豊臣秀次(1564~1591年)は、1585(天正13)年に近江国八幡山43万石の大名となり、1590(天正18)年の小田原征伐後には尾張一国57万石へ加増転封されました。
一方、インターネット上では「尾張国と北伊勢5郡を合わせて100万石の大名になった」と説明されることもあります。しかし、この100万石説については研究者の間でも見解が分かれています。
この記事では、豊臣秀次の領地の変遷を時系列で整理するとともに、近江43万石・尾張57万石・100万石説の違いや、その根拠について分かりやすく解説します。
▼要点まとめ
・豊臣秀次が三好家の養子から戻ったのちの領地は近江八幡山43万石
・小田原征伐後に尾張一国57万石へ加増転封
・豊臣秀次の家臣団は東海地方へ配置され徳川家康を牽制した
・北伊勢5郡を含め100万石とする説もある
・一方で57万石に留まるとする研究者もおり、現在も見解が分かれている
→ 豊臣秀次とは?
→ 豊臣秀次 養子 宮部継潤と三好康長が養父だった
→ 三好信吉とは?
→ 豊臣秀次の年表
→ 豊臣秀次切腹事件とは?
→ 豊臣秀次の家臣
結論|豊臣秀次の領地は近江43万石から尾張57万石へ拡大した
豊臣秀次(1564~1591年)は1585(天正13)年に近江国八幡山43万石の領主となり、1590(天正18)年には尾張一国57万石へ加増転封されました。
一方で、尾張国に加えて北伊勢5郡も与えられたため「100万石」とする説もあります。
しかし、北伊勢5郡が秀次の領国となったことを直接示す史料は確認されておらず、尾張一国57万石とみる研究者も少なくありません。
本記事では、近江43万石から尾張57万石への領地の変遷と、「100万石説」をめぐる研究者の見解を紹介します。
→ 豊臣秀次とは?
→ 豊臣秀次 養子 宮部継潤と三好康長が養父だった
→ 三好信吉とは?
→ 豊臣秀次の年表
→ 豊臣秀次切腹事件とは?
→ 豊臣秀次の家臣
豊臣秀次とその領地について
豊臣秀次とは
豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1564~1595年)とは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で登場する豊臣秀吉(池松壮亮)・豊臣秀長(仲野太賀)兄弟の甥で、とも(宮澤エマ)にあたる瑞竜院殿日秀尼の長男です。
秀吉から1591(天正19)年12月28日に関白職と豊臣家の家督を譲られるも、秀吉の命令によって1595(文禄4)年7月15日に紀州の高野山において切腹を果たした人物としても知られています。
豊臣秀次の領地の変遷について
豊臣秀次は1571年(元亀2)年ごろから1584(天正12)年6月ごろまで、宮部継潤と三好康長の養子に出され、宮部次兵衛尉吉継と三好孫七郎信吉を名乗っていました。
宮部継潤は因幡国を、三好康長は阿波国を領国としていたことから、秀次も養子として因幡・阿波の両国のどこかで所領を与えられていたと考えられます。
しかし豊臣秀次の所領としてはっきり記録が残っているのは、1585(天正13)年閏8月22日に叔父・豊臣秀吉より近江国八幡山43万石の所領を与えられたのちのことです。
豊臣秀次の領地: 近江八幡山 43万石
豊臣秀次本人の直轄地は20万石
豊臣秀次は現在の滋賀県近江八幡市にあたる近江八幡山城を中心として43万石の所領が与えられます。その地域は近江国のうち甲賀郡・野洲郡・蒲生郡・坂田郡・浅井郡の全域と、伊香郡・犬上郡の一部であったと考えられています。
これら所領のうち近江八幡山城を中心として、20万石分が豊臣秀次の直轄領でした。
家老(宿老・年寄)たちの所領は23万石
43万石から20万石を差し引いた23万石分については、秀次の家臣たちの所領です。その大半は豊臣秀吉から付けられた秀次の家老(年寄・宿老)たちの所領が占めていました。
→ 豊臣秀次の家臣
豊臣秀次の領地: なぜ100万石と言われるのか?
小田原征伐の戦功で尾張一国57万石に加増転封
1590(天正18)年の小田原征伐において豊臣秀次は、北条氏の重要拠点であった山中城への攻撃を主導し落城させるという活躍をします。
そのため戦後の論功行賞において、同年7月に秀吉から近江八幡山43万石から尾張一国57万石に加増転封の恩賞を受け取ることになります。
なお、この57万石のうち約10万石は尾張犬山城を本拠地とした、秀次の父・三好吉房に与えられることになります。しかし三好吉房による領国統治は決して上手なものではなかったようです。
家老(宿老・年寄)たちの所領は東海地方に広がる
豊臣秀次が近江八幡山から尾張に加増転封を受けた際、田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・中村一氏といった秀吉からの付家老たちも大幅な加増転封を受けます。
その所領は駿河・遠江・三河国といった東海地方に設定され、関東地方へ国替となった徳川家康が安易に西上できないような配置となっていました。
| 家臣の名前 | 本拠地とした城 | 石高 |
|---|---|---|
| 田中吉政 | 三河国岡崎城 | 5万7,400石 |
| 堀尾吉晴 | 遠江国浜松城 | 12万石 |
| 山内一豊 | 遠江国掛川城 | 5万石 |
| 中村一氏 | 駿河国駿府城 | 17万5,000石 |
| 渡瀬繁詮 | 遠江国横須賀城 | 3万石 |
北伊勢5郡における織田信雄の旧所領も豊臣秀次に帰属したのか?
実は豊臣秀次が尾張一国に加増転封される前、尾張国を治めていたのは、織田信長の次男・織田信雄です。
このとき織田信雄は尾張一国の他に伊勢国の北部にあった5つの郡も所領としていました。
豊臣秀吉はあらかじめ織田信雄に尾張一国と北伊勢5郡から駿河・遠江・三河への国替を打診していましたが、信雄は拒否。そのため織田信雄は秀吉から改易処分を受け、下野国烏山へ流罪。そこからさらに出羽国秋田へと流されます。
このため豊臣秀次は尾張国の他に北伊勢5郡の所領も引き継ぎ、領地高は100万石となったという説があります。
実際に「黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究)」の「Ⅲ 豊臣秀次の入部」では三鬼清一郎さんの論考として、尾張とともに北伊勢所領が与えられたことが記されています。
天正十八年(一五九〇)七月に織田信雄が追放された後、尾張一国と北伊勢五郡は、甥の豊臣秀次に与えられた。
豊臣秀次の領地は100万石ではなくやはり57万石だった可能性
一方で「豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇」によると、秀次が秀吉から与えられた恩賞の中には北伊勢五郡が含まれていたことを示す史料がないと指摘しています。
秀次は近江八幡時代が二〇万石なので、通説のいうように「尾張と北伊勢五郡で一〇〇万石」とすれば五倍の増加となる。ただ、この点は、前述のように、北伊勢が含まれていたことを示す史料がないので、尾張一国としてとらえておきたい。
小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) 108ページ
豊臣秀次が加増転封された1590(天正18)年は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長がまだ生きており、秀長が豊臣一門衆の筆頭大名で、秀次はその次席大名でした。
秀長の領地は大和・紀伊・和泉の3ヶ国で「100万石」と言われることもありますが、江戸時代前期における検地高から、この3ヶ国の実高は73万石程度であったと言われています。
こうしたことから豊臣秀次の領地高が豊臣秀長の領地高が超えることは考えにくく、豊臣秀次の領地は尾張一国57万石に留まっていたと考えることもできるでしょう。
→ 豊臣秀長の領地 大和・紀伊・和泉の「100万石」実高は73万石程度
FAQ|豊臣秀次の領地について
Q. 豊臣秀次の領地はどこでしたか?
A. 1585(天正13)年に近江国八幡山43万石を与えられ、その後1590(天正18)年には尾張一国57万石へ加増転封されました。
Q. 豊臣秀次は100万石の大名だったのですか?
A. 「尾張国と北伊勢5郡で100万石」とする説があります。
一方で、北伊勢5郡が秀次の領国だったことを示す史料は確認されておらず、尾張一国57万石と考える研究者もいます。
Q. なぜ100万石と言われるのですか?
A. 織田信雄が改易された際、尾張国だけでなく北伊勢5郡も秀次へ与えられたとする研究があるためです。
ただし、この点については史料解釈が分かれており、学説は一致していません。
Q. 豊臣秀次は近江八幡山では何万石でしたか?
A. 近江八幡山城を中心とする43万石です。
そのうち約20万石が秀次の直轄領で、残りは家老・宿老たちへ知行として与えられていました。
Q. 豊臣秀次の領地は豊臣秀長より広かったのですか?
A. 一般に秀長は「100万石」と言われることがありますが、近年では大和・紀伊・和泉3か国の実高は約73万石程度とする研究もあります。
そのため、秀次の領地を57万石とみる見解では、秀長が豊臣一門筆頭大名であるという位置づけとも整合すると考えられています。
豊臣秀次 年表 関連記事
豊臣秀次とは?
豊臣秀次は豊臣秀吉の甥で、1591(天正19)年12月28日に秀吉から関白職と豊臣家の氏長者の地位を譲られました。
三好信吉とは?
三好信吉とは豊臣秀次が1582(天正10)年の半ばごろから、1584(天正12)年の半ばごろまで、三好康長の容姿として名乗っていた名前です。
それ以前は宮部継潤の養子に出されており、宮部次兵衛尉吉継を名乗っていました。
→ 三好信吉とは?
→ 豊臣秀次 養子 宮部継潤と三好康長の養子だった
豊臣秀次 年表
豊臣秀次の誕生から、豊臣秀次切腹事件によって障害を閉じるまでの人生を年表形式で説明します。
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豊臣秀次切腹事件とは?
豊臣秀次切腹事件とは1595(文禄4)年7月に発生した豊臣政権を揺るがす大粛清事件です。
秀次が高野山で切腹したのち、一の台の行動に不審な点があることを問われ、その被害が拡大したと考えられています。
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)
