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小堀正次(小堀新介) 秀長の家臣 検地奉行として財政を管理

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目次

小堀正次の名前について

小堀正次とは

小堀正次(こぼりまさつぐ)(1540~1604年)は2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長仲野太賀)の家臣の1人です。

小堀正次は、豊臣秀長が領国とした国(但馬和泉・紀伊・大和など)で検地奉行を務め、土地ごとの収穫量と課税額を確定させたのちに、家臣や寺社に対して所領の引き渡しを行っていたことが分かっています

各国の税収に明るいことから、小堀正次は「豊臣秀長ファミリー」の財政管理もしていたと見てよいでしょう。

小堀正次の名前

小堀正次は実名が「正次」で通称が「新介(しんすけ)」です。「羽柴秀長とその家臣たち」によると、小堀正次は一時期、「木下小一郎長秀(豊臣秀長のこと)」の偏諱から「秀言」を名乗っていたと説明されています。

小堀正次の出自と家族

小堀正次の出自

小堀正次は浅井家家臣の小堀正房と北近江の戦国大名・浅井家一族の浅井新兵衛尉の娘を、それぞれに父母として持ち、1540(天文9)年に誕生します。

ちなみに豊臣秀長も1540(天文9)年生まれなので、小堀正次は豊臣秀長は同い年です。

小堀正次の家族

小堀正次の妻は2人はいたとされ、1人は浅井家重臣だった磯野員昌の娘と、もう1人は秀長家臣の横浜良慶の娘です。前者の女性との間には正一(政一)を、後者の女性との間には正春をもうけています。

ここでいう「正一」とは安土桃山時代から江戸時代前半にかけて活躍した、茶人の小堀遠州(小堀正一または政一)のことです。

豊臣秀長の検地奉行・小堀正次の役割

検地奉行・小堀正次の経歴

冒頭で述べたように小堀正次が豊臣秀長の領国で検地や所領の確定業務に従事していたという記録は、1583(天正11)年9月から始まっています。

正次の主な「業務記録」を「羽柴秀長とその家臣たち」に基づいて年表形式にすると以下の通りとなります。

スクロールできます
西暦(和暦)出来事
1583(天正11)年9月播磨国多可郡・加東郡で所領確定と寺社領の給付業務に従事(1584年9月まで)
1585(天正13)年閏8月9日秀長が紀伊国各村に正次が検地奉行として派遣することを通知
1585(天正13)年閏8月11日和泉国瓦屋庄(現在の泉佐野市)で政所役(年貢納入の責任者)を任命
1586(天正14)年2月大和国・興福寺で寺領指出の徴税と寺領帳の交付(同年10月まで)
1586(天正14)年5月4日横浜良慶とともに大和国郡山の町衆から1貫文の進上を受ける
1586(天正14)年9月大和国で丈量検地を行う(1587年10月まで)
1586(天正14)年11月13日・15日大和国十津川郷の玉置山に検地免除を通知
1586(天正14)年11月17日大和国・法隆寺に対して寺領を加増する旨の通知を出す
1590年(天正18)年4月17日秀長からの作事の褒美として興福寺吉祥院に対して米10石・大豆20石を支給

丈量検地と小堀正次

なお年表にある「丈量検地(じょうりょうけんち)」とは検地奉行やその下に属する役人が課税対象となる田畑まで実際に出向き、現地での測量に基づき収穫量と課税額を判断することを指します。

その反対のケースが「指出検地(さしだしけんち)」と呼ばれるもので、役人は土地の測量などはせず、土地の所有者が自主的に収穫量を申告します。

小堀正次は1586(天正14)年に大和国で「丈量検地」を行っています。秀長は中世以来、寺社領と武家領が錯綜し「難治の地」と呼ばれた大和国を統治するにあたって、正次のこうした検地の能力に期待していたに違いないでしょう。

秀長側近として家臣団からの取次も行う

「検地奉行」として知られる小堀正次ですが、秀長の側近家臣として仕え、秀長の他の家臣から上申される意見などを取り次いでいた形跡も見られます。

その例の1つが1588(天正16)年10月に青木重吉杉若無心によって行われた熊野地方北山地域の赦免申請の取次です。

青木重吉・杉若無心の上申は秀長によって却下された

このとき青木重吉・杉若無心は大和国の十津川方面から、最後まで秀長の統治に反抗する紀伊国熊野地方の北山地域に進軍していました。

当時、十津川と北山は親密な関係を形成しており、十津川で検地が免除されることを聞いて、北山地域の村落は進軍してきた青木と杉若に対して赦免を要請したものと考えられています。

しかし小堀正次が取り次いだ、杉若と青木の赦免申請は却下。却下された理由はよく分かりません。

当時、秀長は紀州最奥部にある北山地域の平定に手を焼いており、「穏やかな人格」と称された秀長をもってしても許せない気持ちがあったのではないでしょうか。

郡山で秀長の経済政策を横浜良慶とともに実行

さらに秀長は大和郡山を本拠地とはしていたものの、外交や軍事に忙しく京都や九州に出張していることが多く、あまり国元に在国していません。

その間、特に郡山の内政を担ったのが横浜良慶と小堀正次です。

その証拠を示す文書が「春岳院文書」に残されています。「春岳院文書」によると、1592(文禄元)年に豊臣秀保が郡山町衆に対する命令を出し、横浜良慶と小堀正次が連署をしているという体裁をとっています。

以上、
其町中地子之事、自当年可被成御免之旨被仰出候、可成其意候。猶帰候て様子可聞候。謹言。
八月廿三日
一晏法印
良慶(花押)
小堀新介
正次(花押)
郡山町中

柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版 370ページ

(現代語訳)
以上、
(郡山の)町中の地子(=土地税)の件については、今年から免除とするようにとの御沙汰があった。
したがって、その趣旨に従って処理するように。
なお、帰ってからその様子を詳しく伺うつもりである。
謹んで申し上げる。
8月23日
横浜一晏法印良慶(花押)
小堀新介正次(花押)
郡山町中

「地子」とは「屋地子(やじし)」とも言われ、土地にかかる税金で現代で言うところの「固定資産税」のような税金のことでしょう。

「春岳院文書」からは「屋地子」を課税免除することで郡山の負担を減らし城下町を繁栄をさせたいという豊臣秀長の政策意図が見られ、その政策を実行していたのは横浜良慶と小堀正次であったことが分かります。

秀長死後の小堀正次の動向

秀長の家系が断絶したのちも検地奉行を務めた

1591(天正19)年1月21日、豊臣秀長が大和郡山城で病死したのちも、小堀正次は上述した文書に見られるように後継者の豊臣秀保に仕えていたようです。

しかし後継者であったはずの豊臣秀保も1595(文禄4)年3月ごろから病気を患うようになり、大和国の十津川で療養をしていましたが、同年4月16日に死去。

かつての秀長の家臣がそうであったように、小堀正次も豊臣秀吉の直臣に転じ、それまでの2,000石の知行から3,000石を加増されて合計5,000石の知行を有することに。

同年の8月から9月にかけて新たに大和郡山20万石の領主となった増田長盛の検地奉行の一人を務めるようになります。

徳川家康の治世では村落統治に関する役割を与えられていた

その後、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは小堀正次は徳川家康率いる東軍に味方。戦後に備中松山で1万5,000石の所領が安堵。

家康のもとで近江や備前における村落統治を任される役割につきますが、1604(慶長9)年に江戸に出府する途中の相模藤沢で急死します。享年65。

小堀正次 関連記事と参考文献

小堀正次 関連記事

豊臣秀長・豊臣秀保の二代にわたって「検地奉行」として活躍した小堀正次に関しては以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

小堀正次 参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。これら著作の著者のうち、柴裕之さんと黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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