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豊臣兄弟! 織田信孝の最後とは? 本能寺の変・山崎の戦い・清須会議・賤ヶ岳の戦いから見る信長の三男を解説

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大河ドラマ「豊臣兄弟!」では織田信孝(結木滉星)が登場します。

織田信孝(おだのぶたか)は織田信長の三男であり、本能寺の変山崎の戦い清須会議・賤ヶ岳の戦いなど、織田家の運命を左右した戦いや政治イベントのほぼ全てに関わった人物です。

特に本能寺の変後には「明智光秀討伐」の名目上の総大将となり、羽柴秀吉とともに山崎の戦いを経験しました。

▼ 織田信孝の要点まとめ

・織田信長の三男で庶子
・本能寺の変直前は四国攻め総大将に
・本能寺の変後に織田信澄を殺害
・山崎の戦いで光秀討伐の名目上の総大将に
・清須会議では三法師の後見人候補となる
・柴田勝家と協調して秀吉と対立
・賤ヶ岳の戦い後に自害

この記事では織田信孝の生涯と最期について解説します。

本能寺の変とは?
山崎の戦いとは?
清須会議とは?
→ 賤ヶ岳の戦いとは?(準備中)

目次

結論|織田信孝とは?

織田信孝は、織田信長の三男として生まれ、本能寺の変後には織田家再建の中心人物となった武将です。

▼ 織田信孝とは

・信長の三男で庶子
・本能寺の変直前は四国攻め総大将に
・本能寺の変後に織田信澄を殺害
・山崎の戦いで光秀討伐の名目上の総大将に
・清須会議で三法師の後見人候補となる
・柴田勝家と協調して秀吉と対立
・賤ヶ岳の戦い後に自害

「豊臣兄弟!」では27話「本能寺の変」から、賤ヶ岳の戦いの顛末が描かれる第33話「市の最期」にかけて重要人物として描かれる可能性があります。

本能寺の変とは?
山崎の戦いとは?
清須会議とは?
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豊臣兄弟!での織田信孝

「豊臣兄弟!」における織田信孝(結木滉星)も、

・本能寺の変
・山崎の戦い
・清須会議
・賤ヶ岳の戦い

というドラマにおける重要な出来事に全て関わる人物です。

本能寺の変: 27話「本能寺の変」と28話「急げ!秀吉」

27話「本能寺の変」において織田信孝(結木滉星)は、本能寺の変が起こる直前に、父・信長(小栗旬)から命じられて丹羽長秀(池田鉄洋)とともに四国の長宗我部元親(磯部寛之)を攻撃するよう命じられます。

しかし続く28話「急げ!秀吉」では、信孝は信長が本能寺の変において明智光秀(要潤)の襲撃を受けたことを知ります。

そのとき光秀の婿で、信長の甥でもある織田信澄(緒形敦)を殺害することに。

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山崎の戦い: 29話「天下への道」

29話「天下への道」において、織田信孝は山崎の戦いにおいて名目上の総大将に推挙されます。

実質的な総大将である羽柴秀吉(池松壮亮)は「謀反人の明智光秀を成敗する」という大義名分を世間に向かってアピールしたいからです。

なお、山崎の戦いののち、小一郎(仲野太賀)の息子・与一郎は戦のときに負った傷がもとで死去します。その傷は信孝を庇ったためにできた傷でした。

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清須会議: 30話「清須会議」と31話「これで、お別れにございます」

30話「清須会議」において織田信孝は、会議に出席した重臣たちから織田家当主・三法師の名代(後見人)候補として推挙されます。

しかし、最終的に信孝が名代に選ばれることはありません。当主・三法師の補佐は柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人の重臣たちが直接行うことになるからです。

しかし31話「これで、お別れにございます」において信孝は、三法師の身柄を岐阜城で預かり、いつまで経っても手放そうとしません。

この行動は羽柴秀吉の野心を刺激し、柴田勝家を巻き込んでの「信孝・勝家VS秀吉」という対立構造を深刻化させることになります。

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賤ヶ岳の戦い: 32話「賤ヶ岳の決闘」と33話「市の最期」

32話「賤ヶ岳の決闘」で信孝は三法師の身柄を秀吉に引き渡したものの、のちに岐阜城で挙兵。それに呼応する形で柴田勝家が越前から出兵し、羽柴・柴田の両軍が激突。

しかし33話「市の最期」において柴田勝家は「賤ヶ岳の戦い」で大敗し、北庄城で妻・お市とともに自害。信孝も戦いののちに自害させられることになります。

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柴田勝家の最期
お市の最期

織田信孝の生涯

織田信長の三男として誕生

織田信孝は1558(永禄元)年ごろに織田信長の三男として誕生。

母は側室・坂氏で兄の信忠と信雄と異なり、信孝は信長の庶流の子にあたります。

のちに神戸家を継いで伊勢国の一部を支配することになりました。

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有岡城の戦いにも出陣

信長公記」の記録によると、信孝は信長配下の武将の1人として、河内長島・加賀・越前・紀州雑賀など、畿内とその周辺各地を転戦していたことが分かります。

1578(天正6)年2月下旬に荒木村重が謀反を起こして有岡城に籠城した際には、兄の織田信忠と織田信雄とともに摂津の小野原で陣を構え包囲戦に参加していました。

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四国攻め総大将に任命される

1581(天正9)年に、信長は長宗我部元親との断交を宣言。

翌年の1581(天正9)年5月に信長は、信孝を総大将とする四国征伐を命令。

四国征伐の副将は丹羽長秀として、讃岐については信孝が奪った土地はそのまま自分の領地にしても良いという決定までなされていました。

そして軍勢のほとんどが四国に渡海し、あとは信孝と丹羽長秀が渡海するだけというときになって、京で天地を揺るがすほどの一大事が発生します。

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本能寺の変と織田信孝

本能寺の変後に織田信澄を処刑

1582(天正10)年6月2日早朝に、本能寺の変が発生。明智光秀によって信長・信忠父子が自害に追い込まれます。

四国渡海を控えていた信孝と丹羽長秀は、急遽行動を変更。大坂城の二の丸にいた織田信澄を攻撃し、殺害しました。

織田信澄は織田信長の甥でありながら、明智光秀の婿でもあるという特殊な立場です。そのため彼らは光秀の共謀を疑い、信澄を攻撃したと考えられます。

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山崎の戦いでの織田信孝

名目上の総大将として光秀討伐を命じる

本能寺の変後、羽柴秀吉は中国大返しによって備中高松から畿内へ帰還。6月12日には摂津と山城の国境にある摂津の富田(現在の大阪府高槻市)まで戻ってきました。

信孝はこの富田において羽柴秀吉の軍と合流。当時の信孝と丹羽長秀の軍勢の兵力は7,000程度だったと言われています。

信孝は庶子とは言えど信長の男子です。「謀反人の明智光秀を成敗する」という大義名分は十分にありました。

しかし山崎の戦いにおける、明智光秀の兵力は1万3,000から1万6,000程度だったことを考えると、信孝と丹羽長秀の軍勢だけでは勝ち目がありません。

そこで「中国大返し」で戻ってきた羽柴秀吉の助力を得ることで、明智光秀に対抗しようとしたと考えられています。

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清須会議と織田信孝

三法師の後見人候補となる

山崎の戦いの後、信長・信忠亡き後の織田家の運営体制を決める「清須会議」が開催されます。

「清須会議」における最大の議題は、当主・三法師の名代(後見人)を誰が務めるかということでした。

その候補者として推挙されたのが以下の2名です。

  1. 次男: 織田信雄
  2. 三男: 織田信孝

血統という点では、嫡流にあった兄・信雄の方が名代として相応しいでしょう。

しかし信孝は山崎の戦いにおいて名目上の総大将を務め、「謀反人の明智光秀を成敗した」という誰が見ても明らかな戦功がありました。

加えて織田信孝は、兄・信雄よりは覇気がある人物だったと言われています。

結局、「清須会議」では当主・三法師の名代を誰にするか、という問題は先送り。

織田家は柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興ら4人の重臣たちが、三法師を直接補佐するという「集団指導体制」によって運営されることになりました。

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賤ヶ岳の戦いと織田信孝

羽柴秀吉との対立が先鋭化

「清須会議」ののち三法師の居城は安土城に、信孝の居城は岐阜城と決まりました。

ところが「安土城は修復中である」と理由を盾に取って、信孝は三法師の身柄を岐阜城で預かり、手放そうとしません。

一方、信孝の行動を危険視した羽柴秀吉は山城国において山崎城を築き始めて、信孝の動きを牽制するようになります。

こうした織田家内部での政治的対立を見た柴田勝家は、信孝に味方するようになり、「信孝・勝家VS秀吉」という対立構造が先鋭化。

羽柴秀吉によるクーデターで完全に訣別

こうした織田家内部の政治的対立は、時間が経過するほど深刻化します。

1582(天正10)年10月15日に秀吉が京・大徳寺において、信長の五男・秀勝を喪主とする信長の葬儀を単独で強行。

さらに同10月28日には秀吉は、他の重臣である丹羽長秀・池田恒興らと語らって、三法師の後見体制を変更し、実質的に信雄中心の体制へ移行する決定を3人だけで下してしまいました。

つまり秀吉による「織田家乗っ取り」のクーデターです。

この決定により「信孝・勝家VS秀吉」の対立構造は、軍事的衝突に発展。

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岐阜城で挙兵し賤ヶ岳の戦いへ

1582(天正10)年 12月になると秀吉は岐阜城に向かって進軍し、武力でもって信孝に三法師の引き渡しを要求。

このときの信孝は秀吉の要求に応じて三法師を手放します。しかし、1583(天正11)年4月上旬、信孝は柴田勝家の挙兵に呼応する形で岐阜城において挙兵。

柴田勝家の挙兵に対応するため、北近江の柳ヶ瀬に進出していた羽柴秀吉は、自ら本隊を率いて美濃国の大柿(大垣)城に着陣。

秀吉が軍勢を岐阜方面に割いたことを見た柴田勝家は、甥・佐久間盛政に命じて賤ヶ岳にいる秀吉の部隊を攻撃します(賤ヶ岳の戦い)。

しかし秀吉の本隊は、佐久間盛政が自軍に攻撃を仕掛けたのち、わずか1日で賤ヶ岳の戦場にまで戻ってきました。

勝家も盛政も予想できなった秀吉の素早い軍事行動は「美濃大返し」とも言われ、賤ヶ岳の戦いで大勝するきっかけとなります。

→ 賤ヶ岳の戦いとは?なぜ柴田勝家は羽柴秀吉に大敗したのか?(準備中)

織田信孝はなぜ死んだ?

賤ヶ岳の戦いののち柴田勝家が自害

逆に賤ヶ岳の戦いで大敗した柴田勝家は、前田利家の裏切りにも遭い、北庄城まで撤退。

最終的に柴田勝家は、1583(天正11)年4月23日に北庄城の本丸において、妻・お市とともに自害することとなりました。

→ 前田利家はなぜ柴田勝家を裏切ったのか?(準備中)
柴田勝家の最期
お市の最期

織田信孝の最期(最後)

頼みの綱とした柴田勝家が自害してしまったことにより、信孝も岐阜城を開城。

戦後、信孝はその身柄を兄・信雄の領国である尾張に移送され、内海大御堂寺(野間大坊)の安養院において自害させられることになりました。享年26。

天正記」などの軍記物によると、信孝の辞世の句として

「たらちねの名をばくださじ梓弓いなばの山の露と消ゆとも」

という歌が残っています。

FAQ|織田信孝について

Q. 織田信孝は誰ですか?

A. 織田信長の三男で、本能寺の変後の織田家再建に関わった武将です。

Q. 織田信孝はなぜ織田信澄を殺害したのですか?

A. 本能寺の変直後、信澄は明智光秀の婿であったため共謀を疑われました。

そのため信孝と丹羽長秀は信澄を攻撃し、信澄は大坂城二の丸で自害に追い込まれたと考えられています。

Q. 織田信孝は山崎の戦いで何をしましたか?

A. 明智光秀討伐軍の名目上の総大将となりました。

Q. 織田信孝は清須会議でどうなりましたか?

A. 三法師の後見人候補となりましたが、最終的に秀吉が主導権を握りました。

Q. 織田信孝はなぜ死んだのですか?

A. 賤ヶ岳の戦い後に秀吉軍へ降伏し、自害しました。

Q. 織田信孝と柴田勝家の関係は?

A. 清須会議後に協力関係となり、秀吉に対抗しました。

織田信孝に関連する主な人物たち

織田信長と織田信忠: 本能寺の変で死亡

清須会議が開催された主な理由は本能寺の変で織田信長・信忠亡き後の織田家の運営体制を決めるためです。

織田信長はどうなる?本能寺の変で死亡する理由とその後
織田信忠の最期

明智光秀と織田信澄

織田信孝は、本能寺の変の首謀者である明智光秀と、その婿である織田信澄の共謀を疑っていたようです。

明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか?
織田信澄は本能寺の変に加担していたのか?

三法師: 清須会議における織田家の当主

三法師は織田信忠の嫡男で、信長から見ると嫡孫にあたります。

「清須会議」が開催された当時、わずか3才(満年齢にして2才)の幼児にしか過ぎませんでした。

→ 三法師(のちの織田秀信)とはどんな人物だったのか?(準備中)

織田信雄: 最終的に織田家の実質的当主に

清須会議が開催されたときは、ほとんど期待された人物ではありませんでしたが、羽柴秀吉がクーデターを起こしたのちに、織田家における実質的な当主となります。

→ 織田信雄とはどんな人物だったのか(準備中)

羽柴秀勝(於次丸): 信長葬儀の喪主

清須会議ののちに行われた信長の葬儀では信長の五男・羽柴秀勝が喪主を務めました。

秀勝は織田家における羽柴秀吉の正統性を象徴する人物として扱われています。

羽柴秀勝(於次丸)とは誰?豊臣秀吉・寧々の養子

柴田勝家: 賤ヶ岳の戦いで秀吉と激突

清須会議の体制が崩壊した後の最大の敗者とも言える人物です。

柴田勝家はどうなる?死亡の結末と敗北理由

お市: 勝家の妻として運命をともにする

清須会議において柴田勝家と織田家のつながりを強化することが決められました。

その証として柴田勝家は、信長の妹・お市との結婚することになります。

お市はなぜ柴田勝家と結婚したのか?

織田信孝に関連する歴史的事件

本能寺の変

1582(天正10)年6月2日、織田信長・信忠親子が明智光秀に討ち取られます。

もしどちらかでも生き残っていれば、そもそも清須会議は行われなかった可能性があるでしょう。

本能寺の変とは?

山崎の戦い

一般的に、1582(天正10)年6月13日に行われた山崎の戦いは、「羽柴秀吉VS明智光秀」による合戦と理解されています。

ただ羽柴勢における名目上の総大将は、信長の三男・織田信孝でした。

山崎の戦いにおいて羽柴秀吉とともに明智光秀に勝利したことが、清須会議以降、信孝の発言力が増すことにつながりました。

山崎の戦いとは?

清須会議

清須会議は1582(天正10)年6月27日に尾張国の清須城において、織田家の重臣たちの間で、信長亡き後の織田家の運営体制が話し合われました。

清須会議とは?

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦いは1583(天正11)年4月20日・21日にかけて行われました。

清須会議ののちに賤ヶ岳の戦いが行われたと理解されがちですが、その前にいくつもの政治的対立や軍事的衝突が存在しています。

賤ヶ岳の戦いの本質とは、「羽柴秀吉VS柴田勝家・織田信孝の最終決戦」という意味合いが強い戦いでした。

→ 賤ヶ岳の戦いとは?(準備中)

豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ

豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。

豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説

豊臣兄弟!最終回までのネタバレ

「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。

豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説

参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。

著:八津 弘幸, 編集:NHK出版, 監修:NHKドラマ制作班
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