豊臣完子(とよとみさだこ)は豊臣秀勝と江(崇源院)の娘であり、豊臣家の近縁血統を後世へ伝えた重要人物です。
父・豊臣秀勝を幼い頃に亡くしたあと、伯母にあたる茶々(淀殿)のもとで養育され、のちに関白となる九条忠栄(のちの九条幸家)と結婚。
完子と九条忠栄の間にできた娘たちは、それぞれ東本願寺と西本願寺に嫁ぎ、豊臣秀吉・秀長兄弟につながる近縁血統は江戸時代初期まで続いたと考えられています。
一方で、「豊臣家の血筋が現代の皇室まで続いている」という説については慎重に考える必要があり、近年の研究では異なる見解も示されています。
この記事では、豊臣完子の生涯や家族、九条家との結婚、子供や子孫、さらに現代皇室との関係について、史料や研究成果をもとにわかりやすく解説します。
▼要点まとめ
・父は豊臣秀勝で母は江(崇源院)
・豊臣秀吉・秀長兄弟の姉・瑞龍院殿日秀尼の孫にあたる
・父の死後は茶々(淀殿)の猶子として育てられた
・五摂家・九条家の九条忠栄(のちの九条幸家)へ嫁いだ
・2人の娘は東本願寺と西本願寺へ嫁ぎ、豊臣家の近縁血統を17世紀の終わりごろまで伝えた
・「現代皇室まで豊臣家の血筋が続く」という説については慎重な見方もある
→ 豊臣秀勝とは?豊臣秀次の弟で豊臣秀吉の甥
→ 豊臣兄弟! 江(西川愛莉)とは?
→ 瑞竜院殿日秀尼とは?完子の祖母
→ 豊臣秀次の子孫
→ 豊臣秀次の家系図
→ 豊臣秀吉の家系図
→ 豊臣秀長の家系図
→ 豊臣秀勝の家系図
豊臣完子(とよとみさだこ)とは?
豊臣完子は豊臣秀勝と江の娘であり、豊臣家の近縁血統を後世へ伝えた人物として知られています。
豊臣完子(とよとみさだこ)(?~1658年)は、豊臣秀吉の甥・豊臣秀勝と、浅井長政・お市夫妻の三女である江(崇源院)との間に生まれた娘です。
父・秀勝は豊臣秀吉の姉・瑞龍院殿日秀尼(「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)の次男であるため、完子は秀吉・秀長兄弟の近縁(大叔父と大姪の関係)にあたります。

1592(文禄元)年9月、父を幼くして亡くした完子は、伯母である茶々(淀殿)のもとで猶子(ゆうし)として養育され、その後、五摂家の一つである九条家出身の九条忠栄(のちの関白・九条幸家)に嫁ぎました。
さらに、その娘たちは東本願寺・西本願寺へ嫁いだことから、豊臣家の近縁血統を後世へ伝えた女性として注目されています。
一方で、インターネット上では
・「豊臣家の血筋は現代皇室まで続いている」
・「完子は昭和天皇の祖先である」
と紹介されることがあります。
しかし近年は、黒田基樹氏などの研究により、完子の実子について従来とは異なる見解も示されています。
そのため、完子を語る際には、
・豊臣家の近縁血統
・九条家そのものの系統
・現代皇室へつながる系統
を分けて考えることが大切です。
この記事では、こうした点も含めて最新の研究をもとに整理していきます。
→ 豊臣秀勝とは?豊臣秀次の弟で豊臣秀吉の甥
→ 豊臣兄弟! 江(西川愛莉)とは?
→ 瑞竜院殿日秀尼とは?完子の祖母
→ 豊臣秀次の子孫
→ 豊臣秀次の家系図
→ 豊臣秀吉の家系図
→ 豊臣秀長の家系図
→ 豊臣秀勝の家系図
豊臣秀勝と江の娘として生まれる
豊臣完子は、豊臣秀勝と浅井長政の三女・江との間に生まれた娘であり、戦国時代を代表する二つの名門の血を受け継いだ女性でした。
父・豊臣秀勝は、豊臣秀吉の姉・とも(瑞龍院日秀尼)の次男です。
そのため秀勝は、秀吉・秀長兄弟から見れば甥にあたります。
一方、母・江は浅井長政とお市の三女として生まれた女性です。
お市は織田信長の妹であり、江の姉には茶々(淀殿)と初がいました。
つまり完子は、
・豊臣家
・織田家
・浅井家
という戦国時代を代表する名門の血を受け継ぐ人物でもありました。
豊臣完子の生年は不詳
インターネット上では、完子の生年を1592(文禄元)年と紹介する記事が多く見られます。
しかし、福田千鶴氏の「江の生涯」や、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当している黒田基樹氏の「羽柴秀吉とその一族」では、生年は不詳とされています。
そのため、「1592年生まれ」と断定することはできません。
父・豊臣秀勝は朝鮮出兵中に病死
完子が幼い頃、父・豊臣秀勝は朝鮮出兵(文禄の役)に出陣。
しかし1592(文禄元)年、朝鮮半島南部の巨済島(現在の韓国・慶尚南道巨済市)で病死します。
まだ若くして夫を失った江は、その後1595(文禄4)年に徳川秀忠へ再嫁しました。
この再婚によって、完子は実母と離れて暮らすことになり、後に伯母・茶々(淀殿)のもとで「猶子」として養育されることになります。
この養育環境は、のちに九条家へ嫁ぐ際にも大きな意味を持つことになりました。
→ 豊臣秀勝とは?豊臣秀次の弟で豊臣秀吉の甥
→ 豊臣秀勝の死因
淀殿(茶々)の猶子として育つ
当時の「猶子」とは、法律上の養子とは異なり、有力者が親代わりとなって保護・養育する立場を意味します。
そのため完子は大坂城に住む伯母・茶々のもとで大切に育てられ、豊臣家を代表する姫君の一人として扱われるようになりました。
このことは、後に九条家へ嫁ぐ際の記録からも確認できます。
「慶長日件録」が伝える完子の立場
舟橋秀賢の日記「慶長日件録」には、完子が1604(慶長9)年6月3日に九条家へ嫁ぐ際の様子が次のように記されています。
三日、晴又陰、彼是女房客人これ有り、今夜九条殿中納言御納婦迎え也、其身三好小吉女也、小吉死後、秀頼卿母堂猶子として養育也、今度秀頼卿母堂悉皆御造作也、路次行粧担物等驚目也、
現代語訳すると、
九条忠栄が妻を迎える日であり、その女性は豊臣秀勝(三好小吉)の娘である。秀勝の死後は秀頼の母・淀殿が猶子として養育し、婚礼の準備も淀殿がすべて整えた。その行列や調度品は、人々が驚くほど豪華であった。
という意味になります。
この記録から分かるのは、完子は単に茶々に育てられただけではなく、豊臣家を代表する姫君の1人として扱われていたということです。
淀殿が婚礼を全面的に支援した
「慶長日件録」では、婚礼に必要な費用や調度品、行列の準備まで、すべて淀殿が手配したことが記されています。
さらに福田千鶴氏の「江の生涯」によれば、同じ1604(慶長9)年10月には、九条家が完子を迎え入れるために金箔で覆われた新しい御殿まで造営されました。
その御殿には、
・客殿
・台所
・小台所
・御上風呂(おうえふろ)
・女房局
など十数棟もの建物が整えられていたと伝えられています。
これは、豊臣家と五摂家の1つである九条家との婚姻関係が、政治的に極めて重要視されていたことを示しています。
九条忠栄(幸家)と結婚
完子が嫁いだ相手は、九条忠栄(くじょうただひで)です。
忠栄は後に「幸家(ゆきいえ)」と改名し、1608(慶長13)年には関白に任じられました。
五摂家とは、
・近衛家
・九条家
・二条家
・一条家
・鷹司家
の五家を指し、代々関白・摂政を務めることができる日本最高位の公家でした。
そのため、完子が九条家へ嫁いだことは、豊臣家にとっても極めて格式の高い婚姻だったといえます。
婚礼は豊臣家の威信を示す一大行事だった
前述した「慶長日件録」によれば、完子の婚礼は淀殿が全面的に支援し、非常に華やかなものとなりました。
特に
路次行粧担物等驚目也(道中の行列や持参品は人々が驚くほど立派だった)
という記述からも、その豪華さが伝わってきます。
豊臣政権は関ヶ原の戦い後に政治的影響力を失いつつありましたが、この婚礼はなお豊臣家の威信を世に示す機会でもあったと考えられるでしょう。
完子は関白夫人となる
1608(慶長13)年、夫・忠栄は関白に任じられ、「幸家」と改名します。
これに伴い、完子にも「北政所」という称号が贈られたと考えられています。
そのため、完子は単なる武家出身の女性ではなく、関白夫人として朝廷でも高い地位を占める存在となりました。
豊臣完子の名前について
幼名や初名は不明
「完子(さだこ)」とは後世に広く用いられる名前ですが、生まれた当初の名前は現在も分かっていません。
一般に「豊臣完子」と呼ばれていますが、福田千鶴氏の「江の生涯」によれば、幼名や初名については史料が残っておらず、不明とされています。
現在知られている「完子」という名前は、1608(慶長13)年に夫・九条忠栄が関白に任官した際、「北政所」の称号とともに贈られた諱(いみな)であると考えられています。
ちなみに完子の院号として天真院(てんしんいん)が伝わっています。
大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では「完(さだ)」と命名
2011(平成23)年にNHKで放送された大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の第27回「秀勝の遺言」では、上野樹里さん演じる江が、夫・豊臣秀勝(AKIRA)との間に生まれた娘へ「完(さだ)」と名付ける場面が描かれました。
ただし、これはドラマ独自の演出であり、史実として幼名や初名が確認されているわけではありません。
そのため、史実としては、初名は不明で、後に「完子」の諱が与えられたと考えられています
豊臣完子の子供と子孫
豊臣完子には子供がいたことは確実ですが、その人数については近年の研究によって見直しが進められています。
従来は、完子と九条忠栄(幸家)の間には四男三女、あるいは七人の子供がいたと説明されることが少なくありませんでした。
しかし、黒田基樹氏は著作の「羽柴秀吉とその一族」において実子は娘二人だけだった可能性が高いと指摘しています。
完子は九条忠栄との間に、慶長十二年から寛永二年(一六二五)にかけて四男三女を産んだとされている。(中略)「崇源院殿之伝系」では「御息女二人を産し給う」とあることからすると、完子の実子は、長女で慶長十三年生まれの東本願寺宣如妻と、次女で同十八年生まれの西本願寺良如妻の二人だけであった可能性が高い。
2人の娘たちは東本願寺と西本願寺へ嫁いだ
上述した引用に基づくと、完子が九条忠栄の間にもうけた実子は次の2人の女子です。
・成等院(じょうとういん)…東本願寺宣如の妻
・貞梁院(じょうりょういん)…西本願寺良如の妻
どちらも東西本願寺の門跡へ嫁いだことが分かっています。
東本願寺の系統へ血筋が受け継がれる
特に長女・成等院は東本願寺宣如との間に子供をもうけています。
その系統では、
・東本願寺啄如
・東本願寺一如
・東本願寺常如
と血筋が受け継がれました。
このことから、豊臣秀吉・秀長兄弟につながる近縁血統は、少なくとも17世紀の終わりごろまで確認できると考えられています。
なお、この血筋については、「豊臣秀次の子孫」記事でも詳しく解説しています。
なぜ豊臣完子は豊臣家の血筋を後世へ伝えた人物と言われるのか
豊臣完子は豊臣宗家を継いだ人物ではありません。
「豊臣秀吉-豊臣秀頼」の系統から見ると、豊臣完子は傍系の子孫であったと言えるでしょう。
しかし豊臣完子が現代もなおその名を人々の記憶に留めている理由は、豊臣秀吉・秀長兄弟につながる近縁血統を後世へ伝えた数少ない存在であるからです。
豊臣家は1615(慶長20/元和元)年の「大坂夏の陣」を経て宗家が滅亡しました。そのため、「豊臣家は断絶した」と説明されることが一般的です。
しかし、血縁まで完全に途絶えたわけではありません。完子の父・豊臣秀勝は、豊臣秀吉・秀長兄弟の姉・とも(瑞龍院日秀尼)の次男です。
つまり完子は、
・豊臣秀吉・秀長兄弟
・姉・とも(瑞龍院日秀尼)
へとつながる近縁血統を受け継ぐ人物でした。
さらに、その娘たちが東本願寺・西本願寺へ嫁いだことで、その血筋は少なくとも17世紀終わりごろまでは受け継がれたと考えられています。
ただし、このことは「豊臣宗家が存続した」という意味ではありません。また、「豊臣秀次の直系子孫が残った」という意味でもありません。
そのため、
・豊臣宗家
・豊臣秀次の直系
・豊臣家の近縁血統
は区別して考える必要があります。
豊臣完子は昭和天皇や現在の皇室の祖先なのか
結論から言うと、「豊臣家の血筋が現代皇室まで続いている」と断定することはできません。
インターネット上の一部の言説では、「豊臣完子は昭和天皇の祖先」あるいは、「豊臣家の血筋は現在の皇室まで続いている」と紹介されることがあります。
これは、完子が嫁いだ九条家の男子系統が、後に皇室と婚姻を重ねたことに由来するのでしょう。
しかし近年は、この説明と合わない説も見られます。
実際、黒田基樹氏はその著作の中で完子の実子は娘二人だけだった可能性が高いと指摘しています。
もしこうした見解が正しいとすれば、現在の皇室へ続く九条家男子系統と、完子の実子の血統は別系統になります。
つまり、
・九条家そのものの家系
・完子の子孫
・現代皇室の系譜
を同じものとして考えることはできません。
そのため、現時点では「完子を通じて豊臣家の血筋が現代皇室まで続いている」と断定することは避けるべきかもしれません。
一方で、完子が豊臣家の近縁血統を後世へ伝えた重要人物であると指摘できるでしょう。
FAQ | 豊臣完子に関するよくある質問
Q. 豊臣完子とは誰ですか?
A. 豊臣秀勝と江(崇源院)の娘です。
父方では豊臣秀吉・秀長兄弟の姉・とも(瑞龍院日秀尼)の孫にあたり、豊臣家の近縁血統を後世へ伝えた人物として知られています。
Q. 豊臣完子は誰と結婚しましたか?
A. 豊臣完子は、1604(慶長9)年6月3日、五摂家の一つである九条家の九条忠栄(のちの九条幸家)へ嫁ぎました。
Q. 豊臣完子に子供はいましたか?
A. 近年の研究では、実子は東本願寺宣如へ嫁いだ成等院と、西本願寺良如へ嫁いだ貞梁院の二人だった可能性が高いとされています。
Q. 豊臣完子は昭和天皇の祖先ですか?
A. 九条家そのものは皇室と関係がありますが、完子の実子にあたる血筋が現代皇室まで続いていることは現在の時点では断定できません。
豊臣完子 関連記事
豊臣秀勝
豊臣秀勝は豊臣完子の父で、豊臣秀次の長弟に当たります。
豊臣秀次 家系図
豊臣秀次の祖父母の世代から子供たちの世代まで、豊臣秀次の家系図を紹介します。
→ 豊臣秀次の家系図
豊臣秀次 子孫
豊臣秀次の子供たちは「秀次事件(豊臣秀次切腹事件)」に連座させられたため、秀次の直系にあたる子孫は残っていないと考えられています。
豊臣秀次 関連記事
豊臣秀次とは
豊臣秀次とは豊臣秀吉の甥にあたる人物です。
1591(天正19)年12月28日、関白職と豊臣家の氏長者を秀吉から譲られました。
→ 豊臣秀次とは?
三好信吉とは
三好信吉とは豊臣秀次が1582(天正10)年の半ばから1584(天正12)年の半ばにかけて名乗っていた名前です。
当時は叔父・豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の政略により、阿波の戦国大名である三好康長の養子となっていました。
→ 三好信吉とは?
豊臣兄弟 豊臣秀次とは?
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では豊臣秀次役として山田涼介さんが起用されます。
豊臣兄弟 三好信吉とは?
「豊臣兄弟!」における山田涼介さんの最初の役名は、「豊臣秀次」ではなく「三好信吉」から始まります。
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から第1話までのあらすじや、各週の流れについては下記の記事をご覧ください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
本能寺の変や山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、豊臣政権成立までの流れについては、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にています。
