豊臣秀保(羽柴秀保)は、豊臣秀長の姉・瑞竜院殿日秀尼(「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)の三男として生まれた人物です。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、豊臣秀次・豊臣秀勝の弟にあたる「ともの子供」として注目されています。
また、最終的には豊臣秀長家を継承した養嗣子でもあり、秀長家の後継問題とも深く関わる存在でした。
▼要点まとめ
・豊臣秀保は「ともの三男」
・豊臣秀次・豊臣秀勝の弟
・最終的に豊臣秀長家を継いだ
・与一郎・千丸(仙丸)に続く後継者
・1595(文禄4)年に17才で死去
本記事では、豊臣秀保の家族関係や、「豊臣兄弟!」における役割について分かりやすく解説します。
また、秀長家の後継問題や、与一郎・千丸(仙丸。のちの藤堂高吉)との関係については、下記の記事もあわせてご覧ください。
→ 豊臣秀長 子供 豊臣秀保|秀長の2番目の養嗣子について詳しく見る
結論|豊臣秀保は「ともの三男」であり秀長家最後の後継者
豊臣秀保は、豊臣秀長の姉・瑞竜院殿日秀尼(「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)の三男として生まれた人物です。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、豊臣秀次・豊臣秀勝の弟として描かれる可能性が高い人物でもあります。
また、最終的には豊臣秀長家の養嗣子となり、与一郎・千丸(仙丸。のちの藤堂高吉)に続く後継者として秀長家を継承しました。
豊臣秀保と秀長家の後継関連記事
豊臣秀保は最終的に秀長家を継いだ
豊臣秀保の生涯や、秀長家最後の後継者となった経緯について整理した記事です。
→ 豊臣秀長 子供 豊臣秀保|秀長の2番目の養嗣子について詳しく見る
豊臣秀保の死因について
豊臣秀保は1595(文禄4)年に17才で死去しました。現在では麻疹(はしか)や痘瘡(天然痘)による病死説が有力視されています。
日秀尼(とも)の子孫たち
豊臣秀次・豊臣秀勝・豊臣秀保ら、ともの子供や子孫について整理した記事です。
豊臣秀保の名前について
豊臣秀保とは
豊臣秀保(とよとみひでやす)(1579~1595年)とは、豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀(大河ドラマ「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)と三好吉房の三男で、秀吉の後に関白に就任する豊臣秀次の弟にあたる人物です。
豊臣秀保は1591(天正19)年1月に豊臣秀長が病死した後、後継者として紀伊・大和の2カ国を領国として相続・統治した人物として知られています。
豊臣秀保は単なる「豊臣秀次の弟」ではなく、最終的には豊臣秀長家を継承した養嗣子です。
与一郎・千丸(仙丸。のちの藤堂高吉)から続く秀長家の後継問題については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣秀長 子供 豊臣秀保|秀長の2番目の養嗣子について詳しく見る
また、豊臣秀保の死因については、現在では麻疹(はしか)や痘瘡(天然痘)などによる病死説が有力視されています。
豊臣秀保の名前
豊臣秀保の幼名は鍋丸(なべまる)と言いますが、1588(天正16)年の後陽成天皇による聚楽第行幸において「御虎侍従」と記録されたことから幼名を「御虎(おとら)」とする説もあります。
さらに豊臣秀保は「大和大納言」と呼ばれた豊臣秀長の後継者として紀伊・大和の領国を統治したことから、「大和中納言」と呼ばれることもあります。
「豊臣」は氏姓で「羽柴」は苗字
なお豊臣秀保の名前として「羽柴秀保」と呼ぶこともありますが、「豊臣秀保」も「羽柴秀保」もどちらも正しい呼び方です。「豊臣」は天皇から下賜された氏姓であり、「羽柴」は苗字であるためです。
明治時代以降の日本では氏姓も苗字も「上の名前」として同じ意味で扱われますが、江戸時代以前の日本では氏姓と苗字は別の意味を持っていました。
氏姓とは朝廷の臣下であることを示す朝臣名であり、苗字は主にその人がどこの出身であるか地名に基づく名前です。
そのため安土桃山時代に存在した豊臣秀保が「豊臣秀保」と「羽柴秀保」のどちらを名乗っても名前としては正しいのです。
豊臣秀保の出自と家族
豊臣秀保の出自
豊臣秀保は、豊臣秀吉・秀長兄弟の姉にあたる瑞竜院日秀と三好吉房の三男です。つまり豊臣秀保は豊臣秀吉・秀長兄弟とは甥と叔父の関係にあります。
ただし豊臣秀保が誕生した年は1579(天正7)年であり、この年は瑞竜院日秀が46才の年にあたります。よって豊臣秀保は瑞竜院日秀の実子ではなく、養子であると考えられています。
豊臣秀保が瑞竜院日秀の養子だった場合、その実母は誰なのかは不明です。
豊臣秀保の家族
豊臣秀保には2人の兄である、長兄の豊臣秀次と次兄の豊臣秀勝(小吉)がいます。また豊臣秀保は1591(天正19)年に豊臣秀長の長女と結婚したことが知られています。
豊臣秀保の動向
千丸に代わって鍋丸が豊臣秀長の養子に
1588(天正16)年1月、瑞竜院日秀尼の三男・鍋丸は豊臣秀長の養嗣子、つまり「大和大納言家」の後継者として迎えられることになります。
実は鍋丸の前には丹羽(惟住)長秀の三男・千丸(仙丸)という男の子が、すでに豊臣秀長の後継者として養子に迎えられていました。
しかし丹羽家出身の人間が豊臣一門衆の筆頭である「大和大納言家」の跡継ぎとなるのは望ましくないという、豊臣秀吉(池松壮亮)の政治的な計算が働きます。
千丸は藤堂高虎の嫡子として豊臣一門から体よく追い払われ、代わって鍋丸が秀長の後継者に指名されることになりました。
その結果、同年4月にはまだ10才そこそこの年齢にも関わらず、鍋丸は朝廷から従四位下侍従に叙任。後陽成天皇による聚楽第行幸にも公卿として参列し、名実ともに秀長の後継者に収まります。
豊臣秀長死後に紀伊・大和を領国統治を開始
1591(天正19)年1月、豊臣秀長の病気が重篤の中、秀長と摂取院光秀との間にできた秀長の長女と婚約を交わしたのち、同月21日に秀長が大和郡山城で死去。
27日には叔父・豊臣秀吉から、紀伊・大和の2カ国を相続と、家臣・横浜良慶(横浜一庵)の後見を受けることを記した朱印状を受け取り領国統治を開始します。
朝鮮出兵では肥前名護屋に出陣
秀長の跡を継いだことで、秀保は朝廷における官位の昇進を順調に重ねます。従四位下侍従から正四位下参議をへて、1592(天正20)年1月には従三位権中納言に叙任。
またその一方で秀吉の朝鮮出兵に際しては、秀保は約1万の兵を動員し、肥前名護屋に出征。秀保自身は朝鮮半島に上陸することはなかったものの、重臣・藤堂高虎や紀伊国の国衆(杉若氏宗や桑山一晴など)が渡海を果たします。
さらに1594(文禄3)年には、秀保とその妻の婚儀が大和郡山城で執り行われ、長兄・豊臣秀次をはじめとした豊臣一門の訪問を受けています。
秀保死後に家系は断絶
豊臣秀保は1595(文禄5)年3月ごろから病気を患うようになり、大和国の十津川で療養をしていましたが、同年4月16日に死去。
しかし秀保とその妻の間には子供はいません。秀保の妻は秀保が亡くなった時点での年齢が8才に過ぎなかったからです。
秀保の家臣団は秀保の長兄にあたる豊臣秀次から2才の子供を養子に迎え、さらに居城を秀吉から「所悪」と呼ばれていた郡山城から多聞山城に移すことで家名の存続を図ろうとします。
しかし同年7月に起きた豊臣秀次切腹事件のため、家名存続は実現せず、豊臣秀長の家系による大和・紀伊両国の支配は終了することになりました。
「豊臣秀保 溺死説」は誤り
なおインターネット上で豊臣秀保のことを調べていると、時々「秀保は溺死した」という記事や記述を見かけます。しかしこの溺死説は大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている柴裕之さんによって否定されています。
なお『公卿補任』にも横死としてあることは、既に掲げた如くである。しかしながら、これらはすべて後世の俗説であって、訂正すべきところが多いのである。以下『駒井日記』によって実情を究め、大和中納言のために弁護の労をとってみよう。
柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版 354ページより
豊臣秀保の死因については「豊臣秀保の死因は麻疹あるいは痘瘡による病死」という記事を参考にしてください。
なお、豊臣秀保だけでなく、羽柴与一郎・藤堂高吉(千丸)など、豊臣秀長家の男子後継者全体については下記の記事で整理しています。
参考文献
今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。柴裕之さんと黒田基樹さんは、いずれも2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
- 柴裕之「羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書 679)」
- 黒田基樹「羽柴秀長の生涯: 秀吉を支えた「補佐役」の実像」平凡社新書
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版
