大河ドラマ「豊臣兄弟!」で緒方敦さん演じる織田信澄(津田信澄)は、本能寺の変の直後に織田信孝と丹羽長秀によって殺害されました。
織田信澄は織田信孝と丹羽長秀に明智光秀の謀反に加担したことを疑われたためです。
しかし、織田信澄が本当に舅・明智光秀の謀反に加担していたことを示す確かな史料は確認されていません。
▼要点まとめ
・織田信澄の死因は、本能寺の変の直後に織田信孝・丹羽長秀の攻撃を受けて討たれたこと
・明智光秀の娘婿であったことから謀反への関与を疑われた
・本当に光秀に加担していたことを示す確かな史料は確認されていない
→ 本能寺の変とは?
→ 豊臣兄弟! 織田信澄(緒形敦)とは?
→ 明智光秀とは? 織田信澄の舅
→ 織田信孝とは?織田信長の三男
→ 丹羽長秀とは?織田信長の重臣
結論|織田信澄の死因と最後
織田信澄の死因は、本能寺の変の直後に織田信孝と丹羽長秀が派遣した軍勢の攻撃を受けて討たれたことです。
1582(天正10)年6月2日に発生した本能寺の変の直後、織田信澄は明智光秀の娘婿という立場から織田信孝と丹羽長秀の両名に謀反への関与を疑われました。
織田信孝と丹羽長秀は、四国攻めのために集めていた兵を急遽、大坂城に派遣。一説によると、大坂城二の丸千貫櫓にいた織田信澄を丹羽長秀の重臣・上田重安が討ち取ったと伝わっています。
ただし当時の史料からは、信澄自身が本能寺の変に加担していたことを示す確かな証拠は確認されていません。
そのため織田信澄は、本能寺の変最大の巻き添えとなった武将の一人とも考えられています。
→ 本能寺の変とは?
→ 豊臣兄弟! 織田信澄(緒形敦)とは?
→ 明智光秀とは? 織田信澄の舅
→ 織田信孝とは?織田信長の三男
→ 丹羽長秀とは?織田信長の重臣
織田信澄はなぜ討たれたのか?
本能寺の変によって立場が一変
1582(天正10)年6月2日早朝、本能寺の変が発生しました。
この時、織田信澄は大坂城で四国攻めの準備を進めていました。
ところが義父である明智光秀が織田信長を討ったことで状況は一変します。
信澄は光秀の娘婿であったため、事件への関与を疑われる立場となりました。
しかし現在確認できる史料からは、信澄が光秀と共謀していたことを裏付ける確かな証拠は見つかっていません。
→ 本能寺の変とは?
→ 織田信長の最期とその後
→ 明智光秀とは? 織田信澄の舅
織田信孝と丹羽長秀が攻撃を決断
当時の大坂には、四国の長宗我部元親を攻めるため、総大将・織田信孝と副将・丹羽長秀が滞在していました。
四国へ渡海する直前に本能寺の変の報を受けた両者は、光秀の娘婿である信澄を危険視したと考えられます。
國學院大学名誉教授の故・桑田忠親氏の「豊臣秀吉研究 上」では、信孝と丹羽長秀が「大坂城二の丸千貫櫓にいた津田信澄(織田信澄のこと)を攻撃した」と記されていますが、攻撃を決断した具体的な理由については詳しく述べられていません。
一方で、当時の混乱した情勢を考えると、光秀との内応を警戒して先手を打った可能性が高いと考えられます。
織田信澄の死因
織田信澄の死因は、織田信孝・丹羽長秀方による攻撃を受けて討たれたことです。
Wikipediaでは、丹羽長秀の家臣・上田重安によって討ち取られたと説明されています。
一方、「豊臣秀吉研究 上」では「奇襲されて殺害された」と記され、堺屋太一氏の「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」でも「攻め殺された」と描写されるのみで、討ち取った人物については触れられていません。
このように細部には違いが見られるものの、本能寺の変直後に信孝・長秀方の攻撃を受けて命を落としたという点は共通しています。
織田信澄の最後
織田信澄の最後は、本能寺の変が発生したその日に織田信孝と丹羽長秀の軍勢に攻められ、命を落としたことです。
討ち取った人物や最期の細かな経緯には史料によって違いがありますが、光秀の娘婿という立場が悲劇を招いた点は共通しています。
大坂城二の丸に在城していた
本能寺の変が発生した当時、織田信澄は大坂城二の丸の千貫櫓にいました。
信長の死を知った織田信孝と丹羽長秀は、四国攻めのために集めていた軍勢を大坂城へ向け、信澄を包囲します。
「豊臣秀吉研究 上」では、信孝と丹羽長秀が千貫櫓にいた信澄を攻撃したことが記されています。
上田重安に討ち取られたという説
Wikipediaでは、信澄は丹羽長秀の家臣・上田重安によって討ち取られたと説明されています。
一方、「豊臣秀吉研究 上」では「奇襲されて殺害された」、堺屋太一氏の「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」では「攻め殺された」と記されるのみで、討ち取った人物については触れられていません。
首は堺に晒され山崎の戦いへ
Wikipediaによると、討ち取られた信澄の首は織田信孝の命によって堺の町外れに晒されましたと説明されています。
その後、信孝と丹羽長秀は摂津国富田で羽柴秀吉軍と合流。山崎の戦いでは信孝が名目上の総大将として明智光秀と対峙することになります。
織田信澄は本当に謀反に加担していたのか?
現在確認できる史料からは、織田信澄が本能寺の変に加担していたことを示す確かな証拠は確認されていません。
そのため、織田信澄は光秀の娘婿という立場から疑われ、本能寺の変の巻き添えになった可能性が高いと考えられています。
共謀を裏付ける史料は見つかっていない
上述した桑田忠親氏の「豊臣秀吉研究 上」では、織田信孝と丹羽長秀が信澄を攻撃した事実は記されています。
しかし、信澄が明智光秀と共謀していたことについては言及されていません。
現在確認できる史料からも、信澄が本能寺の変に積極的に関与していたことを示す証拠は見つかっていません。
娘婿という立場が疑いを招いた可能性
信澄は明智光秀の娘婿でした。
さらに、織田信長の弟・織田信勝(信行)の子という立場でもありました。
本能寺の変直後の混乱の中で、信孝と丹羽長秀は光秀との内応を警戒し、先手を打って信澄を討った可能性があります。
そのため織田信澄は、本能寺の変最大の巻き添え被害者の一人であったとも考えられています。
織田信澄の死後|遺領は丹羽長秀へ
信澄の死によって、近江高島郡の所領は空白となりました。
その後、1582(天正10)年6月27日の清須会議で行われた論功行賞により、この高島郡は丹羽長秀へ与えられます。
信澄の死は一人の武将の最期にとどまらず、本能寺の変後に織田家の勢力図が大きく変化していく象徴的な出来事でもありました。
豊臣兄弟!における織田信澄の最後・死因
26話「信長を笑わせろ」
26話「信長を笑わせろ」では、四国政策を巡る対立の中で織田信澄(緒形敦)は、信長から長宗我部元親(礒部寛之)との内通しているという疑いをかけられることに。
信澄の舅・明智光秀(要潤)から相談を受けた羽柴秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)が、織田信長(小栗旬)を笑わせて赦免されたものの、実は「信長を討ち取れ」という密書は信澄が偽造した書状でした。
27話「本能寺の変」
27話「本能寺の変」において信長が安土城で徳川家康(松下洸平)をもてなすための宴会が開かられます。
ところがその宴会で出された鯉の煮付け料理に毒が入っていることが発覚。
信長は饗応役の光秀を激しく殴りつけますが、結局、真犯人が誰であるかは分かりません。
しかし26話が放送終了したのちに公開された27話の予告編動画では、徳川家康と接触する場面も映されており、ドラマ独自の解釈で本能寺の変への関与が描かれる可能性があります。
28話「天下への道」
28話「急げ!秀吉」のあらすじでは、信澄が決起して光秀と合流しようとする展開が示されています。
史実において織田信澄が本能寺の変に関与したかどうか明らかではありません。
しかしドラマでは明智光秀の謀反に呼応して行動する人物として描かれる可能性があります。
織田信澄の最後・死因に関するFAQ
Q. 織田信澄の死因は何ですか?
A. 織田信澄の死因は、1582(天正10)年6月2日の本能寺の変直後、織田信孝と丹羽長秀の軍勢に攻撃され、討ち取られたことです。
一説では丹羽長秀の家臣・上田重安が討ち取ったと伝えられています。
Q. 織田信澄はなぜ殺されたのですか?
A. 明智光秀の娘婿であったことから、本能寺の変への関与を疑われた可能性があります。
ただし、信澄が実際に光秀と共謀していたことを示す確かな史料は確認されていません。
Q. 織田信澄は本当に本能寺の変に加担していたのでしょうか?
A. 現在確認できる史料からは、織田信澄が本能寺の変に加担していたことを裏付ける決定的な証拠は見つかっていません。
そのため、光秀の娘婿という立場から疑われ、巻き添えになった可能性が高いと考えられています。
Q. 織田信澄の最後はどのようなものだったのでしょうか?
A. 本能寺の変が発生した当日、大坂城二の丸千貫櫓にいた織田信澄は、織田信孝と丹羽長秀の軍勢に攻撃され討たれました。
Wikipediaでは、その首は織田信孝の命により堺の町外れに晒されたとされています。
Q. 織田信澄の死後、領地はどうなりましたか?
A. 織田信澄の死後、近江高島郡の領地は空白となりました。
その後、1582(天正10)年6月27日の清須会議で行われた論功行賞により、高島郡は丹羽長秀に与えられました。
織田信澄 最後・死因に関連する人物たち
織田信澄: 織田信長の甥
織田信澄は織田信長の甥です。信長の弟・織田信勝(信行)の息子でした。
→ 織田信澄とは?
明智光秀: 織田信澄の舅
明智光秀は織田信澄の舅にあたります。
織田信孝: 信澄を殺害
織田信孝は織田信澄の従兄弟にあたります。本能寺の変の直前は四国攻めの総大将の任にありました。
丹羽長秀: 信澄を殺害
丹羽長秀は織田信長の重臣です。本能寺の変の直前は四国攻めの副将の任にありました。
織田信澄 最後・死因に関連する歴史的事件
本能寺の変
本能寺の変は1582(天正10)年6月2日早朝に織田信長が重臣・明智光秀に襲撃され、自害に追い込まれた事件です。
日本史上でも屈指の政治クーデターとして知られています。
→ 本能寺の変とは?
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 柴裕之(編著)豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 黒田基樹 羽柴秀長と藤堂高虎 NHK出版新書
- 堺屋太一 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)
