「豊臣兄弟!」に登場する藤堂高虎(佳久創)は、どんな人物なのでしょうか?
結論から言うと、藤堂高虎は後に「築城名人」と呼ばれる戦国武将であり、若い頃は豊臣秀長家臣団の中核として成長した人物です。
若き日の高虎は、主君を転々とする荒々しい武士でした。しかし羽柴小一郎長秀(豊臣秀長)は、その武勇や将来性を見抜き、家臣として重用します。
その後の高虎は、
・軍事
・築城
・外交
・行政実務
を担う“実務型武将”として活躍し、後の徳川政権でも重用される存在になっていきました。本記事では、「豊臣兄弟!」で佳久創さんが演じる藤堂高虎について、
・役柄
・史実
・豊臣秀長との関係
・今後の見どころ
をわかりやすく解説します。
→ 藤堂高虎は何した人?秀長に重用された理由と“本当のすごさ”を解説
→ 藤堂高虎は豊臣秀長の家臣だった?秀保近侍・軍事外交の役割を解説
→ 豊臣秀長と藤堂高虎の関係とは?7つの逸話と“本当の評価”を解説
結論:藤堂高虎は秀長家臣団を支える“実務派武将”
結論から言うと、藤堂高虎は「築城名人」として有名になる以前から、羽柴小一郎長秀(豊臣秀長)の家臣として軍事・外交・普請を担った“実務派武将”でした。
「豊臣兄弟!」では、若い頃の高虎が小一郎のもとで経験を積み、戦国武将として成長していく姿が描かれると考えられます。
▼要点まとめ
- 最初の主君は浅井長政
- 浅井家滅亡後に各地を転々とした
- 1576年ごろから羽柴小一郎長秀に仕える
- 小代谷一揆・四国征伐などで活躍
- 和歌山城や徳川屋敷普請にも関与
- 後に「築城名人」と呼ばれる存在になる
→ ① 入口記事「藤堂高虎は何した人?秀長に重用された理由と“本当のすごさ”を解説」
→ 豊臣秀長と藤堂高虎の関係とは?7つの逸話と“本当の評価”を解説
豊臣兄弟!藤堂高虎の役柄とは?
小一郎(豊臣秀長)の家臣の一人
NHKが発表した「豊臣兄弟!」における藤堂高虎の役柄は、小一郎に仕える家臣の1人として描かれます。
算術・兵站・築城に優れた実務家
「豊臣兄弟!」の第15話「姉川大合戦」に登場した藤堂高虎は、北近江の大名・浅井長政に仕える下級兵士に過ぎませんでした。
浅井家が滅亡したのち、短期間のうちに何人もの主君に仕え、最終的に小一郎によって召し抱えられることに。
高虎はその小一郎のもとで、武将として戦国の世を生きていくために必要な算術・鉄砲術・築城術など多くを学び取ることになります。
石田三成と並ぶ“実務派武将”になる可能性
こうした藤堂高虎の地味な努力は数年後に戦国武将としての才能を開かせます。
やがて藤堂高虎は秀吉の「中国討伐(1577年10月-1582年6月)」や「賤ヶ岳の戦い(1583年4月)」など、主家の羽柴家にとって重要な戦いで目覚ましい活躍をすることになります。
→ 長浜時代の石田三成とは?「奉行」となる以前の石田三成の史実
藤堂高虎の史実
最初の主家は浅井家
史実の藤堂高虎は、1556(弘治2)年に近江国犬上郡藤堂村で藤堂虎高の次男として誕生。幼名は与吉(よきち)で、子供の頃から体格が非常に大きかったと言われています。
藤堂高虎にとっての最初の主人は浅井長政です。1570(元亀元)年6月に行われた「姉川の戦い」が初陣で、浅井方の下級兵士として戦闘に参加しました。
浅井長政も含め4人も主人を変えた青年時代
しかし藤堂高虎は浅井家での奉公は長く続かず1572(元亀3)年に出奔。ここから藤堂高虎は短期間のうちに目まぐるしく仕える主君を変えることになります。
藤堂高虎が浅井家を出奔したのちに仕えた主君とその期間は以下の通りです。
- 阿閉貞征(あつじさだゆき)(1572~1573年)
- 磯野員昌(いそのかずまさ)(1573~1574年)
- 織田信澄(おだのぶずみ)(1574年)
藤堂高虎が短期間のうちに主君を変えた理由は、最初の主人であった浅井長政から4人目の織田信澄まで、ほとんどが本人の素行の悪さや、生まれついての乱暴な性格に起因するものでした。
主家の武家奉公人や同僚と喧嘩をして切り捨てたり、石高が少ないと不満を述べて主家を去るなど、およそ現代の日本人が抱く藤堂高虎のイメージからほど遠い理由で主君を変えています。
1576(天正4)年ごろから秀長に仕える
藤堂高虎が羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)に仕えたのは1576(天正4)年です。
その直前、藤堂高虎は織田信澄(織田信長の甥)の母衣衆(戦のとき総大将のすぐ近くにいる護衛部隊)に取り立てられる話がありました。しかし石高はそれまでもらっていた80石に据え置かれることに不満を覚え、高虎は信澄の元を退去。
その話を聞きつけた羽柴小一郎長秀は、高虎は信澄が与えていた知行の4倍近い300石を提示して高虎を召し抱えました。
小代谷一揆を鎮圧して但馬国の平定に貢献
現代の日本では「藤堂高虎 = 戦国時代を生き抜いた成功者」や「築城名人」というイメージが強いかもしれません。
しかし藤堂高虎は羽柴小一郎長秀に仕えたものの、最初の数年は特に目立った軍功などもなかったようです。
そんな高虎が初めて、戦国武将として目覚ましい活躍をしたのが、1580(天正8)年の但馬国七美郡で発生した小代谷一揆(おじろだにいっき)の鎮圧です。
このころは羽柴小一郎長秀は兄・羽柴秀吉による中国討伐の一環として但馬一国を平定したばかりの頃でした。
同国の北西部に位置する七美郡小代谷には、小一郎長秀による但馬国の統治を良しとしない上月某・小代大膳・富安丹後・瓜原新左衛門という在地の勢力が残存しており、小一郎長秀に抵抗。
そこで小一郎長秀はこれらの一揆勢を鎮圧するために、高虎に鉄砲衆を預け、小代谷に出陣させます。藤堂高虎の伝記を記した「高山公実録」によると、藤堂高虎はこの戦いにおいて敵方の大将の一人である、富安丹後を討ち取ったとあります。
その後も高虎は一揆勢が立て篭もる城砦を攻略していきますが、その戦闘において敵の槍で自分の太ももを突かれても、一歩も退かないという鬼神も恐れるほどの戦働きがあったと伝わっています。
藤堂高虎は何がすごい?
「築城名人」と呼ばれる理由
小代谷一揆が鎮圧されたのちも、秀吉による「備中高松城攻め」では冠山城攻めの一番乗り、「山崎の戦い」では小一郎長秀隊の先陣を務め、さらには「賤ヶ岳の戦い」では猛将・佐久間盛政と対戦するなど、次々と軍功を挙げていきます。
しかし現代においてもなお「藤堂高虎がすごい」という理由は、こうした単騎で戦場を駆ける騎馬武者としての戦働きだけでは説明できません。
藤堂高虎には「築城名人」というイメージがありますが、このことは藤堂高虎が和歌山城の築城に関わっていたという江戸時代の伝承が残されていることにも一因があると考えられます。
この伝承によると藤堂高虎は、1585(天正13)年に羽柴秀長が一時、和歌山を本拠とした際、高虎の同僚であった羽田正親・横浜良慶とともに城の普請を担当したとされています。
伝承の当否は分かりませんが、「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されている黒田基樹さんの著書「羽柴秀長と藤堂高虎」によると、藤堂高虎は豊臣秀長に仕えた時代から「築城名人」であったことを指摘されています。
また高虎は、城郭などの建設工事(普請)や建物の建築(作事)にも高い能力を有していたことがうかがわれる。天正十二年の小牧・長久手合戦において、秀吉の近江土山の御座所普請を担った。聚楽第の徳川家康屋敷建設において、台所の建築を担った。また熊野本宮社修造の奉行を務めた。これらのことから、高虎が普請・作事においても高い能力を有していたとみることができるだろう。
黒田 基樹. 羽柴秀長と藤堂高虎 NHK出版新書 (pp. 168-169). (Function). Kindle Edition.
実は戦略の立案遂行と外交能力にも優れていた
ここまで読むと藤堂高虎は「武勇に優れた」・「戦場で指揮ができる」・「築城ができる」という3つの能力に優れていたことが分かるでしょう。
しかし、藤堂高虎は「現場を見る能力」だけでなく「全体を見る能力」にも優れていたようです。
そのことを示すのが1585年5月に行われた四国征伐での活躍です。この四国征伐は総大将は羽柴秀吉ではなく、弟の羽柴秀長でした。藤堂高虎は主君・秀長とともに紀伊から四国の阿波国に渡海。
相変わらず高虎は、長宗我部元親に味方する阿波の一宮城を落城させる活躍しますが、終戦の際には秀長方の交渉役として長宗我部元親に対する交渉実務を担っていました。
「羽柴秀長と藤堂高虎」によると、四国征伐以降も高虎は長宗我部家への「取次(とりつぎ。外交官のこと)」を行なったと指摘しています。
また四国征伐は、秀長の本隊を含め合計3つの軍で構成されていました。
- 阿波方面: 羽柴秀長(本隊)
- 讃岐方面: 羽柴秀次(別働隊)
- 伊予方面: 小早川隆景(別働隊)
このとき高虎は自身が担当する一宮城の攻略とは別に、讃岐方面の羽柴秀次(のちの豊臣秀次)と通信・連絡を行い、四国征伐全体の戦略をどのように進めるか意見具申ができる立場にあったと考えられています。
こうした藤堂高虎の「全体を見る能力」もまた「藤堂高虎はすごい人」であるという所以の1つでしょう。
ちなみに四国征伐ののち、豊臣秀長は戦功として兄・秀吉よりそれまでの和泉・紀伊の2カ国に加えて大和一国が加増されます。
この際、藤堂高虎も加増を受け、それまでの5,000石から、紀伊国粉河を中心として5,000石が加増され、初めて1万石を領する大名となりました。
家康の京屋敷建設を担当した
ここまでで「藤堂高虎はすごい人」ということは十分説明できたでしょう。
しかし後世に語られるように「藤堂高虎は家康のお気に入りだった」ということについては、十分説明できなかったかもしれません。
藤堂高虎は「豊臣恩顧の大名」でありながら、1600(慶長5)年の「関ヶ原の戦い」では東軍率いる徳川家康に味方。その時の戦功で伊勢津藩(伊勢安濃津藩)32万3,000石の大大名に取り立てられ、外様大名としては破格の恩賞に預かりました。
このことをもって藤堂高虎は「裏切り者」とするネガティブなイメージもついてまわることもあります。
しかし藤堂高虎は「天下分け目の戦い」目の前にして、打算だけで徳川家康についたわけではありません。実は藤堂高虎は「関ヶ原の戦い」のずっと以前から徳川家康と知遇を得ていたことが分かっています。
少なくとも1586(天正14)年ごろから藤堂高虎は、徳川家康と面識がありました。
実は同年に徳川家康が豊臣秀吉に臣従を誓ったのち、家康は京に屋敷を構えることになりますが、そのときの徳川家の「取次」を担当していた豊臣秀長は、藤堂高虎を京における徳川屋敷の普請責任者に任命しています。
後年、藤堂高虎は、徳川の治世となったときに江戸城の改築にも携わることになります。
このとき藤堂高虎が改築作業の責任者に任命されたのは、単に「築城名人」だったというわけではなく、豊臣秀長に仕えていた時代に築いたつながりによってなされたものであると考えることもできるでしょう。
豊臣兄弟!で藤堂高虎はどう描かれる?
若き高虎の出世物語に注目
「豊臣兄弟!」で描かれる藤堂高虎は、まだ“築城名人”として名を知られる以前の若い時代です。
浅井家滅亡後に主君を転々とした高虎が、羽柴小一郎長秀に見出され、実務・軍事・築城の能力を磨きながら成長していく姿が描かれる可能性があります。
特に高虎は、戦国武将としては珍しく「算術」・「兵站」・「普請」など、後方支援や実務能力にも優れていた人物として知られています。
→ 藤堂高虎は豊臣秀長の家臣だった?秀保近侍・軍事外交の役割を解説
秀長家臣団の成長が描かれる可能性
羽柴小一郎長秀の家臣団には、藤堂高虎をはじめ、後に豊臣政権を支える実務派武将たちが集まっていました。
「豊臣兄弟!」では、秀吉軍団とは異なる“秀長家臣団”の特徴や、実務型組織としての成長も重要なテーマになるかもしれません。
特に但馬・紀州・四国・九州などでの戦いを通じて、高虎がどのように経験を積み重ねていくのか注目です。
→ 豊臣秀長の家臣一覧|藤堂高虎らを育てた“秀長家臣団”とは?
後の“築城名人”になる伏線も?
藤堂高虎といえば、後世では今治城・伊賀上野城などを築いた「築城名人」として有名です。
しかし、その才能の原点は豊臣秀長に仕えていた時代にあったと考えられています。和歌山城の普請や京都における徳川屋敷建設など、「豊臣兄弟!」で描かれる時代は、後の高虎を形作る重要な時期でもあります。
→ 豊臣秀長と藤堂高虎の関係とは?7つの逸話と“本当の評価”を解説
藤堂高虎関連記事まとめ
「藤堂高虎とはどんな人物なのか?」をさらに詳しく知りたい方は、以下の関連記事もあわせてご覧ください。
藤堂高虎は何した人
藤堂高虎は「築城名人」というだけの人物ではありません。藤堂高虎の軍事・外交・実務能力を総合的に解説しています。
→ 藤堂高虎は何した人?秀長に重用された理由と“本当のすごさ”を解説
藤堂高虎は豊臣秀長の家臣だった?
「大和大納言家」とも呼ばれた豊臣秀長の家中や豊臣政権内部における、藤堂高虎が果たした軍事・外交・行政実務を詳しく解説しています。
→ 藤堂高虎は豊臣秀長の家臣だった?秀保近侍・軍事外交の役割を解説
豊臣秀長と藤堂高虎の関係とは?
若き日の藤堂高虎は豊臣秀長によって育てられたと言っても過言ではありません。和歌山城の築城や徳川家康の京における屋敷建設などの逸話を通して、藤堂高虎が戦国時代でも屈指の武将に成長した過程をご紹介します。
→ 豊臣秀長と藤堂高虎の関係とは?7つの逸話と“本当の評価”を解説
豊臣秀長の家臣一覧
「天下一の補佐役」と呼ばれる豊臣秀長の家臣団全体の特徴や、実務型組織としての特徴を解説しています。
→ 豊臣秀長の家臣一覧|藤堂高虎らを育てた“秀長家臣団”とは?
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
「豊臣兄弟!」の今後の展開や全話の流れを知りたい方は、以下の記事もおすすめです。
豊臣兄弟! 全話あらすじ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の全話あらすじや登場する人物たち・人間関係・相関図などについては下記の記事を参考にしてください。
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豊臣兄弟! 最終回までのネタバレ
また最終回までのネタバレ・史実・結末などのまとめについては下記の記事が参考になるでしょう。
→ 豊臣兄弟! ネタバレ最終回まで 全話あらすじ・結末まとめ
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんと柴裕之さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
