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豊臣秀長 秀吉との関係 秀長と秀吉の仲 9つの逸話・エピソード

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目次

豊臣秀長と豊臣秀吉の関係について 2人の仲は良かったの?

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の豊臣秀吉(池松壮亮)とは

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は、仲野太賀さん扮する「小一郎」こと豊臣秀長(1540~1591年)です。NHKは2024年10月2日にその豊臣秀長の兄として、池松壮亮さん扮する「藤吉郎」こと豊臣秀吉が登場することを明らかにしています。

豊臣秀吉(1537~1598年)とは織田信長・徳川家康と並ぶ「戦国の三英傑」とも呼ばれた戦国武将で、織田信長亡き後に天下を統一して、日本が中世から近世に変わる基礎を作ることになりました。

大河ドラマ 豊臣兄弟 豊臣秀吉の役柄

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の池松壮亮さん扮する豊臣秀長の役柄は以下の通りです。

小一郎の3歳年上の兄。登場時の名は藤吉郎(とうきちろう)。
尾張中村の貧しい農家で生まれ育ったが、主君である戦国武将・織田信長のもとでメキメキと頭角をあらわし、ついには天下統一を果たす。

2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」池松壮亮・永野芽郁・吉岡里帆・浜辺美波 出演決定!

豊臣秀長と豊臣秀吉にまつわる年表

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西暦(和暦)年齢(満年齢)出来事
1537(天文6)年0才父・妙雲院栄本と母・天瑞院殿(なか)の長男として尾張国で誕生
1553(天文21)年〜1558(弘治4/永禄元)年ごろ16~21才清須織田家の織田信長に仕官
1564(永禄7)年27才美濃国の斎藤龍興を攻略するために東美濃の国人衆を調略
1568(永禄11)年31才織田信長から京都奉行に任命される
1570(元亀元)年5月33才朝倉義景討伐に従軍(金ヶ崎の退き口)
1570(元亀元)年5月33才姉川の戦いに出陣。戦後、横山城の城番に任命される
1573(天正元)年5月36才浅井氏を殲滅。北近江三郡12万石の大名となる
1578(天正6)年41才織田信長の命によって中国征伐に出陣。秀長を但馬国竹田城の城代として朝来郡・養父郡の支配を任せる
1580(天正8)年43才秀長を但馬国出石城城主に任命になる。鳥取城攻め
1582(天正10)年45才山崎の戦い。秀長を従五位下美濃守に推挙
1583(天正11)年46才賤ヶ岳の戦いの戦功により秀長を播磨国の姫路城主に任命。播磨・但馬の2カ国の支配と丹波福知山の経営を任せる
1584(天正12)年47才徳川家康との小牧・長久手の合戦に出陣。秀長に織田信雄と和議の交渉を担当させる
1585年(天正13)年3月48才紀州征伐に出陣。戦後に秀長を播磨・丹波から紀伊・和泉へと移封する
1585年(天正13)年5月48才四国征伐のために総大将として秀長を派遣
1585(天正13)年8月48才四国征伐の戦功として秀長に大和国を加増する
1586年(天正14)年49才九州征伐。自らを総大将、秀長を副将とする
1588年(天正16)年5月51才正親町上皇と後陽成天皇を聚楽第に招く(聚楽行幸
1590(天正18)年53才小田原征伐。秀長は病気のために出陣できず藤堂高虎が代理を務める
1591(天正19)年1月54才秀長が病気のため大和郡山城で死去

豊臣秀長 秀吉との関係 参考資料

なお豊臣秀長と藤堂高虎にまつわる今回の記事は以下の資料を参考にしています。

これらのうち「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 」を編著した柴裕之さんは、NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。

豊臣秀長と豊臣秀吉の関係を示す9つの逸話・エピソード

1. 秀長と秀吉は「同父同母」の兄弟だった

豊臣秀吉と豊臣秀長の兄弟の出自において、「2人の父親は異なる」と「2人の父親は同じである」の2つの説が長らく混在してきました。

例えば、1625(寛永2)年から1676(延宝2)年にかけて徳川家の旗本・土屋知貞によってまとめられた「太閤素性記」では、秀吉の父は、織田信秀の鉄砲足軽・木下弥右衛門であり、秀長の父親は筑阿弥(竹阿弥)としています。

つまり「太閤素性記」では、秀吉・秀長兄弟を「異父同母」の兄弟として扱っています。

しかし近年の研究によると、秀吉・秀長兄弟の父親は「妙雲院殿栄本」という法号を持ち、1543(天文21年)に亡くなったことがはっきりとしていることから、秀吉と秀長は同じ父を持つ「同父同母」の兄弟であったことが分かっています。

秀吉・秀長兄弟の父に関しては「豊臣秀長 父 妙雲院栄本 竹阿弥でも弥右衛門でもない男性」の記事も合わせて参考にしてください。

2. 最初に秀吉が、次に秀長が織田家に仕えた

NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、2025年6月5日にすでに撮影が始まっており、藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が、小一郎(のちの豊臣秀長)に織田家への仕官を勧めるシーンが登場することが分かっています。

8年前に出奔して以来、行方不明だった兄・藤吉郎が、突然、故郷の尾張国中村(現在の名古屋市中村区)に帰還。藤吉郎は織田信長に仕えていると言い、亡き父の墓の前で、共に清須に行って侍になろうと小一郎を誘うが……

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はっきりとした時期は不明ですが、豊臣秀吉が藤吉郎として織田家に仕え始めたのは1550年代ごろであると考えられています。

のちに豊臣秀長は、豊臣秀吉が出陣する数々の戦に「副将」や「名代」として出陣します。大河ドラマ「豊臣兄弟!」のように先に秀吉が織田家に仕え、続いて秀長も織田家に仕えるたと考えられるでしょう。

3. 秀吉・秀長は各地を転戦

NHKが1996年に放送した大河ドラマ「秀吉」と「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」では若き日の秀吉・秀長兄弟の活躍を描き、秀吉が出陣する戦には秀長も全て「補佐役」として出陣しています。

  1. 「墨俣一夜城」と美濃攻略戦
  2. 朝倉征伐と「金ヶ崎の退き口」
  3. 姉川の戦い
  4. 浅井氏の殲滅戦

ただしこれらの戦は1560年代前半から1570年代前半にかけて行われており、その時代には豊臣秀長に関する確かな史料はほとんど残っていないため、おそらく「秀長は秀吉の補佐役」として活躍したであろうと推測されます。

豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 」では、豊臣秀長が戦において活躍したことがはっきり分かるのは、1570年代後半から1580年代にかけて行われた以下の戦いであるとしています。

  1. 伊勢国の長島一向一揆鎮圧(1574年)
  2. 第一次但馬攻撃(1578年)
  3. 第二次但馬攻撃(1580年)
  4. 山崎の戦い(1582年)
  5. 賤ヶ岳の戦い(1583年)
  6. 小牧長久手の戦い(1584年)
  7. 紀州征伐(1585年)
  8. 四国征伐(1585年)
  9. 九州征伐(1587年)

4. 秀吉の補佐役・秀長の過酷なつとめ

みなさんは「補佐役」と聞いてどんなイメージを思い浮かべるでしょうか?「リーダーの横について何か助言をする人」というイメージでしょうか。

しかし少なくとも豊臣秀長が兄・秀吉に対して行う「補佐」とはそんな生やさしいものではなく、「体を張った命懸けの補佐」だった可能性があります。

豊臣秀長 ある補佐役の生涯」によると、秀吉は秀長にさまざまな危険な役割を任せていたようです。

「金ヶ崎の退き口」

北陸地方で朝倉義景と浅井長政に挟撃された織田信長を安全に京まで逃すために、秀吉が殿軍を買ってでます(「金ヶ崎の退き口」)。そんな秀吉が、殿軍の中でも特に最後尾に置いたのは秀長の部隊でした。

もちろん追撃してくる敵を相手にして、撤退の最後尾を任されることは、討ち死にを覚悟しなければなりません。

山崎の戦い

本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた後、秀吉は政治の主導権を争うために、山城国の山崎(現在の京都府大山崎町)付近で激突します。そのとき秀吉の本隊に先駆けて山崎の地に到着したのは秀長の部隊でした。

このときの秀長の役割は、明智光秀から秀吉方に寝返った中川清秀・高山右近の部隊を助けつつ、明智軍の先鋒を秀吉の本隊が到着するまで引きつけて、わざと劣勢になっていると見せかけることでした。

もし明智軍の誘いに引っかかって、自分の部隊を前方に出すとたちまち袋叩きに遭う運命にあります。

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦いにおいても、秀長の役割は山崎の戦いにおける役割と似たようなものです。秀長の部隊は秀吉の先鋒隊として、柴田勝家に味方する佐久間盛政の部隊を引きつける役割でした。

秀長の役割は局地戦においてわざと負けたふりをして、佐久間盛政をできるだけ長時間攻めさせることです。

時間を稼いで間に兄・秀吉の本隊が加勢に来るのを待つという作戦ですが、本隊の到着が遅れれば、秀長は賤ヶ岳で討ち死にをしていたかもしれません。

5. 兄・秀吉のわがままを聞く弟・秀長

秀長は「命を張った補佐」を心がけているにも関わらず、兄・秀吉はわがままであったことが見受けられます。秀長に支配を任せた国であっても、秀吉は「横槍」を入れていたようでした。

例えば賤ヶ岳の戦いののち、論功行賞で豊臣秀長は、但馬・播磨2カ国の領有が認められます。しかし播磨国については、秀長が徴税権を行使できるのは、飾東郡(現在の兵庫県姫路市)・多加郡(現在の兵庫県多加町)・加東郡(現在の兵庫県加東市)の3郡だけ

播磨国の残りの部分は、秀吉の直臣である黒田官兵衛・前野長康・蜂須賀正勝などの知行となってしまいます。

他にも九州征伐後の九州国分においても、当初秀長の裁量で大隈国の知行割をするはずが、秀吉自らが知行割をすることになった例があります。

6. 吉川平助による「材木流用事件」

1588(天正16)年、秀長の領国の1つである紀伊国で雑賀城城主であった、吉川平助熊野地方で伐採した材木を大坂において不当に高い値段で販売したという事件が発生しました。

事件を聞いた秀吉は吉川平助を大和国の西大寺で処刑し、その首を京で晒します。

秀長は謝罪をするために大坂城にいる秀吉のもとを訪れますが、このときの秀吉の怒りは凄まじいもので、秀長は謝罪どころか会うことすら叶わなかったと言います。

7. 弟・秀長を直接2度も見舞った兄・秀吉

晩年の秀長は病気に苦しむことになり、1590年(天正18)年3月の小田原征伐では関東に参陣することができず、代理として藤堂高虎に兵を率いさせています。

このとき秀吉は大坂から小田原に出陣する際に、秀長の居城である大和郡山城に立ち寄り、秀長を見舞います。さらに同年10月にも大和郡山城を訪れ、秀長の病気を見舞っています

8. 秀長は秀吉の唯一無二の弟であった

1591(天正19)年に秀長は病気のために亡くなり、大和・紀伊2カ国の統治を継いだ秀保も1595(文禄4)年に亡くなります。秀保には子がなかったため、大和・紀伊2カ国は秀吉によって没収され、大半が豊臣家の直轄地となります。

大和・紀伊といった畿内統治の要と言える土地に、秀長と秀長の縁者以外を入れなかったのは、秀吉が秀長に対する信頼の大きさが伺えます。

9. もし秀長が秀吉よりも長生きしていたら

もし豊臣秀長が1590(天正19)年ののちも健在であれば、豊臣秀吉や豊臣家の天下はどうなっていたでしょうか?歴史に”if”はありませので、秀長が51才を過ぎてもなおも健在であった場合の歴史はどうなっていたか分かりません。

少なくとも小田原征伐後に行われた奥州地方の領土仕置については、秀長が主導して行われたのではないでしょうか。

その後の朝鮮出兵や石田三成と徳川家康の台頭・関ヶ原の戦い・大坂の陣などの考察については、「豊臣秀長 生きていたら もし長生きしていたら 豊臣兄弟!」の記事を参考にしてください。

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豊臣秀長 家系図

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豊臣秀長 母

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豊臣秀長 息子

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豊臣秀長 兄弟

豊臣秀長 直

豊臣秀長 子孫

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