結論:万丸(豊臣秀次)の養父となる武将
- 万丸(のちの豊臣秀次)の養父として登場
- 浅井家を裏切り織田家の家臣(藤吉郎の与力に)
- 藤吉郎と組んで浅井長政・朝倉義景に反抗
- のちに豊臣政権の奉行(行政官)として出世
→「豊臣兄弟!」に登場する宮部継潤のその後の活躍
→ 宮部継潤に裏切られた浅井長政はどうなる?その最期とは
宮部継潤とは?(基本情報)
宮部継潤の出自と経歴
「豊臣秀次「殺生関白」の悲劇」によると、宮部継潤の父は近江国坂田郡醒井(現在の滋賀県米原市)の在地領主・土肥刑部少輔真舜(しんしゅん)という武士です。
宮部継潤は幼少の頃に比叡山に登り、行栄坊(ぎょうえいぼう)という僧侶について出家。
その後比叡山を下りて湯次神社(ゆすぎじんじゃ)の別当であった宮部清潤(せいじゅん)の下につき、名前を「宮部継潤」と改称。
湯次神社の別当とは代々、室町幕府の政所職にある伊勢氏の被官として湯次下荘の荘司を務める者のことです。「豊臣秀吉研究 上」によると、湯次下荘の荘司はいつの間にか「宮部氏」を称して湯次下荘を乗っ取っていたとあります。
名前と人物像
宮部継潤は元々、比叡山の僧兵として「善祥坊(ぜんじょうぼう)」を称していたと考えられています。
また1587(天正15)年5月ごろまでには、朝廷から法官位を叙任され「中務卿法印(なかつかさきょうほういん)」や「宮部法印(みやべほういん)」を名乗っています。
豊臣兄弟!での役割
万丸の養父としての立場
「豊臣兄弟!」の16話「覚悟の比叡山」において宮部継潤(ドンペイ)は、藤吉郎(池松壮亮)・小一郎(仲野太賀)の甥にあたる万丸(小時田咲空)の養父となります。
名目上、宮部継潤にとって万丸は「養子」にあたりますが、実質的には「人質」です。
万一、宮部継潤と織田信長(小栗旬)と木下藤吉郎の間でトラブルが生じた場合、万丸は養父・宮部継潤によって真っ先に斬られるという過酷な運命を背負っているのです。
ストーリー上の役割
「豊臣兄弟!」の宮部継潤が我が身の安全のために、「人質」として万丸を木下家から申し受けることは戦国武将として当然の行為です。
そのため、宮部継潤の要求は、百姓上がりであった木下家の人たちに対し、改めて「武士が決めなければならない覚悟」を知らしめることになります。
万丸(のちの豊臣秀次)との関係
宮部継潤が万丸を養子とした背景
宮部継潤は1571(元亀2)年ごろから1582(天正10)年ごろまで、万丸の養父でした。
浅井攻めに従事する木下藤吉郎秀吉から寝返りの誘いを受け、浅井長政を裏切り、織田信長に味方する際、身の保障として、藤吉郎から甥の万丸を「養子もどきの人質」として預かっていたからです。
宮部継潤が万丸を「人質としての養子」を受け取った経緯については下記の記事で詳しく説明しています。ぜひ参考にしてください。
養子縁組を解消した経緯
実は、宮部継潤は1582(天正10)年の6月から10月ごろに、宮部次兵衛尉吉継と名を改めてていた万丸との養子縁組を解消しています。
この養子縁組解消は宮部継潤と当時の羽柴秀吉の仲が悪くなったからではなく、秀吉の四国政策が絡んでいます。こうした事情の詳細については下記の記事で詳しく紹介しています。
浅井攻めにおける宮部継潤
宮部合戦で浅井・朝倉連合軍を潰走させる
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」でドンペイさんが演じる宮部継潤は、16話「覚悟の比叡山」において、とも(宮澤エマ)と弥助(上川周作)の長男・万丸を養子として預かることになります。
その後の宮部継潤はどうなるのでしょうか?
浅井長政を裏切り、織田家に味方した宮部継潤は、浅井・朝倉の連合軍に目を付けられることに。1571(元亀2)年11月、朝倉景鏡が率いる大軍が、継潤の居城である宮部城を囲み、苦戦を強いられます。
このとき宮部城の近くにある横山城から木下藤吉郎秀吉が援軍に駆けつけ、浅井・朝倉勢の背後を急襲。これに呼応する形で宮部継潤も城門を開けて敵を挟み撃ちをすることに。
結局、浅井・朝倉は戦死者200を出して宮部城の包囲を解き潰走。この合戦は「宮部合戦」と言われています。
信玄西上の報を得た信長が横山を去って東下すると、元亀三年(一五七二)十一月、浅井長政は、朝倉義景と謀り、宮部城を抜き、横山との連絡を絶ち、もって虎御前山および八相山の二城を落としいれんと企てた。先鋒は浅井八郎で、朝倉景鏡が全軍を総帥し、直ちに宮部城を囲んだ。城主宮部継潤は善戦してこれを防いだが、衆寡敵せず、頗る苦境に落ちいった。ここにおいて、木下藤吉郎は、横山から馳せ来たって、これを援け、朝倉勢の背面を急襲した。先鋒は梶原勝兵衛・毛屋猪之助・富田長秀であった。朝倉勢も、これを迎え、激戦となった。継潤は、機を見て、城門を開いて、浅井勢のまっただ中に撃って出たため、自然、敵を挟撃する形となり、遂に浅井・朝倉勢は死骸二百を出して潰走するに至った。
桑田 忠親. 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (p. 188). (Function). Kindle Edition.
浅井家が滅亡したのちの論功行賞
1571(元亀2)年11月の「宮部合戦」から、1573(天正元)年9月1日に浅井長政が小谷城で自刃するまでの間、宮部継潤の動向は明らかになっていません。
しかし浅井家を殲滅し織田信長から北近江3郡(浅井郡・坂田郡・伊香郡)12万石の所領を与えられた藤吉郎秀吉が、配下の武将で最も評価したのは宮部継潤でした。
このとき藤吉郎秀吉が宮部継潤に与えた知行は3,000石。これより少しのちに木下小一郎長秀は、のちに伊勢津藩32万3,000石の初代藩主となる藤堂高虎を、300石の知行で召し抱えています。
浅井家滅亡当時の宮部継潤と藤堂高虎の知行を比較すると、浅井家が滅亡した当時、藤吉郎秀吉が宮部継潤のことをいかに買っていたか分かるエピソードでしょう。
豊臣兄弟! 全話あらすじと最終回までのネタバレ
豊臣兄弟! 全話あらすじ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の全話あらすじや登場する人物たち・人間関係・相関図などについては下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最終回までをわかりやすく解説
豊臣兄弟! 最終回までのネタバレ
また最終回までのネタバレ・史実・結末などのまとめについては下記の記事が参考になるでしょう。
→ 豊臣兄弟! ネタバレ最終回まで 全話あらすじ・結末まとめ
豊臣兄弟! 宮部継潤 関連記事と参考文献
豊臣兄弟! 宮部継潤 関連記事
大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する宮部継潤が万丸を「養子」として迎えたのちの史実などについて、下記の記事で言及しています。
また豊臣秀次が万丸と呼ばれた幼少期から若年期にかけ、宮部継潤や三好康長の養子になっていた経緯や理由については下記の記事が参考になるでしょう。
豊臣兄弟! 宮部継潤 参考文献
今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。これらのうち「羽柴秀吉とその一族」の著者である黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)
