なか(大政所)の死因を考察
なか(大政所)の死因は老衰か
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は、仲野太賀さん扮する「小一郎」こと豊臣秀長(1540~1591年)です。
その豊臣秀長の母・「なか」こと大政所(天瑞院殿)(坂井真紀)は1517(永正14)年生まれで、1590(天正18)年に75才(数え年で76才)で亡くなります。
なかの死因は伝わっていないので不明ですが、安土桃山時代に70才を超えてなお生きたことを考えると、なかは老衰による死だったのではないでしょうか。
なかは1588(天正16)年に豊臣秀吉がなかの病気平癒を祈願するために創建した、京の天瑞寺に葬られることになります。
大河ドラマ「秀吉」でもなかは老衰死
ちなみにNHKで1996年に放送された大河ドラマ「秀吉」では市原悦子さん扮する、なか(大政所)の死が、47話「かあちゃんの死!」のまるまる1話を使ってフォーカスされます。
「秀吉」の47話ではなか(大政所)は何かの病気のために亡くなったというより、現代でいうところの認知症のような症状を見せつつ、体力が尽きてしまったという描写がなされています。
大河ドラマ「秀吉」の説を採るならば、なかの死は「老衰」ということになるでしょう。
なか(大政所) 晩年の逸話・3つのエピソード
1. なか(大政所) 人質として三河国に送られる
晩年のなか(大政所)に関する逸話といえば、なんと言っても徳川家康を上洛させて豊臣家に臣従を誓わせるために、豊臣秀吉によって「人質」として三河国の岡崎城に送り付けられたことは有名でしょう。
1586(天正14)年にすでに豊臣秀吉・秀長兄弟の妹・あさひ(南明院殿)が、徳川家康の正室の名目で「人質」に送られていましたが、それだけでは家康は上洛しません。
業を煮やして秀吉は「あさひのお見舞い」という名目で母の大政所も「人質」として徳川方に送り、ようやく家康に上洛をさせ臣従を取り付けます。
この「大政所の人質エピソード」については2023年に放送されたNHKの大河ドラマ「どうする家康」の35話「欲望の怪物」のお話で詳しく描かれています。
2. なか(大政所) 朝鮮出兵に反対
豊臣秀吉は、1591(天正19)年1月に良き補佐役であった弟・豊臣秀長を亡くし、同年9月には茶々との間にできた男子・鶴松も亡くします。
身内が相次いで亡くなる中、悲しみを振り払うがごとく秀吉は朝鮮出兵(文禄の役)を決めますが、大政所は朝鮮や明の民が苦しむと猛反対。
大河ドラマ「秀吉」の47話「かあちゃんの死!」では、死の間際には豊臣秀次・徳川家康・前田利家・黒田如水といった豊臣政権の重鎮たちを自室に呼び、書状を持って秀吉の朝鮮出兵に反対するよう署名と血判を求めます。
3. なか(大政所) 豊臣秀長の妻・慶と仲がよかった
「多聞院日記」や「駒井日記」の記述によると、豊臣秀長の正妻・「慶(ちか)」こと慈雲院と仲が良かった様子がうかがえます。大政所と慈雲院は、たびたび奈良・興福寺の法華会や、春日社の参詣に訪れていたようです。
また徳川家康とあさひの夫妻は1589(天正17)年に病気で伏せっていた大政所を、豊臣秀長の居城である大和郡山城で見舞ったことがあります。
このことから大政所は、兄・秀吉だけではなく、弟・秀長とも仲が良かったと考えられます
豊臣秀長の母・なか(大政所)の死因 参考文献
豊臣秀長の母・なか(大政所)の死因や晩年にまつわる今回の記事は以下の文献を参考にしています。
- 柴裕之編著「豊臣秀長 シリーズ 織豊大名の研究」戎光祥出版 (2024年)
- 黒田基樹「羽柴秀吉とその一族」角川選書(2025年)
- 黒田基樹編著「羽柴秀吉一門 シリーズ 織豊大名の研究」戎光祥出版 (2024年)
「豊臣秀長」の柴裕之さんと、「羽柴秀吉とその一族」の黒田基樹さんは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。