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藤堂高虎は豊臣秀長の家臣だった?秀保近侍・軍事外交の役割を解説

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藤堂高虎は、本当に豊臣秀長の家臣だったのでしょうか?

結論から言うと、藤堂高虎は秀長政権を支えた“実務・軍事担当”の中核家臣でした。

1576年ごろに羽柴小一郎長秀(豊臣秀長)へ仕官した藤堂高虎は、

・但馬国小代谷一揆の鎮圧
・四国征伐
・北山一揆の対処
・長宗我部家との外交
・和歌山城の普請
・徳川家康の京屋敷を建設

などで活躍し、軍事・外交・築城・行政実務を担う存在へ成長していきます。さらに豊臣秀長が病死したのちも離反することなく、豊臣秀保に仕え続けました。

また藤堂高虎は、秀長家の後継問題にも深く関わった人物でした。

羽柴与一郎死後に秀長家の養嗣子となった千丸(後の藤堂高吉)は、後に豊臣秀吉の命令によって高虎の養子となっています。

本記事では、藤堂高虎が秀長政権で果たした役割や、秀保近侍時代まで詳しく解説します。

藤堂高虎は何した人?秀長に重用された理由と“本当のすごさ”を解説
豊臣秀長と藤堂高虎の関係とは?7つの逸話と“本当の評価”を解説
豊臣秀長の家臣一覧|藤堂高虎らを育てた“秀長家臣団”とは?

目次

結論:藤堂高虎は秀長政権を支えた実務・軍事担当だった

結論から言うと、藤堂高虎は単なる「築城名人」ではなく、豊臣秀長政権を軍事・外交・普請・行政の各分野から支えた“実務型武将”でした。

若い頃の高虎は、浅井家や阿閉家などを転々とする「扱いづらい危険人物」でもありました。しかし羽柴小一郎長秀(豊臣秀長)は、その武勇・気位・能力の高さを見抜き、300石という厚遇で召し抱えています。

その後の高虎は、小代谷一揆鎮圧・四国征伐・北山一揆対応などで活躍。さらには築城・普請・外交交渉・山林資源管理にも関与し、秀長政権を支える中核家臣へ成長していきました。

さらに高虎は、豊臣秀長の元養嗣子・千丸(後の藤堂高吉)の養父となった人物でもあり、秀長家の後継問題とも深く関わっていました。

▼要点まとめ

  • 1576年ごろから羽柴小一郎長秀に仕える
  • 小代谷一揆で武将として頭角を現す
  • 四国征伐では外交・戦略面でも活躍
  • 和歌山城や徳川屋敷普請にも関与
  • 紀伊国では山奉行代理として行政実務も担当
  • 千丸(のちの藤堂高吉)の養父
  • 秀長死後は豊臣秀保に仕えた

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藤堂高虎はいつから豊臣秀長に仕えたのか?

浅井家の家臣を切って出奔

藤堂高虎が最初に仕えた主人は浅井長政でした。ただ浅井家中における高虎の身分は高くなく、足軽などの下級兵士に相当する身分であったと考えられています。

1570(元亀元)年6月に行われた「姉川の戦い」では浅井側の一兵卒として出陣。この戦いが高虎にとっての初陣でした。

ところが1572(元亀3)年に藤堂高虎は17才のときに、同じく浅井家の家臣であった山下嘉助(やましたかすけ)という者と諍いを起こし、嘉助を討ち取ってしまうという事件を起こしました。

このため高虎は浅井家に居づらくなり、出奔することになります。

浅井長政から阿閉貞征・磯野員昌と仕える主君を変更

藤堂高虎が次に仕えたのが浅井長政の重臣で、山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)。

しかし高虎は阿閉家でも中間(武士ではない武家奉公人)2人を喧嘩の末、切り殺すという事件を起こしています。1573(天正元)年のことでした。

阿閉家にも居られなくなった藤堂高虎が次に仕えたのが、当時、佐和山城主であった磯野員昌。当時の磯野員昌は浅井家から織田家に帰参した頃の時期でした。

おそらく浅井家関係者の間では、あちこちで問題を起こす藤堂高虎は「危険人物」として見做され、すでに家臣として仕える可能性を失っていたのかもしれません。

禄高の不足を理由に織田信澄の元を退去

藤堂高虎が3番目に仕えた磯野員昌は、織田信長の甥・織田信澄(または信重ともいう)を養子として迎えたことから、高虎は信澄に仕えることになります。

「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されている黒田基樹さんの著書「羽柴秀長と藤堂高虎」を読む限り、磯野員昌や織田信澄の元では、他の家臣として喧嘩をして斬り捨てるなどという乱暴な行動は見られません。

それどころか織田信澄に従って、丹波攻めに従軍し、籾井城攻めの際には先陣の功名を挙げたとあります。

ところが問題はこの後です。

この戦功により、藤堂高虎は織田信澄の母衣衆の1人として取り立てるという話が持ち込まれました。

母衣衆とは戦の際、総大将の近くに侍り、護衛や伝令の役目を担う「総大将の親衛隊」というべきエリート武士たちです。母衣衆は常に主人のそば近くにいるため、目に留まりやすく、武士として出世するにはまたとない地位です。

しかし藤堂高虎はこの話を辞退。理由は母衣衆に取り立てられるものの、知行はそれまでの80石で据え置かれたからです。

高虎に言わせると「80石では母衣衆は務まらない」というのです。その結果、高虎は1574(天正2)年に織田信澄の元を退去。ここから1年余の間、羽柴小一郎長秀に召し抱えられるまでの間、浪人生活を送っていたと考えられます。

こうして見ると、青年時代の藤堂高虎は、単に「血の気が多かった」だけでなく「気位も高かった」という二重の意味で扱いづらい人物であったことが伺えるでしょう。

300石で羽柴小一郎長秀に召し抱えられる

この上なく扱いづらい人物であったはずの、藤堂高虎を最終的に召し抱えたのが、羽柴小一郎長秀(のちの豊臣秀長)でした。1576(天正4)年のことです。

おそらく小一郎長秀は、藤堂高虎の乱暴な人物像や素行の悪さ、直近においてなぜ織田信澄と揉めて出奔したか、その理由までよく分かっていたのではないかと推測できます。

そのことをよく承知した上で、小一郎長秀は信澄が与えた知行80石と比べて4倍近い300石で召し抱えています。

ひょっとすると当時の小一郎は高虎の武勇とプライドの高さを考慮して300石を提示したのかもしれません。

ただ兄・羽柴秀吉が、浅井家を殲滅した戦功により近江長浜12万石の大名に取り立てられたにも関わらず、その格に見合う文武に秀でた家臣が不足していたという史実も見逃すこともできないでしょう。

秀長家臣としての藤堂高虎の役割とは?

戦場での指揮官として各地を転戦

単騎で戦場を駆ける武者としての藤堂高虎の活躍は、1580(天正8)年1月に行われた、羽柴秀吉による三木城への総攻撃で見られます。

このとき高虎は三木城に籠る別所方の家老・賀古六郎右衛門(かころくろうえもん)を討ち取る武功を挙げました。

ただし優れた指揮官として武功を挙げたのは、同年に行われた但馬国七美郡で発生した「小代谷一揆」の鎮圧です。当時、但馬国全域を実効支配していた、羽柴小一郎長秀は高虎に鉄砲隊を預けて出陣を命令。

このとき藤堂高虎の伝記を記した「高山公実録」によると、大将の一人である富安丹後を討ち取り、さらに一揆勢が立てこもる砦を次々に陥落させていきました。

紀州・四国・九州・関東で秀吉の「天下取り」に貢献

1582(天正10)年に織田信長が「本能寺の変」において明智光秀に討ち取られたのち、天下の趨勢はその明智光秀を討ち取った羽柴秀吉に傾いていったことは周知の事実です。

その過程では

  • 山崎の戦い(1582年)
  • 賤ヶ岳の戦い(1583年)
  • 小牧・長久手の戦い(1584年)
  • 紀州征伐(1585年3月)
  • 四国征伐(1585年5月)
  • 九州征伐(1586年)
  • 小田原征伐(1590年)

と、学校で使われる日本史の教科書にも掲載されるほどの有名な戦いが行われました。

これらいずれの戦いにおいても藤堂高虎は「先陣を務める」、「敵方の主要な城を陥落させる」、「苦戦に陥った味方の将兵を救出」するなどの華々しい武功を立てています。

これらの戦いでは小田原征伐を除いて、豊臣秀長も従軍しており、藤堂高虎は「秀吉の天下取り」に貢献したと言っても差し支えないという活躍を見せています。

外交・交渉役としても活動

現代の日本人が藤堂高虎に対して抱くイメージは「マルチに活躍した戦国武将」というイメージでしょう。

実際、藤堂高虎は単に「武官」として優れていただけではなく、「文官」としても優れた人材であったことが分かっています。その1つの例が、「四国国分(しこくくにわけ)」とも呼ばれる、四国征伐の戦後処理でしょう。

「四国国分」はそれまで四国全島を領有していた長宗我部元親の所領を土佐一国にとどめ、元親の息子であった信親と親忠の2人を豊臣家への人質に差し出すという方針で決着。この交渉役として藤堂高虎が外交実務を担ったと考えられています。

ちなみに藤堂高虎は四国平定後に、豊臣秀長の家臣として長宗我部元親の「取次(外交官)」を引き続き行いました。

→ 長宗我部元親とは信長・秀吉に対抗した四国の雄

北山一揆の鎮圧など治安維持にも貢献

歴史の大局では16世紀の終わりごろに豊臣秀吉が戦国時代を終わらせ「天下統一」を果たしたことになっています。

ただし、ミクロ的に見ると各地で戦国時代の気風はまだまだ残っており、あちこちで反乱勢力がくすぶっていました。その1つが豊臣秀長が統治していた紀伊国です。

紀伊国は1585(天正13)年に紀州征伐が行われましたが、紀伊国全域で支配の象徴であった「太閤検地」が完了したのは、なんと1591(天正19)年に豊臣秀長が死去したのちのこと。

戦国時代の紀伊国は、現在の和歌山県にほぼ相当しますが、今の和歌山県も南に行くほど山が深くなることで有名です。こうした特徴的な地形もあり、中世における紀伊国は「難治の国」として中央の武士による支配が行き届きにくい国でした。

その中でも特に北山地域(現在の和歌山県北山村)は「陸の孤島」とも言える土地で、生前の豊臣秀長は最後まで「太閤検地」に従わない北山一揆に悩まされていたようです。

藤堂高虎は、他の家臣である杉若無心宇多頼忠桑山重晴青木重吉らと共に、たびたび北山一揆の鎮圧に対処していました。

千丸(藤堂高吉)の養父となった高虎

羽柴与一郎死後、千丸(後の藤堂高吉)は秀長家の正式な養嗣子となりました。

しかし1588(天正16)年、鍋丸(後の豊臣秀保)が新たな養嗣子となったことで、千丸は事実上廃嫡されます。

その後、豊臣秀吉の命令によって千丸は藤堂高虎の養子となりました。

「豊臣兄弟!」の時代考証担当である黒田基樹氏は、高虎が秀長家生え抜き家臣の筆頭格だったことが背景にあった可能性を指摘しています。

藤堂高虎はなぜ重用された?

築城・土木に優れていた

ここまで藤堂高虎の人物像を解説すると、軍事と外交に明るかった戦国武将として理解できるでしょう。

一方、三重県津市が公開している藤堂高虎の年表を見ると、「お城の人」というイメージが浮かびます

  • 近江膳所城の築城
  • 伏見城の修築
  • 江戸城の修築
  • 丹波篠山城を修築
  • 丹波亀山城を修築
  • 津城の修築
  • 伊賀上野城の修築

このことから史実の藤堂高虎は「技術官僚」としても優れていたことが分かります。

築城や城の修築・改築といった技術は、戦国武将にとっては必須のスキルの1つですが、藤堂高虎は1576(天正4)年から1591(天正19)年にかけて、豊臣秀長に仕えた時代に培ったスキルであると考えられます。

そのことを示す例の1つが1585(天正13)年に、同じく秀長家臣の横浜一庵(または横浜良慶)羽田正親らと共に取り組んだ和歌山城の築城に携わったという伝承でしょう。

伝承の当否は分かりませんが、「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されている黒田基樹さんの著書「羽柴秀長と藤堂高虎」によると、藤堂高虎は豊臣秀長に仕えた時代から「築城名人」であったことを指摘されています。

また高虎は、城郭などの建設工事(普請)や建物の建築(作事)にも高い能力を有していたことがうかがわれる。天正十二年の小牧・長久手合戦において、秀吉の近江土山の御座所普請を担った。聚楽第の徳川家康屋敷建設において、台所の建築を担った。また熊野本宮社修造の奉行を務めた。これらのことから、高虎が普請・作事においても高い能力を有していたとみることができるだろう。

黒田 基樹. 羽柴秀長と藤堂高虎 NHK出版新書 (pp. 168-169). (Function). Kindle Edition.

行政能力も非常に高かった

ここまでの説明で藤堂高虎は戦国時代において優れた戦国武将であり、技術官僚であることは分かるでしょう。さらに藤堂高虎が豊臣政権にとっての財務官僚であったことを示す例もあります。

藤堂高虎は紀伊国の熊野地方において豊臣家の「山奉行代理」も務めていました。

「山奉行」は、もともと吉川平助という紀伊雑賀城の城主が任されていた役職でした。しかし、1588(天正16)年に吉川平助が材木の不正売買に関わったとして秀吉から死罪に処されたのち、その役職は藤堂高虎と羽田正親が担当することに。

現在の和歌山県も都道府県別に見て森林面積が全国6位の県であり、林業が比較的盛んな地域です。そのことは昔から変わらず、山で植林されている木そのものが財産という考え方です。

このことからも紀伊国とそこで植林されている木及び加工された木材とは、文字通り「金の成る木」であり、当時の豊臣政権を財政面から支える貴重な資産であったと考えられます。

藤堂高虎はそういった資産の管理を任された「財務官僚」であったとも言えるのです。

秀長政権の「調整型組織」に適合した

ここまでの説明で分かるように、藤堂高虎は単純な「猛将タイプ」の武将ではありません。

  • 軍事指揮
  • 築城・普請
  • 外交交渉
  • 山林資源管理
  • 治安維持(一揆鎮圧)

など、多岐にわたる実務を担っていました。実は、こうした能力は豊臣秀長の政権運営方針と非常に相性が良かったと考えられます。

兄・羽柴秀吉が強烈なカリスマ性と突破力で天下統一を進めた一方、弟の羽柴小一郎長秀は、諸大名・国衆・寺社勢力との調整を重視する「実務型」の政治運営を得意としていました。

紀伊・大和・和泉など、統治が難しい地域を任されていたこともあり、秀長家臣団には単純な武勇だけでなく、

  • 現地勢力との交渉
  • 検地や徴税
  • 城の普請
  • 治安維持

などを担える人材が必要だったのです。その中で藤堂高虎は、

  • 戦場では先陣を務める武勇
  • 技術官僚としての築城能力
  • 外交官としての交渉力
  • 行政官としての実務能力

を兼ね備えた、極めて貴重な存在でした。

藤堂高虎が後年、「築城名人」「徳川家康の側近」として大成した背景には、豊臣秀長のもとで積み重ねたこうした実務経験が大きかったと言えるでしょう。

豊臣秀長死後の藤堂高虎と豊臣秀保

小田原征伐では秀長の代理も務めた

晩年の豊臣秀長は「霍乱(急性胃腸炎)」や「横根(リンパ節炎)」など、ウィルスや細菌の作用が影響する症状に苦しめれられていました

そのため、豊臣秀長は1591(天正19)年1月21日に亡くなる前年に行われた小田原征伐には参陣してません。このとき秀長の代理として小田原に参陣したのが、藤堂高虎でした。

藤堂高虎の伝記を記した「高山公実録」によると、小田原征伐における藤堂高虎は伊豆の韮山城攻めに戦功があったとされています。

豊臣秀保の近侍として引き続き仕える

1591(天正19)年1月21日、豊臣秀長が大和郡山城で病死

後継者はかねてから養嗣子として指名されていた豊臣秀保でした。藤堂高虎は引き続き豊臣秀保に仕える一方で、秀長から預かった養嗣子の千丸を元服させ、藤堂一高(かつたか)と名乗らせます

また1592(文禄元年)の朝鮮出兵(文禄の役)では、紀伊国の国衆(杉若氏宗など)たちとともに朝鮮に渡海しました。

秀保が死去したのち「出家」して僧侶に

しかし今度は豊臣秀保が1595(文禄4)年3月ごろから病気を患うようになり、大和国の十津川で療養をしていましたが、同年4月16日に病死

このため秀長・秀保の二代に渡って続いた「大和大納言家」が断絶します。真偽は分かりませんが、このとき高虎は出家して高野山に遁世したという逸話が残されています。

文禄四年四月に秀保が死去すると、高虎は剃髪して紀伊高野山に遁世したという。秀保の死去により、大和羽柴家の断絶にともなう行動ということになっている。しかし大和羽柴家については、同年四月二十七日には、秀次の子によって継承させることが取り決められていたことが明らかになっている(村井祐樹『中世史料との邂逅』)。しかしこの取り決めは、同年七月の秀次事件によって消滅することになる。そのことを踏まえるならば、高虎の出家・遁世は創作か、あったとすれば秀保個人の死を悼み、その後の大和羽柴家の存続とは無関係に行われたことになる。

黒田 基樹. 羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人 (角川選書) (pp. 58). (Function). Kindle Edition.

藤堂高虎は本当に出家したのか?

藤堂高虎は、豊臣秀保が病死したのち本当に出家して高野山で僧侶になっていたかどうか、その真偽は分かりません。

しかし、本当に豊臣秀保を悼んで出家していたとすれば、現代の日本の一部で伝わる「藤堂高虎は裏切り者」というイメージとはかなりかけ離れたエピソードです。

ただ藤堂高虎は豊臣秀長の家臣として「扱いづらい危険人物」から紀伊粉河2万石の大名として、しかも「従五位下佐渡守」という朝廷から正式な官位官職を授けられる地位に引き上げてもらった「恩義」があります。

そのことを踏まえると「藤堂高虎は豊臣秀保の死後に出家した」という逸話は、一概に「作り話」と否定することはできないでしょう。

豊臣秀吉の直臣に転じたのち「関ヶ原の戦い」で徳川家康に味方

「藤堂高虎出家説」の真偽はさておき史実において、藤堂高虎は豊臣秀吉の直臣に転じたことが分かっています。

ただ藤堂高虎は、他の秀長の家臣である杉若無心や横浜良慶(横浜一庵)などと異なり、秀吉から大きな加増を受け、紀伊粉河2万石から伊予宇和島7万石の領国大名に出世しました。

さらに朝鮮出兵(慶長の役)での戦功が認められ、伊予大洲で1万石がさらに加増され、「関ヶ原の戦い」東軍率いる徳川家康に味方するまでに、高虎の知行高は8万石を数えるようになります。

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参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の黒田基樹さんと編著者の柴裕之さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

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