豊臣秀次(1564?~1595年)の子供は「聚楽物語」の記述などから、仙千代丸(せんちよまる)・百丸(ひゃくまる)・十丸(じゅうまる)・土丸(つちまる)・露月院(ろげついん)の男子4人・女子1人、合計5人の子供がいたと伝えられています。
しかし「太閤さま軍記のうち」では子供たちの名前と母親(側室)が一致しないケースあり、お菊や隆清院についても史料や伝承によって見解が分かれています。
なお豊臣秀次の子供たちは1595(文禄4)年7月に発生した「秀次事件(豊臣秀次切腹事件)」によって連座の罪を着せられて、三条河原で処刑されるという悲劇的な最期を迎えました。
この記事では、「聚楽物語」や「太閤さま軍記のうち」などの史料をもとに、豊臣秀次の子供たちの名前や母親、秀次切腹事件との関係、お菊・隆清院に関する諸説までわかりやすく解説します。
▼要点まとめ
・豊臣秀次(1564?~1595年)の子供は「聚楽物語」では男子4人・女子1人の計5人とされる
・子供たちは仙千代丸・百丸・十丸・土丸・露月院と伝えられている
・お菊・隆清院については史料や伝承によって見解が分かれる
・「秀次事件(豊臣秀次切腹事件)」に連座させられ子供たちも三条河原で処刑された
→ 豊臣秀次とは?
→ 豊臣秀次切腹事件とは?
→ 豊臣秀次の家系図
→ 豊臣秀次の側室とは?
→ 豊臣秀次の子孫はどうなったのか?
結論 | 豊臣秀次の子供は史料上5人とされる
豊臣秀次の子供として史料上確認できるのは、「聚楽物語」に記された仙千代丸・百丸・十丸・土丸・露月院の5人です。
一方、「信長公記」の著者でもある太田牛一が書いた「太閤さま軍記のうち」の記述と比較すると、おおむね合致するものの、子供と母親(側室)が合致しないケースも見られます。
また、お菊や隆清院を秀次の娘とする伝承もありますが、これらは「聚楽物語」には見られず、現在も諸説ある人物です。
以下では、「聚楽物語」と「太閤さま軍記のうち」の記述をもとに、豊臣秀次の5人の子供たちと、お菊・隆清院に関する伝承について詳しく見ていきます。
→ 豊臣秀次とは?
→ 豊臣秀次切腹事件とは?
→ 豊臣秀次の家系図
→ 豊臣秀次の側室とは?
→ 豊臣秀次の子孫はどうなったのか?
豊臣秀次の子供一覧(男子4人と女子1人の合計5人)
豊臣秀次が側室たちとの間にもうけた子供たちには、少なくとも、仙千代丸(せんちよまる)・百丸(ひゃくまる)・十丸(じゅうまる)・土丸(つちまる)・露月院(ろげついん)の5人がいたことが分かっています。
以下の文章ではそれぞれの子供たちについて紹介していきます。
長男: 仙千代丸(せんちよまる)
「聚楽物語」によると仙千代丸の母は、豊臣秀次の側室の1人で尾張国の住人・日比野下野守の娘です。
一方、「信長公記」の著者である太田牛一が記した「太閤さま軍記のうち(大かうさまくんきのうち)」によると、日比野下野守の娘の名前は「おあこ」であるとし、出身は美濃国としています。
1987(昭和62)年にNHKで放送された大河ドラマ「独眼竜政宗」の第32回「秀次失脚」において、秀次の妻子ら39人が京・三条河原で処刑される場面で、一番最初に斬首されたのは6才で嫡男の仙千代丸であったと説明しています。
次男:百丸(ひゃくまる)
「聚楽物語」によると百丸の母は、豊臣秀次の側室の1人で山口雲松の娘としています。
一方「太閤さま軍記のうち」では「山口雲松」ではなく「山口少雲」の娘・「おたつ」であるとし、名前は明記されていませんが若君がいたと記されています。
三男:十丸(じゅうまる)
「聚楽物語」によると十丸の母は、豊臣秀次の側室の1人で北野の別当・松梅院(しょうばいいん)の娘としています。
一方「太閤さま軍記のうち」では「北野松梅院」の息女・おさことし、名前は明記されていませんが若君がいたと記されています。
四男: 土丸(つちまる)
「聚楽物語」によると土丸の母は、豊臣秀次の側室の1人で「お茶々の御方」としています。
一方「太閤さま軍記のうち」では「お茶々の御方」に似た名前として、美濃国・竹中与右衛門の息女として「おちやう」という名前が見られます。この「おちやう」にも名前は明記されていませんが若君がいたと記されています。
長女: 露月院(ろげついん)
「聚楽物語」によると露月院の母は摂津国の小浜の寺の娘・中納言の局としています。
一方「太閤さま軍記のうち」でも摂津国の小浜殿の息女として「中納言」という女性がいたと記しているものの、姫君がいたことについては記されていません。
また露月院という名前は死後につけられた法名であって、俗名ではないと考えられます。
豊臣秀次切腹事件で子供たちはどうなった?
1595(文禄4)年に発生した豊臣秀次切腹事件では、豊臣秀次だけでなく、妻や側室、そして幼い子供たちにも連座の罪が及びました。
秀次は同年7月15日に高野山で切腹。その後、妻子ら39人は京都へ移送され、同年8月2日に三条河原で処刑されています。
「聚楽物語」に記される仙千代丸・百丸・十丸・土丸・露月院の5人も、このとき命を落としたとされています。
この事件によって、豊臣秀次の直系の子供たちは全員が失われたと考えられており、豊臣秀吉が後継者として期待していた関白・豊臣秀次の家系はわずか数年で断絶することになります。
なお、豊臣秀次切腹事件が起きた経緯や、なぜ秀吉が妻子まで処刑するに至ったのかについては、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣秀次切腹事件とは?秀次失脚の経緯や妻子39人が処刑された理由を解説
豊臣秀次の子供に関する諸説|お菊と隆清院
「聚楽物語」では豊臣秀次の子供として仙千代丸・百丸・十丸・土丸・露月院の5人が記されています。
一方で、後世の伝承や寺院の縁起、Wikipediaなどではお菊や隆清院を秀次の娘とする説も見られます。
ただし、両者とも「聚楽物語」には名前が見られず、史料によって豊臣秀次の子供であったかどうか見解が分かれる人物です。
ここでは、お菊と隆清院について現在伝えられている内容を紹介します。
お菊とは
お菊は、豊臣秀次の三女と伝えられる女性です。
大阪府阪南市の法福寺(お菊寺)の伝承によると、お菊は秀次と側室・小督局(こごうのつぼね)の娘で、秀次切腹事件の際に命を救われ、後に法福寺で生涯を過ごしたとされています。
一方、「聚楽物語」にはお菊の名前は記されていません。
また、「太閤さま軍記のうち」には秀次の側室として、和泉国淡輪の息女「おここ」が登場しており、この女性が小督局にあたる可能性が指摘されていますが、お菊という娘についての記述は確認できません。
このように、お菊を秀次の娘とする伝承は存在するものの、一次史料では確認できず、史料上は諸説ある人物と考えられています。
隆清院(りゅうせいいん)とは
隆清院は、豊臣秀次の娘とされる女性です。
2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の第28回「受難」では、豊臣秀次(新納慎也)の娘・たか(岸井ゆきの)として登場し、秀次切腹事件の際に処刑を免れてルソン(現在のフィリピンのこと)へ逃れた人物として描かれました。
また、Wikipediaなどでは真田信繁(真田幸村)の側室となり、娘・顕性院(なほ)や三好幸信をもうけたとされています。
しかし、「聚楽物語」には隆清院の名前は見られず、母親についても明確な史料は確認されていません。
そのため、隆清院についても史料上は確実とはいえず、後世の系譜や伝承をもとに語られることの多い人物です。
なお、豊臣秀次の血筋がその後どうなったのかについては、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣秀次の子孫とは?秀次の血筋は現代まで続いたのかを解説
→ 豊臣完子とは?豊臣秀次の姪
FAQ|豊臣秀次の子供に関するよくある質問
Q. 豊臣秀次の子供は何人いましたか?
A. 「聚楽物語」によると、豊臣秀次には仙千代丸・百丸・十丸・土丸・露月院の男子4人・女子1人、合計5人の子供がいたとされています。
ただし、「太閤さま軍記のうち」では子供と母親(側室)の対応が一致しない部分もあり、史料によって違いが見られます。
Q. 豊臣秀次の子供たちはどうなりましたか?
A. 1595(文禄4)年に発生した豊臣秀次切腹事件によって、仙千代丸・百丸・十丸・土丸・露月院の5人はいずれも連座の罪に問われ、同年8月2日に京都・三条河原で処刑されたと伝えられています。
Q. お菊と隆清院は豊臣秀次の子供だったのですか?
A. お菊と隆清院を豊臣秀次の娘とする伝承はありますが、「聚楽物語」には名前が見られません。
そのため、両者については一次史料では確認できず、現在も諸説ある人物と考えられています。
Q. 豊臣秀次の子供の母親は誰ですか?
A. 「聚楽物語」では、仙千代丸は日比野下野守の娘、百丸は山口雲松の娘、十丸は松梅院の娘、土丸はお茶々の御方、露月院は中納言の局を母としています。
一方、「太閤さま軍記のうち」では側室の名前や出自に違いが見られるため、史料を比較しながら確認することが重要です。
Q. 豊臣秀次の子孫は残ったのですか?
A. 豊臣秀次の直系の子供たちは豊臣秀次切腹事件で命を落としたと考えられています。
ただし、お菊や隆清院に関する伝承や、姪・豊臣完子を含めた豊臣秀次の血筋については諸説があります。詳しくは「豊臣秀次の子孫」の記事で解説しています。
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豊臣秀次 家系図
豊臣秀次の祖父母の世代から子供たちの世代まで、豊臣秀次の家系図を紹介します。
→ 豊臣秀次 家系図
豊臣秀次の母: 瑞龍院殿日秀尼
瑞竜院殿日秀尼(「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)は豊臣秀次の母で、豊臣秀吉・秀長兄弟の姉でもあります。
豊臣秀次の父: 三好吉房
三好吉房は(「豊臣兄弟!」の長尾弥兵衛にあたる男性)は豊臣秀次の実父です。
豊臣秀次の長弟: 豊臣秀勝(幼名は小吉)
豊臣秀勝は豊臣秀次の長弟です。
この秀勝が浅井長政の三女・江と結婚し、完子をもうけます。
豊臣秀次の次弟: 豊臣秀保(幼名は鍋丸または御虎)
豊臣秀保は豊臣秀次の次弟です。
1588(天正16)年1月に叔父・豊臣秀長の後継者として養子に迎えられます。
豊臣秀次の妻(最初の正室): 若政所
若政所(わかまんどころ)は豊臣秀次にとって最初の正室で、池田恒興の娘です。
豊臣秀次の妻(2番目の正室): 一の台
一の台(いちのだい)は豊臣秀次にとって2番目の正室で、菊亭晴季の娘です。
豊臣秀次の側室
豊臣秀次には2人の正室の他、30人近い側室がいたとされています。
豊臣秀次の子孫
豊臣秀次の子供たちは「秀次事件(豊臣秀次切腹事件)」に連座させられたため、秀次の直系にあたる子孫は残っていないと考えられています。
しかし秀次の近縁にあたる血統まで途絶えてしまったわけではありません。一部については17世紀後半まで続いたことが分かっています。
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豊臣秀次とは
豊臣秀次とは豊臣秀吉の甥にあたる人物です。
1591(天正19)年12月28日、関白職と豊臣家の氏長者を秀吉から譲られました。
→ 豊臣秀次とは?
三好信吉とは
三好信吉とは豊臣秀次が1582(天正10)年の半ばから1584(天正12)年の半ばにかけて名乗っていた名前です。
当時は叔父・豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の政略により、阿波の戦国大名である三好康長の養子となっていました。
→ 三好信吉とは?
豊臣兄弟 豊臣秀次とは?
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では豊臣秀次役として山田涼介さんが起用されます。
豊臣兄弟 三好信吉とは?
「豊臣兄弟!」における山田涼介さんの最初の役名は、「豊臣秀次」ではなく「三好信吉」から始まります。
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参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
