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豊臣秀次 子孫 仙千代丸・百丸・十丸・土丸・露月院と姪の完子

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豊臣秀次の死後、子孫たちはどうなったのか?

豊臣秀次とは

豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1564~1595年)とは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で登場する豊臣秀吉池松壮亮)・豊臣秀長仲野太賀)兄弟の甥で、とも(宮澤エマ)にあたる瑞竜院殿日秀尼の長男です。

秀吉から1591(天正19)年12月28日に関白職と豊臣家の家督を譲られるも、秀吉の命令によって1595(文禄4)年7月15日に紀州の高野山において切腹を果たした人物としても知られています。

豊臣秀次の直系の子孫たちは「秀次切腹事件」でほぼ途絶える

寛永年間(1624年から1645年)に編纂された「聚楽物語」によると、豊臣秀次には仙千代丸(せんちよまる)・百丸(ひゃくまる)・十丸(じゅうまる)・土丸(つちまる)・露月院(ろげついん)という男子4人・女子1人の合計5人の子供たちがいたとされています。

しかしこれらの子供たちは、1595(文禄4)年7月15日に豊臣秀次が切腹を果たしたのち、秀次には秀吉への叛意があったことの連座として全員が捕えられ、同年8月2日に京・三条河原で処刑。

そのため豊臣秀次の子孫は途絶えてしまったと考えられています。

例外的に残ったお菊

豊臣秀次の子供たちは全て処刑されたとされる一方で、大阪府阪南市にある法福寺は通称「お菊寺」とも呼ばれ、秀次の側室の1人である小督局(おごうのつぼね)の間にできた、生後1ヶ月のお菊は処刑の難は免れたことを伝えています。

一般社団法人・阪南市観光協会の記事によると、その後お菊は後藤六兵衛興義の養女として育てられることになります。

やがて大きくなったお菊は、慶長20年(1615年)4月20日、紀伊の国の代官山口喜内の嫡男、山口兵内に嫁ぎました。しかし、その年大坂夏の陣が起こり、淡輪家・後藤家・山口家は豊臣方につきました。
 お菊の夫、山口兵内もわずか結婚5日目に大阪城に入りました。さらに、山口の城が敵軍に包囲されてしまい、援軍を求めるためにお菊は男装して密書を大坂城に届けます。無事大坂城にたどり着いたお菊でしたが、その帰りに樫井川で敵方に返書を奪われ、そのうえ道中山口の城が落ちたことを知り、養家の後藤家に身を隠します。
 その後、養父後藤興義の討ち死に、大坂城落城により夫も討ち死にしてしまいました。お菊も捕えられましたが、嫁いで間もないことなどから、敵方が助命しようとするも、お菊はこれを拒否し、紀ノ川の田井ノ瀬河原で斬首されました。お菊はこのときわずか20歳でした。

穴場スポット 法福寺(お菊寺)|阪南市の観光スポット|阪南市観光協会 公式ホームページ|BEACH & MOUNTAIN RESORT HANNAN

ただお菊と夫の山口兵内の間に子供がいたのかどうかについては触れられていません。

「秀次の娘」とされる隆清院について

隆清院とは

2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の第28回「受難」において、豊臣秀次(新納慎也)が独断で切腹したのち、秀次の娘である「たか」(岸井ゆきの)という女性が処刑を免れ、真田信繁(堺正幸)の手引きで呂宋(るそん。現在のフィリピン)に逃されます。

「真田丸」に登場する「たか」という女性は、隆清院(りゅうせいいん)のことを指しているのでしょう。

隆清院の子孫たち

Wikipediaで隆清院の記事を読むと、隆清院は真田信繁(幸村)と結婚しており、なほ(顕性院)という女子と三好幸信という男子を産んだとされています。つまりなほと三好幸信は豊臣秀次の孫にあたることになります。

特になほは出羽亀田藩の2代藩主・岩城宣隆の側室として岩城重隆を産んでいるため、豊臣秀次には子孫が続いていたということになります。

隆清院の母親は誰なのか?

ただ問題は隆清院の母親とは秀次の側室のうち誰であるのかよく分からない点です。

Wikipediaで隆清院の記事を読むと、母親は豊臣秀次の正室・一の台であるとしています(2025年11月20日時点)。

しかし「信長公記」の著者である太田牛一が記した「太閤さま軍記のうち(大かうさまくんきのうち)」によると、一の台の娘は「おみや」という娘で秀次の側室として処刑されたことになっています。

ちなみに2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんは、「羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究)」の編著をされていて豊臣秀次やその業績に関する論文をまとめています。

しかしこの本の中で黒田基樹さんをはじめとした研究者の方々は、隆清院やおみやといった女性について一切言及されていません。

豊臣秀次の傍系の子孫たち

豊臣秀次の兄弟たち

隆清院が豊臣秀次の実の娘であれば、秀次の子孫は生き残ったと考えられますが、母親が誰であるかよく分からないという問題が残ります。ひょっとすると豊臣秀次の子孫は孫の世代以降は残らなかったのかもしれません。

ただ豊臣秀次には2人の兄弟である豊臣秀勝豊臣秀保がいました。特に豊臣秀勝は江(ごう)と結婚して2人の女子をもうけ、そのうちの1人が完子(さだこ)であり、完子が長く豊臣家の血筋を残すことになります。

つまり豊臣秀次は直系の子孫を残せなかった可能性が高いものの、傍系の方で子孫が残っているのです。

「豊臣秀勝・完子」の家系が長く子孫を残す

その完子は1604(慶長9)年に五摂家の1つである九条家の九条忠栄と結婚して女子2名を出産。成等院(じょうとういん)は東本願寺宣如の妻となり、貞梁院(じょうりょういん)は西本願寺良如の妻となります。

豊臣秀次・豊臣秀勝・江・完子らの関係を家系図で表すと以下の通りです。

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秀次 子孫 関連記事と参考文献

豊臣秀次 子孫 関連記事

豊臣秀次の子供や姪にあたる豊臣完子については以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

豊臣秀次 子孫 参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。

戎光祥出版
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著:小和田 哲男
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