豊臣秀次(1564?~1595年)は生涯において宮部継潤と三好康長の2人の養子となったことが史料から確認できます。
一方で、インターネット上では「豊臣秀次は豊臣秀吉の養子となり、豊臣家の後継者になった」と説明されることも少なくありません。
しかし近年の研究では、豊臣秀次が豊臣秀吉と正式に養子縁組をしたことを示す明確な一次史料は確認されていないという見解が示されています。
▼要点まとめ
・豊臣秀次(1564?~1595年)が2度養子に出された理由
・宮部継潤・三好康長との養子関係
・豊臣秀吉の養子になったことを示す史料は見つかっていない
→ 豊臣秀次とは?
→ 三好信吉とは?三好康長の養子だった豊臣秀次
→ 豊臣秀次の家系図
→ 豊臣秀吉と寧々の養子 秀勝(於次丸)・ごう・小姫・秀俊の4人
結論:豊臣秀次が秀吉の養子だったことを示す史料は見つかっていない
豊臣秀次(1564?~1595年)が豊臣秀吉と正式に養子縁組を結んだことを示す明確な一次史料は、現在のところ確認されていません。
豊臣秀次が養子となったことが史料から確認できるのは、
・宮部継潤
・三好康長
の2人の戦国武将だけです。
その一方でインターネット上では「豊臣秀次は3度養子になった」と説明されることもあります。
これは豊臣秀次が叔父・豊臣秀吉から豊臣家の後継者として1591(天正19)年12月28日に関白職と氏長者(うじのちょうじゃ。一族の代表者のこと)の地位を譲られて「秀吉の養子になった」という認識から来るものでしょう。
しかし、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当する黒田基樹氏は、その著作において「秀吉が秀次と養子縁組したことを示す明証は確認されていない」と指摘しています。
また、日本中世史の研究者である小和田哲男氏も、「秀次が秀吉の養子となった確証は今のところない」という見解を示しています。
つまり現在の研究では、
・宮部継潤・三好康長との養子関係は確認できる
・秀吉との養子縁組は史料上、断定できない
という理解が有力な見解の一つとなっています。
その理由を、史料と研究者の見解をもとに詳しく見ていきましょう。
→ 豊臣秀次とは?
→ 三好信吉とは?三好康長の養子だった豊臣秀次
→ 豊臣秀次の家系図
→ 豊臣秀吉と寧々の養子 秀勝(於次丸)・ごう・小姫・秀俊の4人
→ 豊臣兄弟 豊臣秀次(山田涼介)
→ 豊臣兄弟 三好信吉(山田涼介)
なぜ豊臣秀次は「秀吉の養子」と考えられてきたのか
豊臣秀次は1591(天正19)年に秀吉から関白職を譲られた
豊臣秀次は、Wikipediaや歴史解説サイトなどで「豊臣秀吉の養子」と説明されることが少なくありません。
その背景には、秀次が1591(天正19)年12月28日に豊臣秀吉から関白職と氏長者の地位を譲られ、豊臣政権の後継者として位置付けられたことがあります。
豊臣秀長と豊臣秀保の例
戦国時代には、養子(養嗣子)に迎えられた人物が、家督や所領を相続することは珍しいことではありませんでした。
実際に豊臣秀吉の弟・豊臣秀長も1588(天正16)年1月に自らの甥にあたる鍋丸(のちの豊臣秀保)を養嗣子として迎えました。
そして1591(天正19)年1月21日に豊臣秀長が病死すると、この豊臣秀保が生前の秀長の所領のうち、大和・紀伊の2カ国を相続する形で「大和大納言家」を相続したという例もあります。
したがって、「豊臣秀次は豊臣秀吉の養子になって豊臣宗家の家督を継いだ」と一般的に認識されるようになったことも無理はありません。
豊臣秀次が秀吉の養子となった史料は見つかっていない
しかし、豊臣秀次と豊臣秀吉の関係に限って見ると後継者になったことと、正式に養子縁組をしたことは必ずしも同じではありません。
実際、近年の研究では、豊臣秀次と豊臣秀吉との養子縁組を示す明確な史料は確認されていないと指摘されています。
そのため近年では、「豊臣秀吉の後継者であったこと」と「豊臣秀吉の正式な養子であったこと」は区別して考えるべきだという見解が示されています。
次に、その根拠となる史料と研究者の見解を見ていきましょう。
→ 豊臣秀吉と寧々の養子 秀勝(於次丸)・ごう・小姫・秀俊の4人
豊臣秀次の養子関係(史実ベース)
宮部継潤の養子(1回目:1571年ごろ~1582年)
豊臣秀次(幼名・万丸または次兵衛)は、1571(元亀2)年ごろに宮部継潤の養子となったと考えられています。
この養子縁組は、木下藤吉郎秀吉が浅井長政の家臣・宮部継潤を織田信長方へ調略するために行われた政治的措置であり、実質的には人質としての意味合いが強いものでした。
当時の秀次はまだ幼少で、自らの意思で養子になったわけではありません。木下家と宮部家との結び付きを保証する存在として宮部家へ入り、「宮部次兵衛尉吉継」を名乗って宮部家の一員として扱われました。
→ 宮部継潤とは?豊臣秀次の最初の養父
→ 万丸とは?
→ 万丸はその後どうなる
三好康長の養子(2回目:1582~1584年の半ば)
1582(天正10)年6月2日の本能寺の変後、当時の豊臣秀次は宮部継潤の養子を離れ、阿波国の大名・三好康長の養子となります。
この2度目の養子縁組は、羽柴秀吉が四国の有力大名であった三好家との関係を強化するために行った政治的判断と考えられています。
三好家へ入った秀次は「三好孫七郎信吉」と改名し、三好氏の後継者として位置付けられました。
つまり、宮部継潤・三好康長への養子入りはいずれも、戦国大名同士の同盟関係や政治的な結び付きを強化するための養子縁組だったと考えられます。
当時の豊臣秀次が、三好康長と養子縁組をした経緯や政治的理由については、以下の記事で詳しく解説しています。
→ 三好康長とは?三好信吉の養父
→ 三好孫七郎信吉とは?三好康長の養子
→ 豊臣兄弟 三好信吉(山田涼介)とは?
豊臣秀次と豊臣秀吉は本当に養子と養父だったのか
黒田基樹氏の見解(出典・引用あり)
1591(天正19)年12月28日、豊臣秀次は叔父・豊臣秀吉から関白職と豊臣家の氏長者の地位を譲られ、豊臣政権の後継者となりました。
一般的には、この関白就任と氏長者就任をもって「豊臣秀次は豊臣秀吉の養子になった」と説明されることが少なくありません。
しかし、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当する黒田基樹氏は、豊臣秀次の動向を知るための第一級史料である「駒井日記」などの記録に基づいて、秀吉と秀次が正式に養子縁組をしたことを示す明確な史料は確認されていないと指摘しています。
しかし現在のところ、秀吉が秀次と養子縁組したことを示す明証は確認されていない。養子縁組した場合、秀次は秀吉正妻の寧々とも養子縁組したと考えられるが、その形跡もみられていない。むしろ秀次の関白任官後、実父の三好常閑と実母の瑞竜院殿は、「三位法印様・大かみ様」として、秀次の父母として処遇されており(「駒井日記」文禄二年閏九月六日条〈刊本二頁〉など)、対して秀吉の家族については、「太閤様」「北政所様」「御ひろひ様」「同御袋様」などと記していて(「駒井日記」刊本九〇頁)、同一家の扱いにはないととらえられる。
黒田氏は、豊臣秀次が関白に任官した後も実父・三好吉房(常閑)と実母・瑞竜院殿日秀尼(「豊臣兄弟!」におけるともにあたる女性)が「秀次の父母」として扱われていた点を重視しています。
黒田氏の記述を踏まえると、関白就任後の豊臣宗家は、後継者たる男子がいない豊臣秀吉から、「日秀尼―豊臣秀次」の系統へ移ったようにも理解できます。
→ 瑞竜院日秀尼とは?豊臣秀次の母
→ 三好吉房とは?豊臣秀次の実父
小和田哲男氏の見解(出典・引用あり)
黒田基樹氏と同様に、日本中世史の研究者である小和田哲男氏も、豊臣秀次を秀吉の養子と断定することには慎重な立場を示しています。
なお、諏訪勝則氏は、前掲論文「豊臣政権と三好康長─信孝・秀次の養子入りをめぐって─」で、このときの信吉から秀次への改名について、「秀吉に次ぐということから“秀次”になったと思われる」とし、秀次が一躍秀吉の後継者候補におどり出たという解釈をしている。しかし、それはどうだろうか。この点については、藤田恒春氏が、「秀次という名前から後継者に補されたとするのは少し早計のきらいがあり、この時点で養子として迎えたという確証は今のところないのである」(「秀吉政権下における豊臣秀次」『新しい歴史学のために』二三六号)と批判しており、私も同感である。
つまり、小和田氏も、豊臣秀次が豊臣秀吉の養子となったことを示す確実な史料は存在しないという見方を支持しています。
「甥」の立場のまま豊臣宗家を継承した可能性
以上のように、黒田基樹氏と小和田哲男氏の見解を踏まえると、豊臣秀次は豊臣秀吉の正式な養子というよりも、「甥の立場のまま豊臣宗家を継承した人物」と理解する方が自然でしょう。
戦国時代には、養子縁組を伴わなくても、一族の有力者が家督や氏長者の地位を継承する例は存在しました。
特に秀次の場合、関白就任後も実父・三好吉房(「豊臣兄弟!」の長尾弥兵衛)と実母・瑞竜院殿日秀尼(「豊臣兄弟!」のとも)が秀次の父母として扱われ続けていたことは、豊臣家へ養子入りしたのではなく、従来の血縁関係を維持したまま豊臣宗家を継承した可能性を示しています。
また、当時すでに豊臣秀吉・北政所夫妻の正式な養子となっていた秀俊(のちの小早川秀秋)は、関白就任時点でまだ数え10歳の少年に過ぎませんでした。
この点を考えても、豊臣秀次は「豊臣秀吉の養子として後継者になった」のではなく、豊臣一門衆として最も年長であったことも、関白職と氏長者の地位を継承した背景の一つだったと考える方が、史料や近年の研究とも整合するといえるでしょう。
→ 豊臣秀吉と寧々の養子 秀勝(於次丸)・ごう・小姫・秀俊の4人
(補足)豊臣秀次のその後の運命
もっとも豊臣秀次が関白だったという立場は長く続きませんでした。
1593(文禄2)年9月に秀吉と側室・淀殿との間にお拾(のちの豊臣秀頼)が誕生すると、秀次を取り巻く状況は大きく変化します。
さらに近年の研究では、秀吉から疎まれた理由は秀頼の誕生だけではなく、秀次が関白として進めていた文芸政策に対する不安など、さまざまな要因が重なった結果であった可能性も指摘されています。
そして、1595(文禄4)年7月8日、豊臣秀次は関白職を譲って太閤となっていた秀吉から、高野山への追放を突然命じられました。さらに同年7月15日、秀次は切腹。いわゆる「豊臣秀次切腹事件」です。
この事件では、秀次本人だけでなく、正室・一の台をはじめとし側室・子供たち合計39人が処刑され、豊臣政権を揺るがす大事件に発展しました。
この事件によって豊臣秀次の直系は断絶したと考えられており、その後の豊臣家は、再び「豊臣秀吉ー豊臣秀頼」の系統へと一本化されることになります。
→ 豊臣秀次が高野山で切腹した経緯とは?(豊臣秀次切腹事件)
→ 豊臣秀次の家系図
FAQ(よくある質問)
Q. 豊臣秀次は豊臣秀吉の養子だったのですか?
A. 一般的には「豊臣秀吉の養子」と説明されることがありますが、近年の研究では、秀吉と秀次が正式に養子縁組をしたことを示す明確な史料は確認されていません。
日本の中世史を研究する黒田基樹氏や小和田哲男氏も、秀吉の養子であったと断定することには慎重な見解を示しています。
Q. 豊臣秀次は誰の養子だったのですか?
A. 史料から確認できる養子縁組は2回あります。
1回目は1571(元亀2)年ごろの宮部継潤、2回目は1582(天正10)年の本能寺の変後の三好康長です。
秀次はそれぞれ「宮部次兵衛尉吉継」「三好孫七郎信吉」と名乗り、両家の養子として扱われました。
Q. 豊臣秀次はなぜ何度も養子になったのですか?
A. 戦国時代の養子縁組は、家を継ぐためだけでなく、大名同士の同盟関係や政治的な結び付きを強める目的でも行われました。
秀次が宮部継潤や三好康長の養子となったのも、豊臣秀吉による政治・外交戦略の一環だったと考えられています。
Q. 豊臣秀次はなぜ豊臣家の後継者になれたのですか?
A. 1591(天正19)年、秀次は豊臣秀吉から関白職と氏長者の地位を譲られ、豊臣政権の後継者となりました。
ただし、後継者になったことと正式な養子であったことは別の問題です。近年の研究では、秀次は秀吉の養子というよりも、甥の立場のまま豊臣宗家を継承したと考える見方が有力になっています。
Q. 豊臣秀次のその後はどうなりましたか?
A. 1595(文禄4)年、豊臣秀次は高野山へ追放された後に切腹し、いわゆる「豊臣秀次切腹事件」が起こりました。
この事件では、正室・一の台をはじめとする妻子らも処刑され、豊臣秀次の直系は断絶したと考えられています。
Q. 豊臣秀次は3回養子になったのですか?
A. インターネット上ではそのように説明されることがあります。
しかし史料で確認できる養子縁組は宮部継潤・三好康長の2回です。秀吉と養子縁組をしたという説は近年の研究で慎重に考えられています。
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参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
