豊臣兄弟! 宮部継潤のネタバレ(万丸を養子にしたのち)
宮部合戦で浅井・朝倉連合軍を潰走させる
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」でドンペイさんが演じる宮部継潤は、16話「覚悟の比叡山」において、とも(宮澤エマ)と弥助(上川周作)の長男・万丸を養子として預かることになります。
その後の宮部継潤はどうなるのでしょうか?
浅井家を裏切り、織田家に味方した宮部継潤は、浅井・朝倉の連合軍に目を付けられることに。1572(元亀3)年11月、朝倉景鏡が率いる大軍が、継潤の居城である宮部城を囲み、苦戦を強いられます。
このとき宮部城の近くにある横山城から木下藤吉郎秀吉が援軍に駆けつけ、浅井・朝倉勢の背後を急襲。これに呼応する形で宮部継潤も城門を開けて敵を挟み撃ちをすることに。
結局、浅井・朝倉は戦死者200を出して宮部城の包囲を解き潰走。この合戦は「宮部合戦」と言われています。
信玄西上の報を得た信長が横山を去って東下すると、元亀三年(一五七二)十一月、浅井長政は、朝倉義景と謀り、宮部城を抜き、横山との連絡を絶ち、もって虎御前山および八相山の二城を落としいれんと企てた。先鋒は浅井八郎で、朝倉景鏡が全軍を総帥し、直ちに宮部城を囲んだ。城主宮部継潤は善戦してこれを防いだが、衆寡敵せず、頗る苦境に落ちいった。ここにおいて、木下藤吉郎は、横山から馳せ来たって、これを援け、朝倉勢の背面を急襲した。先鋒は梶原勝兵衛・毛屋猪之助・富田長秀であった。朝倉勢も、これを迎え、激戦となった。継潤は、機を見て、城門を開いて、浅井勢のまっただ中に撃って出たため、自然、敵を挟撃する形となり、遂に浅井・朝倉勢は死骸二百を出して潰走するに至った。
桑田 忠親. 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (p. 188). (Function). Kindle Edition.
秀吉配下の与力として最も評価され知行が3,000石に
1572(元亀3)年11月の「宮部合戦」から、1573(天正元)年9月1日に浅井長政が小谷城で自刃するまでの間、宮部継潤の動向は明らかになっていません。
しかし浅井家を殲滅し織田信長から北近江3郡(浅井郡・坂田郡・伊香郡)12万石の所領を与えられた藤吉郎秀吉が、配下の武将で最も評価したのは宮部継潤でした。
このとき藤吉郎秀吉が宮部継潤に与えた知行は3,000石。これより少しのちに木下小一郎長秀は、のちに伊勢津藩32万3,000石の初代藩主となる藤堂高虎を、300石の知行で召し抱えています。
浅井家滅亡当時の宮部継潤と藤堂高虎の知行を比較すると、浅井家が滅亡した当時、藤吉郎秀吉が宮部継潤のことをいかに買っていたか分かるエピソードでしょう。
鳥取城主として因幡国の統治を任される
1577(天正5)年ごろから織田信長の命で行われた羽柴藤吉郎秀吉による「中国征伐」において、宮部継潤は与力として、秀吉の陣に参加。
1581(天正9)年10月に秀吉が「中国征伐」の一環として因幡国・鳥取城主の吉川経家を降伏させると、鳥取城の城代として宮部継潤が配置されることになります。
1582(天正10)年6月2日に本能寺の変が発生したのち、因幡と隣接する但馬国二方郡の多伊城で守将をつとめていた副田吉成(副田甚兵衛尉)が城を地元の一揆勢に奪われるという大失態を犯すことに。
公(秀吉)の妹は元副田甚兵衛妻なり、副田但馬国二方郡多伊城に在り、信長逝去の時、副田兵を播州に出し、其のあとにて一揆起こり、多伊城を攻め取る、宮部(継潤)馳せ来たりて取りかえす、
黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (p. 47). (Function). Kindle Edition.
このとき鳥取城の城代であった宮部継潤は因幡方面から軍勢を押し出して、多伊城を一揆勢から再び奪い返す活躍を見せます。
養子・宮部吉継(万丸)との養子縁組を解消
本能寺の変ののち織田家の政治勢力が一気に変わります。1582(天正10)年6月27日に行われた清須会議の結果、秀吉は織田信長の三男・織田信孝と対抗することになります。
その織田信孝が土佐を本拠地とする長宗我部元親と急速に接近する動きを見せたため、秀吉はその対抗措置として阿波の三好康長の元に、宮部次兵衛尉吉継と名を変えていたかつての万丸を三好康長の養子として送り込んで誼みを通じることに。
この結果、1582(天正10)年10月ごろまでには宮部継潤と宮部吉継(元服後の万丸)の養子縁組を解消されますが、宮部継潤と羽柴秀吉の仲が悪くなったというわけではありません。
豊臣兄弟! 宮部継潤のネタバレ(万丸と養子縁組を解消したのち)
九州征伐と根白坂の戦い
豊臣秀吉による豊臣政権が確立する過程においても、宮部継潤は秀吉から大変信頼されていたようです。
「五大老五奉行」の仕組みは秀吉の晩年に確立された政治システムですが、宮部継潤はその「五奉行」の前身となる奉行のポジションに登用されることもありました。
さらに1586(天正14)年から1587(天正15)年にかけて行われた九州征伐において、宮部継潤は4,000の兵を率いて参陣。豊臣秀長を大将とする日向・大隈方面の戦線に投入されます。
日向国・高城(たかじょう)の補給線を断つために根白坂(ねじろざか)に陣を構えた宮部継潤と兵4,000は、島津義久率いる20,000の大軍に包囲されますが、大将である宮部継潤自らが、陣の木戸口を飛び出て一番槍をつけるという功名を挙げることに成功。
継潤の先駆けをきっかけとして宮部・島津両軍の間で激しい白兵戦となり、島津側の戦死者は800にも及んだと言われています。
ちなみに島津の大軍の前に劣勢に立たされていた根白坂の宮部継潤の危機を救ったのは、豊臣秀長の重臣・藤堂高虎でした。
豊臣秀次の叛意を問いただす詰問使に
「宮部合戦」や「根白坂の戦い」などで、死も恐れぬほどの勇猛ぶりを見せた宮部継潤でしたが、その晩年において戦場での出来事よりも辛いことを経験していたかもしれません。
1595(文禄3)年7月3日、関白・豊臣秀次の前に突如、太閤・豊臣秀吉から派遣された詰問使たちが現れます。
彼らの目的は秀次が秀吉に対する叛意があるかないかを確かめるもの。こののち豊臣秀次は高野山に追放され、同年7月15日には自害することになりました(「豊臣秀次切腹事件」)。
太田牛一が記した「太閤さま軍記のうち」によると、この詰問使は前田玄以・富田知信・増田長盛・石田三成の4名で構成されていたとしていますが、小瀬甫庵が記した「太閤記」ではこの4名に宮部継潤を加えて5名の詰問使が派遣されたとしています。
もし「太閤記」で記されているように宮部継潤も詰問使として派遣されていたことが本当であったとしたら、宮部継潤の胸中はいかなるものであったでしょうか?
宮部継潤は、実質的には人質だったとはいえ、幼少期から若年期にかけての豊臣秀次を養子として養育しています。
詰問使の中に宮部継潤が含まれていたかどうかはともかくとして、かつて自らの養子であった秀次が謀反を企てるような人間であったかどうか、実は宮部継潤が他の誰よりも一番よく知っていたのかもしれません。
「太閤さま軍記のうち」は、聚楽第に遣わされた詰問使を四名としているが、小瀬甫庵の「甫庵太閤記」では、これに宮部継潤を加えて五名としている。すでに述べたように、秀次はかつて宮部継潤の養子となっていたわけで、秀次、継潤、どのような思いで対面したか、興味あるところである。
小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) 180ページから181ページ
豊臣兄弟! 宮部継潤 どうなる 関連記事と参考文献
豊臣兄弟! 宮部継潤 どうなる 関連記事
大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する宮部継潤については下記の記事でも言及しています。
また豊臣秀次が万丸と呼ばれた幼少期から若年期にかけ、宮部継潤や三好康長の養子になっていた経緯や理由については下記の記事が参考になるでしょう。
豊臣兄弟! 宮部継潤 どうなる 参考文献
今回の記事は下記の6冊の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- NHK2026年 大河ドラマ 豊臣兄弟!完全ナビブック (ウォーカームック) KADOKAWA
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
