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豊臣秀勝の家系図|江との娘・完子(さだこ)と豊臣家近縁血統を解説

豊臣秀勝・完子・九条家につながる家系図

豊臣秀勝の家系図が気になりますよね。

結論から言うと、豊臣秀勝と江の娘・完子(さだこ)は、豊臣家近縁血統を近世までつないだ重要人物です。

▼要点まとめ

・秀勝は秀吉の甥
・妻は江(崇源院)
・娘が完子(さだこ)
・完子は九条忠栄の正室
・近縁血統は東本願寺系統へつながる

本記事では、豊臣秀勝の家系図や、完子につながる豊臣家近縁血統を整理します。

→ 豊臣秀吉の家系図を見る
→ 豊臣完子(さだこ)とは?

目次

結論|秀勝の娘・完子は豊臣家近縁血統をつないだ人物だった

豊臣秀勝は、豊臣秀吉の甥として知られる武将です。

また、妻・江(崇源院)との間に生まれた娘・完子(さだこ)は、九条忠栄の正室となりました。

さらに、完子の娘・成等院の系統は東本願寺ともつながっています。

そのため、完子は豊臣家近縁血統を考えるうえで非常に重要な存在となっています。

→ 豊臣完子(さだこ)とは?
→ とも(瑞龍院殿日秀尼)の子供と子孫を見る

豊臣秀勝とその家系図について

豊臣秀勝とは

豊臣秀勝(とよとみひでかつ)(1568~1592年)とは、豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀(大河ドラマ「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)と三好吉房の次男で、秀吉の後に関白に就任する豊臣秀次の弟にあたる人物です。

豊臣秀勝は、豊臣一門衆として豊臣秀長・豊臣秀次に次ぐ三番目の地位にあり、近江国勢田・丹波国亀山・美濃国大柿(大垣)・甲斐国・美濃国岐阜などを所領として治めていた大名であったことが知られています。

豊臣秀勝の家系図

瑞竜院日秀尼と豊臣秀勝の家系は、豊臣秀吉・豊臣秀長・豊臣秀次など豊臣家の主だった人物の家系と比べて、最も長くその血筋を残したことで知られています。

下記の豊臣秀勝の家系図において、秀勝から見て玄孫にあたる東本願寺常如(じょうにょ)は1641(寛永18)年生まれで亡くなった年は1694(元禄7)年、同じく秀勝の玄孫・東本願寺一如(いちにょ)は1649(慶安2)年生まれで、1700(元禄13)年に亡くなっています。

完子(さだこ)と豊臣家近縁血統

豊臣秀勝と江の娘・完子(さだこ)は、豊臣家近縁血統を考えるうえで非常に重要な人物です。

完子は九条忠栄の正室となっており、その娘・成等院の系統は東本願寺ともつながっています。

また、完子は秀吉・秀長兄弟の姉・とも(瑞龍院殿日秀尼)の孫でもあり、豊臣家近縁血統を近世までつないだ存在と考えられています。

→ 豊臣完子(さだこ)とは?
→ とも(瑞龍院殿日秀尼)の子供と子孫を見る
→ 豊臣兄弟! 江(西川愛莉)とは?

なぜ「豊臣家は現代皇室につながる」と言われるのか?

ネット上では、「豊臣家の血筋は現代皇室まで続いている」と説明されることがあります。

これは、完子(さだこ)が嫁いだ九条家の男子系統が、後の皇室につながっているためです。

しかし、完子が九条忠栄との間に産んだ実子は女子2人です。明治・大正・昭和・平成・令和と近代から現代の皇室へつながる九条家の男子血統とは異なる別の血統と考えられています。

そのため、

・九条家そのもの
・完子の実子血統
・豊臣家近縁血統

を分けて考える必要があります。

豊臣家全体の家系図を見る

豊臣秀勝を理解するうえでは、豊臣秀吉を中心とした豊臣家全体の構造も重要になります。

特に、

・秀吉
・秀長
・秀次
・秀勝
・秀保

らは、養子・婚姻・後継問題によって複雑につながっていました。

→ 豊臣秀吉の家系図を見る

豊臣秀次切腹事件後の豊臣家との関係

1595(文禄4)年7月に発生した「豊臣秀次切腹事件」によって、豊臣宗家の構造は大きく変化しました。

→ 豊臣秀次切腹事件とは?

一方で、秀勝系統では完子(さだこ)につながる近縁血統が続いていきます。

→ 豊臣秀次の家系図を見る

秀長家の後継問題との関係

豊臣家では、秀勝の叔父にあたる豊臣秀長家でも後継者問題が続いていました。

秀長家では、

与一郎
↓
千丸(藤堂高吉)
↓
豊臣秀保

へと後継者が変化していきます。

また、「秀保の妻」は秀長実子の娘と考えられています。

→ 豊臣秀長の家系図を見る

豊臣秀勝の先祖と子孫たち

豊臣秀勝の祖父母

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名前生年と死没年豊臣秀勝との関係豊臣兄弟!で該当する人物
妙雲院殿栄本(生没年不詳)祖父
天瑞院殿
(大政所)
1517〜1592年祖母なか

豊臣秀勝の父母

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名前生年と死没年豊臣秀勝との関係豊臣兄弟!で該当する人物
三好吉房
(三吉常閑)
1534~1612年父
瑞竜院殿日秀尼1532~1625年母とも

豊臣秀勝の叔父・叔母

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名前生年と死没年豊臣秀勝との関係豊臣兄弟!で該当する人物
豊臣秀吉1537~1598年叔父藤吉郎
豊臣秀長1540~1591年叔父小一郎
南明院殿
(朝日姫)
1543~1590年叔母あさひ

豊臣秀勝の兄弟

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名前生年と死没年豊臣秀勝との関係豊臣兄弟!で該当する人物
豊臣秀次
(宮部吉継・三好孫七郎信吉)
1564?~1595年兄
豊臣秀保
(鍋丸・御虎)
1579~1595年弟

豊臣秀勝の妻

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名前生年と死没年豊臣秀勝との関係豊臣兄弟!で該当する人物
江
(崇源院)
1573~1626年妻

豊臣秀勝の子供

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名前生年と死没年豊臣秀勝との関係豊臣兄弟!で該当する人物
完子
(さだこ)
?~1658年長女と考えられる
女子
(名前不明)
?〜?次女と考えられる

豊臣秀勝の孫

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名前生年と死没年豊臣秀勝との関係豊臣兄弟!で該当する人物
成等院1608年〜?完子の家系に属する孫
貞梁院1613年〜?完子の家系に属する孫

完子の実子は2人の女の子だけ

豊臣秀勝の長女と考えられる完子は、1604(慶長5)年に五摂家の1つである九条忠栄(のちの九条幸家)と結婚したことが知られ、一説では完子は九条忠栄との間に四男三女をもうけたとしています。

しかし大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証をされている黒田基樹さんの著作「羽柴秀吉とその一族」によると、完子の実子は東本願寺宣如の妻となった成等院(じょうとういん)と、西本願寺良如の妻となった貞梁院(じょうりょういん)の2人だけである可能性が高いと指摘されています。

完子は九条忠栄との間に、慶長十二年から寛永二年(一六ニ五)にかけて四男三女を産んだとされている。長男二条康道を産んだ時に二〇歳とみると、その生年は天正十六年(一五八八)と推定される。ただし「柳営婦女殿系」のうち「崇源院殿之伝系」(『徳川諸家系譜第一』一七八頁)では、所伝に錯誤が見られるものの、完子に相当する記載に「御息女二人を産し給う」「のちに台徳院殿(徳川秀忠)御養女として、二人共に本願寺東西両門跡に嫁せし給う」とあることからすると、完子の実子は、長女で慶長十三年生まれの東本願寺宣如妻と、次女で同十八年生まれの西本願寺良如妻の二人だけであった可能性が高い。

黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) 185ページ

豊臣秀勝のひ孫

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名前生年と死没年豊臣秀勝との関係豊臣兄弟!で該当する人物
東本願寺琢如1625~1671年成等院の家系に属するひ孫

豊臣秀勝の玄孫

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名前生年と死没年説明豊臣兄弟!で該当する人物
東本願寺常如1641~1694年東本願寺琢如の家系に属する玄孫
東本願寺一如1649~1700年東本願寺琢如の家系に属する玄孫

豊臣家の家系図・後継問題をさらに詳しく知りたい方へ

NHKの大河ドラマ「豊臣兄弟!」が放送されることで、主人公・豊臣秀長やその兄・豊臣秀吉の後継者や子孫について注目が集まっています。

豊臣秀長の後継者、その血統を保った可能性のある人物、さらに近縁者の子孫などについては、下記の記事で詳細を説明しています。

→ 豊臣秀吉の家系図を見る
→ 豊臣秀長の家系図を見る
→ 豊臣秀次の家系図を見る
→ 豊臣完子(さだこ)とは?

参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の黒田基樹さんは、いずれも2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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戎光祥出版
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豊臣秀勝・完子・九条家につながる家系図

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