大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する池田恒興(いけだつねおき)は、織田信長の乳兄弟として知られる戦国武将です。
本能寺の変後は羽柴秀吉に味方し、山崎の戦い・清須会議に参加。柴田勝家や織田信孝と対立する秀吉陣営の中心人物として活躍しました。
池田恒興は豊臣政権の成立に大きく貢献しますが、最終的には1584(天正12)年の長久手の戦いで討死することになります。
▼ 要点まとめ
・池田恒興は織田信長の乳兄弟
・本能寺の変後は羽柴秀吉に味方
・山崎の戦いで明智光秀討伐に参加
・清須会議ののち秀吉を支持
・最期は小牧長久手の戦いで戦死
→ 本能寺の変とは?信長を討った明智光秀の謀反を解説
→ 山崎の戦いとは?秀吉が明智光秀を討った決戦を解説
→ 清須会議とは?何が決められたのかを解説
→ 小牧長久手の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説(準備中)
結論|池田恒興とは?
池田恒興とは、織田信長の乳兄弟として知られる織田家重臣の1人です。
本能寺の変後は羽柴秀吉に協力し、
・山崎の戦い
・清須会議
などで秀吉陣営の中心人物として活躍しました。
「豊臣兄弟!」では30話「清須会議」以降において、羽柴秀吉を支える重臣として重要な役割を果たします。
なお、池田恒興の最期は1584(天正12)年3月から始まった小牧・長久手の戦いにおける戦死です。
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豊臣兄弟!での池田恒興
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では堀井新太さんが池田恒興を演じています。
清須会議において新しい運営体制が決まった織田家において、羽柴秀吉を支持する重臣の一人として描かれます。
30話「清須会議」
30話「清須会議」において、当主・三法師をどのように支えるべきかを決める清須会議が開催されます。
・柴田勝家
・羽柴秀吉
・丹羽長秀
・池田恒興
の4名が織田家の重臣として出席。
会議における池田恒興(堀井新太)の狙いは摂津国を自分の領地として認めてもらうことです。
恒興の狙いを知った小一郎(仲野太賀)を通して知った羽柴秀吉(池松壮亮)は、摂津が恒興の領地とする代わりに、自分の意見を支持するよう持ちかけます。
→ 清須会議とは?何が決められたのかを解説
→ 三法師とは?清須会議で決まった織田家の新しい当主
→ 豊臣兄弟!30話「清須会議」あらすじ
31話「これで、お別れにございます」
31話「これで、お別れにございます」になると、織田家において羽柴秀吉の独断専行が目に余るようになります。
これに対してライバル・柴田勝家(山口馬木也)は信長の三男である織田信孝(結木滉星)に味方。
丹羽長秀(池田鉄洋)や池田恒興も勝家と同じく秀吉の専横を苦々しく思いながら、最後には秀吉の味方につく決断を下すのでした。
池田恒興が最終的に秀吉の支持に回る過程も31話の見どころとなりそうです。
豊臣兄弟! 34話以降の池田恒興
「豊臣兄弟!」の34話以降において、羽柴秀吉と織田信雄(山脇辰哉)と徳川家康(松下洸平)の連合軍が対峙する小牧長久手の戦いが描かれることになっています。
史実の池田恒興は小牧長久手の戦いでは羽柴勢として参加し、1584(天正12)4月9日の「三河中入り作戦」の実行中において戦死しました。
このことから「豊臣兄弟!」の池田恒興も34話以降で、討死することが予想されます。
池田恒興と織田信長の関係
信長の乳兄弟だった
池田恒興を語る上で欠かせないのが織田信長との関係です。
恒興の母・養徳院は信長の乳母を務めていました。
そのため恒興は幼少期から信長とともに育ち、「乳兄弟」と呼ばれる特別な関係にありました。
織田家の譜代重臣として活躍
池田恒興は若い頃から信長に仕え「桶狭間の戦い」をはじめとして、美濃・伊勢・近江などを転戦。
「信長公記」を読むと、池田恒興が各地での戦に従軍していたことが分かります。
有岡城の戦いにも従軍: 摂津国領有の始まり
1578(天正6)年10月下旬、荒木村重が織田信長に反旗を翻して摂津の有岡城に籠城すると、池田恒興も有岡城攻めに参加。
翌年の1579(天正7)年9月2日に荒木村重が尼崎城へ、さらに花熊城へ逃亡すると、池田恒興はその後を追って、1580(天正8)年7月に2つの城を攻略しました。
その恩賞として池田恒興には有岡城が与えられることになります。
後述する「清須会議」の結果、池田恒興は摂津でも時に西の地域において所領を拡大することになります。
実は池田恒興と摂津国の関係は、荒木村重が織田信長を裏切った頃から始まっていたと考えられるでしょう。
→ 荒木村重はなぜ織田信長を裏切ったのか?
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池田恒興と本能寺の変
摂津において信長の死を知る
1582(天正10)年6月2日早朝、京において本能寺の変が発生。
事件が発生した当時、池田恒興は摂津に在国。信長は備中高松城に出陣する途上にあり、恒興も信長とともに備中高松に出陣することが命じられていました。
そのため恒興は摂津において、毛利攻めに従事する羽柴秀吉の援軍となるべく、出陣の準備に追われていたと考えられます。
池田恒興は本能寺の変そのものには居合わせていませんが、信長の死後はただちに羽柴秀吉と行動をともにし、明智光秀討伐へ向かいました。
→ 織田信長はなぜ明智光秀に裏切られたのか?
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中国大返しの羽柴秀吉と尼崎で合流
羽柴秀吉は事件が起きたわずか2日後の同年6月4日、備中高松において毛利勢の小早川隆景や吉川元春らと和睦。
6月11日には「中国大返し」によって摂津の尼崎城まで戻ってきました。恒興はこの尼崎の地において、羽柴勢と合流。
池田恒興と山崎の戦い
羽柴勢の第二陣として山崎の戦いに参戦
池田恒興は山崎の戦いにおいて羽柴勢の一員として参陣。
尼崎で羽柴秀吉に合流した池田恒興は、6月12日に行われた摂津の富田で開かれた軍議にも参加していたと考えられます。
翌日の6月13日に行われた山崎の戦いにおいて、恒興は羽柴勢の第二陣として、木村隼人・中村一氏・加藤光泰らともに出陣。
明智勢の側面を攻撃
13日の午後4時ごろから始まった山崎の戦いは、緒戦において羽柴勢の先鋒・中川清秀と高山右近が、明智勢の斎藤利三らに苦戦を強いられます。
しかし、羽柴勢の第一陣である羽柴小一郎長秀と黒田官兵衛が天王山で戦線を支えている間に、羽柴勢の第二陣が主戦場に到着。形勢は次第に明智勢から羽柴勢の有利に変わっていきました。
このとき羽柴勢の第二陣として出撃した池田恒興は山崎の東側に展開し、明智勢の左側面を突く活躍をしたと言われています。
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池田恒興と清須会議
なぜ秀吉を支持したのか?
6月13日の山崎の戦いのち、6月27日の清須会議の時期にかけても、池田恒興は羽柴秀吉に対して協力的な態度を示したと考えられます。
なぜ恒興は秀吉に支持する立場になったのでしょうか?
この点について豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学名誉教授の故・桑田忠親氏の著作である「豊臣秀吉研究 上」は、明らかにしていません。
ただし大河ドラマ「豊臣兄弟!」のあらすじや、堺屋太一氏の小説「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」の記述を参考にすると、秀吉は恒興による西摂津の領有を認めたため、恒興は秀吉に協力的な態度を示した考えられます。
上述したように池田恒興は、すでに有岡城の戦いにおいて伊丹・尼崎・花熊と摂津国でも特に西の地域を転戦。さらに中西新八郎など荒木村重の与力武将を自分の与力にしていました。
こうした縁から恒興は摂津に執着があり、秀吉がその領有を認めたからこそ、秀吉に味方するようになったと推測できるでしょう。
→ 荒木村重はなぜ織田信長を裏切ったのか?
→ 有岡城の戦い(有岡城事件)とは?
当主・三法師を直接補佐する重臣の一人に
1582(天正10)年に尾張国の清須城で開催された「清須会議」の最大の議題は、信長の嫡孫である当主・三法師をどのように支えるかでした。
会議の結果、当主・三法師には叔父の織田信雄や織田信孝による名代(後見人)を置くことなく、4人の重臣が三法師を直接補佐することで運営されることが決まりました。
その4人の重臣とは、
・柴田勝家
・羽柴秀吉
・丹羽長秀
・池田恒興
のことであり、池田恒興は末席ながら織田家において最高指導者の一人となったのです。
→ 清須会議とは?何が決められたのかを解説
→ 三法師とは?織田信長の嫡孫で織田信忠の嫡男
→ 織田信雄とは?織田信長の次男で三法師の名代候補の1人
→ 織田信孝とは?織田信長の三男で三法師の名代候補の1人
領地分配では摂津の西半分を領有
清須会議では織田家の運営体制の他にも、山崎の戦いの論功行賞も行われました。
当初の望み通り、池田恒興は摂津国の西半分を領有することが認められます。
その結果、池田恒興は大坂城に、長男・元助は伊丹城(有岡城)に、次男・照政は兵庫城にそれぞれ移ることになりました。
羽柴秀吉の政治クーデターにも同調
清須会議で織田家の新しい運営体制が決まりましたが、次第に羽柴秀吉の専横が目立つようになります。
柴田勝家はこうした秀吉の動きに強い反発を示しますが、丹羽長秀・池田恒興の2名は秀吉に同調
清須会議が行われた約4ヶ月後である1582(天正10)年10月28日、羽柴秀吉は政治的クーデターを実行。
織田家の当主は三法師であったにも関わらず、この体制を骨抜きにして、信長の次男である織田信雄が実質的な当主となる体制に転換しました。
このクーデターには丹羽長秀と池田恒興も参加。この時点で池田恒興は完全に「秀吉派の織田家重臣」であったと言って良いでしょう。
池田恒興と豊臣秀吉(羽柴秀吉)
秀吉政権成立を支えた重臣
このように池田恒興は本能寺の変の後、一貫して羽柴秀吉に対して協力的な姿勢を示してきました。
1583(天正11)年4月24日に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に大敗して殲滅されたのち、羽柴秀吉は主家の織田家を凌ぐ勢力となり、「豊臣政権」樹立への道を歩むこととなります。
その政権が樹立する過程において、池田恒興の貢献は大きかったと言えるでしょう。
大坂の地を秀吉に明け渡す
さらに羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家とその一族を殲滅すると、実質的に「織田家No.1」の実力者となります。
秀吉は自らの権威を高めるために、「織田家の政庁」という機能を持った安土城を凌ぐ城を摂津の大坂に築くことを構想。
そのさい池田恒興は摂津の所領を秀吉に明け渡し、一族とともに美濃国の大柿(大垣)に国替えをしてもらったようです。
池田恒興の娘が豊臣秀次の正室・若政所に
また池田恒興と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は親戚関係にもあります。
池田恒興の娘たちのうち1人は実名(じつみょう)が不明ながら「若政所(わかまんどころ)」と呼ばれ、羽柴秀吉の甥・三好信吉(のちの羽柴秀次、豊臣秀次)の正室として1583(天正11)年ごろに結婚していたと考えられています。
こうした親戚関係は池田恒興と羽柴秀吉の絆をより深めることになったでしょう。
→ 羽柴秀次とは豊臣秀次のこと 豊臣秀吉の甥
→ 若政所とは?豊臣秀次の正室
池田恒興の最期
小牧長久手の戦いに出陣
池田恒興の最期は1584(天正12)年3月から11月にかけて行われた小牧・長久手の戦いの最中の出来事でした。
羽柴秀吉が織田信雄・徳川家康の連合軍と戦う中で、池田恒興は羽柴勢として一隊を率いて出陣。
池田恒興は長久手の戦いで討死
4月9日に行われた長久手の戦いにおいて、三好信吉(のちの羽柴秀次・豊臣秀次)・池田恒興・森長可らが、別働隊を率いて三河に侵攻しようとしたところ、逆に徳川家康・井伊直政らに動きを読まれて苦戦。
結局、このときの羽柴勢の別働隊は
・池田恒興
・池田元助
・森長可
ら3名の大将を戦死させるという大敗北を喫することになりました。
FAQ|池田恒興
Q. 池田恒興とは誰ですか?
A. 織田信長の乳兄弟として知られる織田家重臣です。
Q. 池田恒興と信長の関係は?
A. 恒興の母が信長の乳母だったため、乳兄弟の関係でした。
Q. 池田恒興は本能寺の変で何をしたのですか?
A. 本能寺の変後に羽柴秀吉へ協力し、山崎の戦いにおいて明智光秀の討伐に参加しました。
Q. 池田恒興はなぜ秀吉を支持したのですか?
A. 山崎の戦いののち、秀吉が池田恒興に大坂・伊丹・兵庫など摂津の西半分の領有を認めたため支持をするようになったと考えられます。
Q. 池田恒興はなぜ秀吉に味方したのですか?
A. 本能寺の変後に山崎の戦いで秀吉と協力したことに加え、清須会議で摂津国の所領を認められたことも理由の一つと考えられています。
Q. 池田恒興の死因は何ですか?
A. 小牧・長久手の戦いにおける戦死です。
Q. 池田恒興はいつ死んだのですか?
A. 1584(天正12)年4月9日に長久手の戦いで討死しました。
池田恒興に関連する人物たち
織田信長: 池田恒興の最初の主君
織田信長は池田恒興の乳兄弟であり主君でした。
明智光秀: 本能寺の変の首謀者
明智光秀は本能寺の変の首謀者で、池田恒興の主君・織田信長を自害に追い込みました。
池田恒興は本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智光秀討伐軍に参加しました。
柴田勝家: 清須会議ののち秀吉・恒興と対立
柴田勝家は清須会議ののち羽柴秀吉と激しく対立した重臣です。
秀吉を支持していた恒興にとって、勝家とは間接的に対立していたと言えるでしょう。
丹羽長秀: 清須会議ののち恒興とともに秀吉を支持
丹羽長秀は、清須会議ののち、池田恒興とともに秀吉支持に回った重臣です。
三好信吉(のちの羽柴秀次・豊臣秀次): 恒興の婿
三好信吉とは、のちの羽柴秀次・豊臣秀次であり、池田恒興の婿にあたります。
若政所: 池田恒興の娘
若政所(わかまんどころ)は、池田恒興の娘で三好信吉の正室です。
池田恒興に関連する歴史的事件
本能寺の変
本能寺の変は1582(天正10)年6月2日早朝に織田信長が明智光秀に討たれた事件です。
山崎の戦い
山崎の戦いは1582(天正10)年6月13日、山城国の山崎において羽柴秀吉が明智光秀を討った合戦です。
清須会議
「清須会議」は1582(天正10)年6月27日に、尾張国の清須城において、信長亡き後の織田家の運営体制を決めるために開催された会議です。
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (角川選書 1403)
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
- 堺屋太一 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)
- 河内将芳 図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石 戎光祥出版
- 太田牛一(著) 中川太古(翻訳) 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 中経出版
