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長宗我部元親とは誰?本能寺の変・四国征伐・九州征伐に翻弄された土佐の戦国大名を解説【豊臣兄弟!】

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長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、戦国時代に土佐を統一し、四国統一目前まで勢力を拡大した戦国大名です。

織田信長が四国政策を転換させたことによって翻弄され、元親と信長の外交問題は本能寺の変の遠因の一つになったとも言われています。

さらに本能寺の変後は羽柴秀吉・羽柴秀長兄弟による四国征伐を受けて降伏。その後も嫡男・長宗我部信親を九州征伐で失うなど、多くの苦難に見舞われました。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、本能寺の変へ向かう物語の重要人物として描かれる可能性があります。

▼ 長宗我部元親 要点まとめ

・土佐の戦国大名
・四国統一目前まで勢力を拡大
・明智光秀を通して織田信長との外交関係を持つ
・本能寺の変の遠因となる「四国問題」の当事者
・豊臣秀長による四国征伐で降伏
・嫡男・長宗我部信親を戸次川の戦いで失う
・秀長死後に長宗我部元親は四十九日の法要を行った

この記事では、長宗我部元親の生涯や本能寺の変との関係、豊臣秀長との関係について分かりやすく解説します。

長宗我部元親との外交を担当した明智光秀について知りたい方はこちらをご覧ください。

明智光秀とは誰?本能寺の変を起こした武将を解説

長宗我部元親の領土問題が関係した本能寺の変について詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。

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目次

結論|長宗我部元親とは?

・土佐を統一した戦国大名
・四国統一目前まで勢力を拡大
・明智光秀と友好的な外交関係を持った
・本能寺の変の背景となる長宗我部問題の当事者
・羽柴秀長(豊臣秀長)による四国征伐で降伏
・嫡男・長宗我部信親を九州征伐で失う
・秀長死後には追善供養を行った

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豊臣兄弟!で長宗我部元親はどう描かれる?

第25話から本能寺の変の重要人物として登場

第25話「変事の予兆」から、長宗我部元親(磯部寛之)は本能寺の変に関わる重要人物として描かれます。

第25話では織田信長(小栗旬)が、四国統一を進める長宗我部家をどのように扱うかが大きな政治課題となっていました。

豊臣兄弟!25話「変事の予兆」あらすじと見どころ

信長と光秀の対立の原因の一つになる

明智光秀(要潤)は長宗我部家との外交窓口を担当していました。

ところが第26話「信長を笑わせろ」において、信長はこれまで友好的態度で臨んでいた四国政策を転換。

長宗我部元親には、四国全土ではなく土佐一国しか認めないという強硬的な態度に豹変します。

豊臣兄弟!26話「信長を笑わせろ」あらすじと見どころ

第27話「本能寺の変」へつながる存在

こうした突然の政策変更は長宗我部との外交を担当していた明智光秀を大いに悩ませることになります。

第27話「本能寺の変」において、本能寺の変が描かれる見逃せない伏線となるでしょう。

こうしたことから元親は、本能寺の変そのものに参加することはなくても、「豊臣兄弟!」の物語全体を動かす重要人物の1人と言えるでしょう。

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豊臣兄弟! 第28話以降の長宗我部元親

史実の長宗我部元親は、1585(天正13)年5月に羽柴秀長率いる11万とも12万とも伝えられる大軍によって、阿波・讃岐・伊予の三方面から同時に攻撃を受けます(四国征伐)。

四国征伐は「天下一の補佐役」と呼ばれた豊臣秀長が生涯で唯一、総大将を務めた戦いです。

それだけに2026年9月以降に放送される「豊臣兄弟」の終盤において、仲野太賀さん率いる羽柴秀長(のちの豊臣秀長)と磯部寛之さんが演じる長宗我部元親の直接対決は、ドラマの見どころの1つとなることが予想されます。

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長宗我部元親とはどんな人物?

土佐国の国人領主の子として生まれる

長宗我部元親は1539(天文8)年、土佐国の国人領主・長宗我部国親の子として誕生。

若い頃はおとなしい性格だったため「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれていました。

また長宗我部元親が初陣した年齢は23才(現在の数え方で22才)。23才の初陣は当時の戦国武将の常識からするとしては、かなり遅い年齢だったと言えるでしょう。

土佐統一を成し遂げる

「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれ、23才と遅い初陣を飾った元親ですが、戦いにおいて類いまれな軍事的才能を発揮します。

当時の土佐国に存在した「一領具足(いちりょうぐそく)」という剽悍な半農半兵の軍団を統率し、7郡あった土佐一国を統一。

四国統一寸前まで勢力を拡大

その後は阿波・讃岐・伊予へと勢力を広げ、四国統一目前まで迫ります。

もし織田信長の台頭や豊臣政権の成立がなければ、四国全島を支配する大大名になっていたかもしれません。

長宗我部元親と織田信長の関係〜友好関係から敵対関係へ

当初の織田信長は友好的だった

1568(永禄11)年、織田信長はのちに室町幕府第15代将軍となる足利義昭を奉じて京に上洛。

信長は畿内を統一するという意味で「天下布武」を唱え始めます。

しかしこの頃の織田信長は、浅井長政朝倉義景・三好三人衆・石山本願寺・比叡山延暦寺など、畿内統一はおろか京の周辺でさえ強敵に囲まれている状態でした。

1560年代後半から1570年代前半にかけての信長には、畿内の外に戦力を振り向ける余裕などありません。

そのため海を挟んで畿内と向かい合っている四国の長宗我部元親とは友好関係を保っておく方が得策でした。

明智光秀が長宗我部外交を担当

そこで信長は重臣の一人である明智光秀を、長宗我部元親の「取次(とりつぎ)」に任命。

「取次」とは現代の外交官のことで、信長は光秀を通して長宗我部元親と友好的な関係を築くよう外交方針を示します。

具体的には信長は元親に対して「四国全土は切り取り勝手」を約束。「四国全土は切り取り勝手」とは「四国で奪った土地はそのまま自分の領地として良い」という意味です。

言い換えれば信長は「うちは四国での領土紛争には介入しません。代わりに長宗我部さんも畿内での揉め事には介入しないでください」と言って、元親と中立条約を結んだと言えるでしょう。

信長が四国政策を転換

ところが1580(天正8)年ごろになると、信長は大坂の石山本願寺と和睦することに成功。これで畿内では向かうところ敵なしと言う状態となります。

この頃が織田信長の勢いが最も盛んな時期です。そのせいか信長は1581(天正9)年になると、これまでの四国政策を180度転換。

阿波の三好康長(三好康信ともいう)が「長宗我部元親に奪われた土地を返してほしい」と陳情を受けたことを表向きの理由として、元親に阿波から撤兵するよう要求。

もちろん信長のこのような要求は、これまで交わしてきた「四国全土は切り取り次第」と言う約束に反します。

元親は外交窓口になっている光秀を通し、自分が阿波に侵攻することの正統性を説明しますが、信長は却下。

これに怒った元親は阿波だけではなく、讃岐・伊予方面にも侵攻を開始しました。

一方、信長は元親が本気で四国全土を実力で奪いにかかってきたことを憂慮して、1582(天正10)年5月ごろに三男の織田信孝と重臣・丹羽長秀に四国攻めを命令。

長宗我部元親と明智光秀の関係

光秀は長宗我部家との外交窓口だった

明智光秀は長宗我部家と織田家を結ぶ外交窓口でした。

そのため織田と長宗我部間の外交関係が悪化することによって、最も割を食ったと考えられる人物は明智光秀です。

実は当初、信長が考えていた友好的な関係を築くために、自分の娘を元親の嫡男である長宗我部信親のもとに嫁がせて、両家の友好関係が長く続くよう努力していました。

長宗我部問題は本能寺の変の原因の1つと考えられる

戦国時代において自分の娘を他家の大名に嫁がせるということは、嫁ぎ先に人質を出すという意味です。

もし織田と長宗我部に争いが生じれば、光秀の娘は人質として真っ先に斬られる存在です。

明智光秀は「常識人」とも「教養人」とも呼ばれた人物と伝わっています。

おそらく光秀は「人の親」としても真っ当な性格な持ち主であったと想像できますので、こうした「信長の手のひら返し」は光秀にとって耐え難いものであったでしょう。

明智光秀が織田信長を裏切って本能寺の変を起こした理由は、いくつかの原因が重なったと考えられています。こうした信長の「長宗我部外交の転換説」はその原因の1つであると言えるでしょう。

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本能寺の変後の長宗我部元親

信長死後に四国統一を進める

1582(天正10)年6月2日、本能寺の変において織田信長は明智光秀に討ち取られて死亡。

四国において長宗我部攻めの任にあたっていた織田信孝と丹羽長秀は、自身の軍勢を急遽、山城国の山崎に向けることに(山崎の戦い)。

元親は畿内で力が空白を生じたことを利用して、再び四国統一を目指します。

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羽柴秀吉との対立が深まる

ただ元親は四国と海で境を接する、摂津に領国を持つ羽柴秀吉とは常に対立関係にありました。

そのため北陸地方の柴田勝家や東海地方の徳川家康など、常に羽柴秀吉の反対勢力と結んで、秀吉の勢力が四国に及ばないように抵抗。

しかし1584(天正12)年の小牧長久手の戦いの末、織田信雄を従属させることに成功した羽柴秀吉は、織田信雄と徳川家康に協力していた勢力の討伐にかかります。

1585(天正13)年3月に紀州征伐によって、和歌山を中心とした紀伊国の北部を平定。秀吉は天下統一に向けて次のターゲットを四国の長宗我部元親に合わせます。

四国征伐における長宗我部元親と豊臣秀長

羽柴秀長による四国侵攻

秀吉は1585(天正13)年5月4日に四国征伐を表明し、同年6月3日に弟・羽柴秀長に総大将として四国渡海を命じます。

秀長を総大将とする四国遠征軍は主に4つの軍で構成され、総勢は11万から12万5,000ほどの大軍であったと言われています。

  • 本軍: 羽柴秀吉(阿波の侵攻を担当)
  • 第二軍: 羽柴秀次(阿波の侵攻を担当)
  • 第三軍: 宇喜多秀家・黒田官兵衛・蜂須賀正勝(讃岐の侵攻を担当)
  • 第四軍: 小早川隆景(伊予の侵攻を担当)

これらの侵攻に対して、長宗我部元親は主に阿波国にあった牛岐(うしき)城・木津城・脇城・一宮城の防衛を強化。

特に脇城と一宮城には長宗我部元親の一族や重臣・江村親頼や谷忠澄らを派遣。

長宗我部勢は一宮城を中心として頑強な抵抗を見せたものの、元親が動員できる総兵力は4万程度であったため、羽柴秀長が率いる大軍の前にとても敵いません。

同年7月25日から長宗我部・羽柴の間で和睦交渉が始まります。

長宗我部元親は降伏 所領は土佐一国に

和睦交渉といっても実質的には長宗我部元親の降伏です。7月27日付には秀吉から秀長に対して5ヶ条の訓令が届けられます。

この訓令が実質的な長宗我部元親の降伏を認める条件でした。

主な内容は以下のとおりです。

  1. 元親の長男・信親と三男・親忠、さらに家老たちの子弟も人質とすること
  2. これらの人質を提出するならば長宗我部元親の領地は土佐1カ国に限って認める

長宗我部元親は秀吉が示した5ヶ条から成る降伏条件を全て認め、長宗我部元親の領地は土佐一国に限定されることになりました。

長宗我部元親は羽柴秀長から「指南」を受けることに

長宗我部元親は同年10月15日に京にいる羽柴秀吉のもとに出仕し、正式に従属することが確定。

これ以降、元親は秀長から「指南(しなん)」を受けることになります。

「指南」とは軍事行動をする際に指導を受けることを意味する言葉であり、戦の際には長宗我部元親は秀長の指揮下に入ることになります。

藤堂高虎が豊臣政権における長宗我部外交を担当

元親は秀長から「指南」を受けるにあたって、「取次(とりつぎ)」が必要となります。

上述したとおり「取次」とは現代の言葉でいう外交官のことですが、秀長から元親への取次は藤堂高虎が担当しました。

実は藤堂高虎は四国に渡海して戦闘に参加する一方で、長宗我部元親と羽柴秀長の取次を務めて終戦工作にも従事していました。

その関係で藤堂高虎は四国征伐が終わったのちも、長宗我部家への取次を務めていたと考えられます。

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九州征伐における長宗我部元親と豊臣秀長

戸次川の戦いで嫡男・長宗我部信親が戦死

豊臣秀長から「指南」を受けることになった長宗我部元親は、1586(天正14)年7月に九州に出兵するよう命じられます(九州征伐)。

同年9月下旬に九州に上陸しますが、12月12日に島津家久が率いる島津勢に大敗(戸次川の戦い)。

このとき元親は嫡男・長宗我部信親が戦死し、跡取り息子を失うという悲劇に見舞われました。

恩賞としての大隈国を辞退

戸次川の戦いは豊臣方の敗北であったものの、九州征伐自体は島津家の降伏で終わります。

戦後の領土仕置き(九州国分)において負けた島津家の領土を分割するにあたって、豊臣秀吉は長宗我部元親に対して、それまで島津家の領地であった大隈国を長宗我部家の領地とすることをを提案。

この提案は信親の戦死に報いるために秀吉が配慮したことですが、元親は辞退。結局、大隈国はこれまで通り島津家の領地として確定しました。

その後の長宗我部元親と豊臣秀長の関係

1591(天正19)年1月に豊臣秀長が病死

1591(天正19)年1月21日、豊臣秀長は大和郡山城で病気のため死去。

その葬儀は同年1月29日に大和郡山で行われ、20万人もの人が秀長の亡骸を見送ったと伝わっています。

豊臣秀長の死去とその葬儀

秀長の死後には追善供養を行った

豊臣秀長の葬儀のために20万人もの人が集まったという逸話は、秀長が生前においていかに人々から慕われていたかを示すエピソードでしょう。

しかも秀長が慕われていたのは民衆だけではなく、かつて自身が「取次」や「指南」をしていた、徳川家康や毛利輝元のような外様の大大名たちからも慕われていたようです。

そのような大名の中には長宗我部元親も含まれており、長宗我部元親は、亡くなった豊臣秀長の四十九日の法要を独自に行なったと伝わっています。

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参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。

著:八津 弘幸, 編集:NHK出版, 監修:NHKドラマ制作班
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著:桑田 忠親
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