豊臣兄弟!の万丸は宮部継潤の養子へ出される
万丸を養子に出すことを猛反対するとも
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の16話「覚悟の比叡山」において万丸(よろずまる)とは、とも(宮澤エマ)と弥助(上川周作)夫妻の長男で、1591(天正19)年に豊臣秀吉から関白職と豊臣家の氏長者を譲られた豊臣秀次のことです。
第16話における万丸は宮部継潤(ドンペイ)を調略するための「人質」として養子に差し出されそうになりますが、ともが猛反発。
NHK出版が出版した大河ドラマ「豊臣兄弟!」のガイドブックである「豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)」のあらすじはこのように記されています。
継潤は藤吉郎に、身内の子を養子にくれたら織田につくと条件を出した。
子を持たない小一郎と藤吉郎が差し出せるのは、姉の幼い息子、四歳の万丸(よろずまる)だけである。しかし、これをともが許すわけもなく、小一郎が必死の説得に挑むが、死んでも万丸を差し出さないと言って、ともは激怒した。
八津弘幸 豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版 193ページから194ページ
小一郎がともを再び万丸を養子とするように説得
ともの迫力に押された小一郎(仲野太賀)・藤吉郎(池松壮亮)の兄弟は、万丸を人質に差し出すことを諦めます。
しかし、別の「豊臣兄弟!」のガイドブックである「NHK2026年 大河ドラマ 豊臣兄弟!完全ナビブック 」によると、小一郎がともを再度説得するようです。
だが信長は朝倉とつながる比叡山延暦寺を焼き払えと命じ、藤吉郎はある”覚悟”をもってその役目を買って出る。
これにより宮部継潤の調略は小一郎に任されることに。再びともと向き合った小一郎は「わしらはもう侍なんじゃ」と、その心に芽生えた侍としての覚悟を訴える。
これら2冊のガイドブックに掲載されている「あらすじ」には、万丸が宮部継潤のもとに養子として送られたという記述はありません。
しかし史実を振り返ると「豊臣兄弟!」の万丸は、浅井家から織田家に寝返ったときに身を保証するための人質として、宮部継潤のもとに養子へ送られることになるでしょう。
実在の万丸は2回も養子に出されていた 宮部継潤と三好康長
1回目の養子: 宮部継潤(1571~1582年ごろ)
実際、1571(元亀2)年ごろには、木下藤吉郎秀吉が浅井家の部将であった、宮部継潤を織田家に寝返らせるために、瑞竜院日秀尼(「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)と三好吉房(「豊臣兄弟!」の弥助にあたる男性)の長男である万丸(または次兵衛)は、宮部家への「人質」として養子に出されていたと考えられています。
「豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇」はこのように説明しています。
この点で、『関白秀次評伝』の著者荒木六之助氏は、「実際には、秀吉の方が頭を下げて、人質がわりにその甥を継潤のもとへ送ったとみるべきである」と述べているが、たしかにその可能性はある。この段階の秀次は、養子といっても、人質のような形で差し出されたとみてもまちがいではないからである。
小和田 哲男. 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) (p. 20). (Function). Kindle Edition.
養子に出された万丸は、1581(天正9)年までには元服を済ませ名前を、「宮部次兵衛尉吉継(みやべじひょうえのじょうよしつぐ)」と改称。
「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんの著作である「羽柴秀吉とその一族」では、宮部継潤が因幡国を所領としていたことから、因幡国のどこかで独自の所領と家臣団を持っていた可能性があると指摘しています。
2回目の養子: 三好康長(1582~1584年ごろ)
実は万丸が「人質」として養子に出されたのは、宮部継潤のところだけではありません。
すでに「宮部次兵衛尉吉継」と名乗っていたにも関わらず、1582(天正10)年には阿波国の大名である三好康長のもとに「2回目の養子」に行かされることになります。
1582(天正10)年6月27日に織田家重臣の間で行われた「清須会議」で、本能寺の変の後の山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は新たな所領として山城と丹波の2カ国が加増されることが決定。
秀吉は宮部継潤の存在をはるかに超えることになり、すでに気を遣う必要もなくなっていました。
その一方で「清須会議」の結果、秀吉のライバルの1人となった信長の三男・織田信孝が土佐の長宗我部元親と誼みを通じる動きを見せていたため、阿波国の三好康長を自分の味方として取り込んでおく必要が生じることに。
そこで秀吉に目をつけられたのが、宮部継潤の養子となっていた「宮部吉継」です。1582(天正10)年10月ごろまでには宮部吉継は宮部継潤との養子縁組は解消され、新しく三好康長と養子縁組。名前を「三好孫七郎信吉(みよしまごしちろうのぶよし)」と改めます。
「羽柴秀吉とその一族」によると、「孫七郎」という仮名は三好家の男子に因む名前で、実名「信吉」の「信」の字は織田信長、「吉」の字は羽柴秀吉に因むものと指摘しています。
なお万丸が長い養子生活へ終えて羽柴家に戻り、後世に知られるように「秀次」と名乗るようになるのは1584(天正12)年ごろのことでした。
豊臣兄弟! 万丸 どうなる 関連記事と参考文献
豊臣兄弟! 万丸 どうなる 関連記事
のちに豊臣秀次と呼ばれるようになる「豊臣兄弟!」に登場する万丸や、「人質」と言っても差し支えない豊臣秀次の養子生活については、下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
豊臣兄弟! 万丸 どうなる 参考文献
今回の記事は下記の4冊の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- NHK2026年 大河ドラマ 豊臣兄弟!完全ナビブック (ウォーカームック) KADOKAWA
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)
