の代官 |
| 福智長通 | 九州征伐に従軍。戦後に豊前国で検地を実施 |
| 疋田就長 | 吉川家や大友家への「取次」を担当 |
| 小川下野 | 桑山重晴・羽田正親と並ぶ「豊臣秀長 三家老」の一人 |
| 井上源五高清 | 和泉国の行政や奈良町奉行を歴任 |
| 堀内氏善 | 紀伊国 新宮城主 |
| 多賀秀種 | 大和国 宇陀松山城主 |
| 池田秀雄 | 豊臣秀保に従って朝鮮出兵に従軍 |
| 秋篠伝左衛門尉 | 豊臣秀長の側室・摂取院光秀の父 |
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→ 豊臣兄弟!藤堂高虎(佳久創)とは?
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豊臣秀長とは?なぜ優秀な家臣が集まったのか
豊臣政権を支えた「天下一の補佐役」
豊臣秀長は、兄・豊臣秀吉の天下統一を支えた最大の補佐役です。
秀吉が軍事や政治の表舞台で活躍する一方、秀長は領国経営や外交、家臣団の統率を担いました。
そのため秀長のもとには、戦うだけでなく行政や築城にも優れた実務型の武将が集まっています。
大和・紀伊・和泉を統治した「大和大納言家」
秀長は最終的に、
・大和
・紀伊
・和泉
の3か国を領し、「大和大納言家」と呼ばれる豊臣一門衆として最大の大名となりました。
ただし、これらの国々は現在の近畿地方南部に相当する広大な地域で、かつ寺社仏閣・国人領主・地侍などの勢力が複雑に入り組んだ統治の難しい土地です。
そのため豊臣秀長の家臣団には、戦の指揮ができる「武将」タイプの家臣だけでなく、
・検地
・築城
・行政
・外交
・治安維持
など「各分野に長けたエキスパート」が数多く必要とされていました。
豊臣秀長家臣団の特徴~ 軍事・行政を担った「実務型家臣団」
豊臣秀長のもとに集まった家臣団が持つ最大の特徴は、槍働きをするための武勇だけではなく、戦の指揮から年貢の徴収、果ては山林や港の管理まで担える実務型武将が数多く存在したことです。
兄・豊臣秀吉が武力を用いて天下統一を進める一方で、秀長は
・大和
・紀伊
・和泉
という畿内の中心に近く、それでいて統治が難しいという地域を任されていました。
これらの国々は中世以来、武家と対立していた寺社仏閣が多く集まっていたり、そもそも山が深く大軍が容易に侵攻できないという特徴を持っています。
そのため豊臣秀長の家臣団には、「戦に強い」「外交ができる」ことに加え、
・農村地域における太閤検地の実施と年貢徴収
・興福寺や春日大社をはじめとした寺社仏閣などの管理
・紀伊南部を平定するための築城
・大和郡山城の城下町における商工業の育成や地子税などの徴収
・熊野地方での木材の切り出しやその材木管理
・紀伊湊の管理など紀伊〜伊勢間における海上交通の統制
など、他の国にはない特徴を把握しながら領国経営を行う必要がありました
兄の秀吉軍団は「猛将集団」と評されることが多いのに対し、弟の秀長家臣団は「実務集団」とも言われる所以でしょう。
豊臣秀長の家臣20名一覧
ここからは、豊臣秀長の家臣団を支えた20名の家臣について、それぞれ詳しく紹介します。
1. 藤堂高虎(とうどうたかとら)
藤堂高虎または藤堂和泉守高虎(1556〜1630年)。のちの伊勢津藩・初代藩主。
藤堂高虎の幼名は与吉で、体格が非常に大きかったと言われています。元は浅井氏の家臣でしたが、浅井氏の滅亡後に秀吉・秀長の兄弟に仕えるようになります。
秀長の領国が拡大する陰には藤堂高虎の働きがあり、小代谷一揆(但馬国)や北山一揆(紀伊国)の鎮圧、和歌山城の築城などで活躍。秀長からは粉河(現在の和歌山県紀の川市)で5,000石の知行を受けていました。
一時期は秀長の息子である千丸(仙丸。藤堂高吉のこと)を藤堂家の嫡男として養子に迎えていたこともあります。
→ 藤堂高虎とは何をした人なのか?
→ 豊臣兄弟!藤堂高虎(佳久創)とは?
→ 千丸とは?羽柴与一郎亡き後の養嗣子
2. 桑山重晴(くわやましげはる)
桑山重晴または桑山修理亮、桑山修理太夫(1524~1606年)。
1582(天正10)年ごろ、秀長の家臣となり、但馬国の竹田城城主として1万石の知行を受けます。さらに紀伊国で3万石に加増され、和歌山城代として紀伊国の内政を担当。
後年、関ヶ原の戦いの時には東軍に味方して和歌山城を守備。その功績が認められ大和新庄藩の基礎を築きます。
→ 桑山重晴とは?豊臣秀長の筆頭家老
→ 豊臣兄弟!桑山重晴(住田隆)とは?
3. 羽田正親(はねだまさちか)
羽田正親または羽田長門守正親あるいは羽田忠兵衛(?~1595年)。
大和国添下郡の小泉城城主として4万8,000石の知行をうけていました。桑山重晴・小山下野と並んで豊臣秀長の家中では「三家老」の1人。
1585(天正13)年に豊臣秀長が紀伊国の和歌山城を居城とした際に、羽田正親は和泉国のうち上二郡の大鳥郡(現在の大阪府堺市・高石市の一部)と和泉郡(現在の大阪府和泉市・岸和田市・泉大津市・忠岡町)の代官に任命されます。
さらに羽田正親は豊臣秀長家中の材木奉行として紀伊国における材木管理に深い関わりがあり、大和国の寺社や、京で屋敷を構える徳川家康のために木材を供給していました。
秀長・秀保が相次いで亡くなった後は、豊臣秀次(秀長の姉・「とも」こと瑞竜院殿の長男)に仕官。しかし豊臣秀次が豊臣秀吉に切腹を命じられたことから、羽田正親は殉死による最期を遂げることに。
→ 羽田正親とは?和歌山城の築城に尽力
→ 豊臣兄弟!羽田正親(平埜生成)とは?
→ 羽田正親の最後(最期)とは?
→ 豊臣秀次とは?豊臣秀吉の甥
→ 豊臣兄弟! 豊臣秀次(山田涼介)とは?
→ 豊臣秀次切腹事件とは?
4. 吉川平助(よしかわへいすけ)
吉川平助もしくは吉河平助(?~1589年)。もともとは織田信長の下で伊勢国の大湊で船奉行をしていました。
1583(天正11)年の紀州征伐の後、豊臣秀長の家臣として召し抱えられ7,000石の知行を与えられて雑賀城の城主に。
雑賀城がある紀伊湊は紀伊国の木材が集散する地域であり、吉川平助は「山奉行」として材木の調達・管理の任にあたっていました。
しかし1588(天正16)年に熊野地方で伐採した材木の不正売買が発覚し、豊臣秀吉の命令によって、斬首刑に処されます。
→ 吉川平助とは?熊野山奉行や紀伊湊の管理
→ 豊臣兄弟!吉川平助(松岡広大)とは?
→ 吉川平助の最後(最後)とは?
5. 小堀正次(こぼりまさつぐ)
小堀正次(1540~1604年)または小堀新介。小堀正次はもともと北近江を支配する浅井長政の家臣でしたが、1573(天正2)年に浅井氏が滅亡した後、秀長に仕えるようになります。
史料では秀長から小堀正次を通じて寺社に対する所領の安堵状が発行されたり、和泉・紀伊・大和 3カ国の郡代を務めたりいたことが明らかになっています。これらから小堀正次は秀長から行政の手腕を買われていたと見られています。
ちなみに安土桃山時代から江戸時代前半にかけて活躍した、茶人の小堀遠州(政一)は小堀正次の息子。
→ 小堀正次とは?検地のエキスパート
→ 豊臣兄弟!小堀正次(萩原護)とは?
6. 杉若無心(すぎわかむしん)
杉若無心または杉若越後守無心(?~?)。
1586(天正14)年、杉若無心は紀伊国統治のために、田辺城に配置されます。
なお豊臣秀長にとって2番目の後継者となった千丸の祖父にあたる人物でもあります。
→ 杉若無心とは?紀伊南部の平定に尽力
→ 千丸とは?羽柴与一郎亡き後の養嗣子
7. 横浜良慶(よこはまりょうけい)
横浜良慶または横浜一庵・一庵法印・一晏法印(いちあんほういん)(1550〜1595年)。
九州征伐のために領国を留守にしていた秀長に代わって大和国の内政を担当。「一晏法印」の名前で郡山の町方に対して地租を免除するという書状が現代に伝わっています(「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 」277ページ)。
秀長の家臣たちの中で最も高禄である5万石を与えられていたと言われ、1591(天正19)年1月に秀長が病気のため亡くなったときは、豊臣秀吉からの命令によって秀長の養子・豊臣秀保の後見人として政務を補佐することになります。
→ 横浜良慶(横浜一庵)とは?豊臣秀保の後見人
→ 豊臣秀保とは?豊臣秀長の後継者
8. 横浜民部少輔(よこはまみんぶしょうゆう)
横浜民部少輔は横浜良慶の息子。関ヶ原の戦いのときには西軍に味方したため所領は没収されます。
しかし民部少輔の息子である横浜内記正幸が、藤堂高虎の伊勢津藩に500石で召しかかえられます。
9. 宇多頼忠(うだよりただ)
秀長に仕え始めた時の名前は「尾藤頼忠(びとうよりただ)」。
のちに「宇多(もしくは宇田)」と言う苗字に変更。宇多頼忠は紀伊国有田郡にあった広城を任され、1万3,000石の領地を有していました。主に紀州の支配や統治を任された人物として知られています。
→ 宇多頼忠(尾藤頼忠)秀長の家臣 紀伊広城城主 熊野攻めに従軍
10. 木下助兵衛(きのしたすけのひょうえ)
豊臣秀長が出石城から姫路城に居城を移した、1583(天正11)年に但馬国城崎郡(現在の兵庫県城崎町)にある豊岡城の城主となります。
11. 青木一矩(あおきかずのり)
青木一矩または青木重吉(?~1600年)。豊臣秀長の従兄弟。
豊臣秀長が出石城から姫路城に居城を移した1583(天正11)年に、秀長と入れ替わりで出石城の城主となります。
1583(天正13)年の紀州征伐の後には、紀伊入山城主に転じます。
→ 青木一矩(青木重吉)豊臣秀吉・秀長兄弟の従兄弟 秀長の与力
12. 上坂意信(こうさかおきのぶ)
上坂意信は近江国出身で1577(天正5)年から1580(天正8)年ごろに、豊臣秀長の家臣となったと考えられています。
豊臣秀長が出石城から姫路城に居城を移した1583(天正11)年に、交通・経済の要衝である丹波福知山に代官として派遣されていました。
このことから、上坂意信は秀長から石田三成や増田長盛のような行政の手腕を期待されていたと考えられています(「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」131ページ)
13. 福智長通(ふくちながみち)
福智長通または福知長通(?~?)。福智長通は1587(天正17)年に豊臣秀長の主導で行われた九州国分において、豊前国の検地を担当。
さらに日向国にも派遣されて、豊臣家の蔵入地(直轄地)を管理する代官にも任命されています。
→ 福智長通 秀長の家臣 九州国分における日向国の知行割に尽力
14. 疋田就長(ひきたなりなが)
疋田就長(?~?)は1587(天正17)年に豊臣秀長の主導で行われた九州国分において、豊前国と豊後国の検地を担当。また吉川家や大友家への「取次」を担当したことで知られています。
→ 疋田就長(疋田九兵衛尉)豊臣秀長の家臣 吉川家・大友家の取次を担当
15. 小川下野(おがわしもつけ)
小川下野(?~?)は桑山重晴・羽田正親と並んで、豊臣秀長家中の「三家老」の1人。
16. 井上源五高清(いのうえげんごたかきよ)
井上源五または井上源吾高清あるいは中坊源吾(?~?)。
1585(天正13)年に豊臣秀長が紀伊国の和歌山城を居城とした際に、井上源吾は和泉国のうち下二郡の南郡(現在の大阪府岸和田市・貝塚市の一部)と日根郡(現在の大阪府貝塚市の一部・泉佐野市・泉南市・阪南市など)の代官に任命されます。
後年、井上高清は奈良の代官にも任命され、奈良の町人に対して金500枚の強制貸付を行っています。
→ 井上高清(井上源五)秀長の家臣 南京奉行 奈良借の実行者
→ 豊臣秀長と奈良貸し(奈良借)について
17. 堀内氏善(ほりうちうじよし)
堀内氏善は1586(天正14)年、堀内氏善は紀伊国統治のために、新宮城に配置されます。
関ヶ原の戦いの時には西軍に味方したため、東軍についた和歌山城の桑山重晴・貞晴親子から攻撃を受けることに。
18. 多賀秀種(たがひでたね)
多賀秀種または多賀出雲守秀種(1565~1616年)。大和国宇陀松山城主。もともと、多賀秀種は堀秀政の弟であり、近江国の多賀貞能の娘と結婚したのち「多賀」の苗字を名乗り、豊臣秀長に仕えるようになります。
1588(天正16)年に「従五位下出雲守」に任官。1592(天正20)年には亡き秀長の跡を継いだ秀保にしたがって朝鮮に出兵(慶長の役)。
19. 池田秀雄(いけだひでかつ)
池田秀雄または池田伊予守秀雄。
1592(天正20)年には亡き秀長の跡を継いだ秀保にしたがって朝鮮に出兵(慶長の役)。
20. 秋篠伝左衛門尉(あきしのでんざえもんのじょう)
秋篠伝左衛門尉(?~?)。豊臣秀長の別妻(側室)である摂取院光秀の父。
秋篠伝左衛門尉は、もともと大和国を治めたことがある筒井順慶の家臣でしたが、豊臣秀長が大和郡山の城主になったころには、横浜良慶や小堀正次たちと行動を共にしていました。
→ 秋篠伝左衛門(秋篠伝左衛門尉) 秀長の家臣 側室・摂取院光秀の父
→ 摂取院光秀とは?豊臣秀長の側室
大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも家臣団に注目
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも、豊臣秀長家臣団は今後ますます重要な存在となるでしょう。
すでに出演が発表されているのは、
・藤堂高虎(佳久創)
・桑山重晴(住田隆)
・羽田正親(平埜生成)
・小堀正次(萩原護)
・吉川平助(松岡広大)
の5人です。
今後の放送では、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、紀州征伐、四国征伐、九州征伐などを通じて、小一郎(のちの豊臣秀長)の家臣団がどのように豊臣政権を支えていくのかも見どころになりそうです。
→ 豊臣兄弟!藤堂高虎(佳久創)とは?
→ 豊臣兄弟!桑山重晴(住田隆)とは?
→ 豊臣兄弟!羽田正親(平埜生成)とは?
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→ 豊臣兄弟!小堀正次(萩原護)とは?
→ 賤ヶ岳の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説
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参考文献
今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の黒田基樹さんと編著者の柴裕之さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
- 黒田基樹 羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人 角川選書
- 黒田基樹 秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治 講談社現代新書
- 柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版
- 黒田基樹 羽柴秀長と藤堂高虎 NHK出版新書
