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豊臣秀次の家臣 田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・山内一豊・羽田正親

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目次

豊臣秀次とその家臣団について

豊臣秀次とは

豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1564~1595年)とは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で登場する豊臣秀吉池松壮亮)・豊臣秀長仲野太賀)兄弟の甥で、とも(宮澤エマ)にあたる瑞竜院殿日秀尼の長男です。

秀吉から1591(天正19)年12月28日に関白職と豊臣家の家督を譲られるも、秀吉の命令によって1595(文禄4)年7月15日に紀州の高野山において切腹を果たした人物としても知られています。

豊臣秀次 家臣団の形成

豊臣秀次は宮部継潤三好康長の養子に出されていたことから、2つの家でそれぞれ独自の家臣を持っていたと考えられます。

しかし秀次の家臣として最も有名なのは、主に近江国八幡山43万石(甲賀郡・野洲郡・蒲生郡・坂田郡・浅井郡の全域と伊香郡・犬上郡の一部)に封じられた後に叔父・豊臣秀吉から付けられた家老たちでしょう。

秀次の所領43万石のうち、秀次本人の直轄領は20万石で、その家臣たちの所領は23万石という内訳でした。以下の文章では「年寄」または「宿老」とも呼ばれた豊臣秀次の家老たちを紹介します。

豊臣秀次の家老(年寄・宿老)たち

田中吉政(たなかよしまさ)

田中吉政(1548~1609)は、秀吉から付けられた秀次の家老の中でも筆頭格の存在です。

秀次の家臣には、現代の株式会社の「相談役」・「顧問」・「社外取締役」のようにたまに顔を出すだけの人物もいた中で、田中吉政は常に秀次のそば近くに仕えていた家老です。

秀次が近江八幡山43万石を所領としていた時代には、田中吉政は3万石の所領を与えれられていたものの、居城はなく近江八幡山城の近くに屋敷を構えているだけでした。

1590(天正18)年7月に秀次が尾張国57万石に加増転封した際には、秀次の家老たちは関東に移った「家康対策」として東海地方に所領替えとなりますが、田中吉政はその中でも尾張に最も近い三河国岡崎城を中心として5万7,400石に加増転封されています。

堀尾吉晴(ほりおよしはる)

堀尾吉晴(1543~1611年)は秀吉から付けられた秀次の家老の1人です。近江国佐和山城を本拠地とし、4万石の所領を与えられていました。

4万石の所領は主に坂田郡・浅井郡の中で設定。秀次が尾張国57万石に加増転封した際には、遠江国浜松城を中心として12万石の所領が設定されました。

山内一豊(やまうちかずとよ)

山内一豊(1545~1604年)は秀吉から付けられた秀次の家老の1人です。近江国長浜城を本拠地とし、2万石の所領を与えられ、さらに豊臣秀吉の直轄地1万石の代官も務めていたました。

2万石の所領は主に伊香郡の中で設定。秀次が尾張国57万石に加増転封した際には、遠江国掛川城を中心として5万石の所領が設定されました。

なお山内一豊は1600(慶長5)年6月に起こった関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に味方。戦後の論功行賞で土佐一国20万石が与えられ、明治維新まで続く山内土佐藩の初代藩主となった人物としても知られています。

中村一氏(なかむらかずうじ)

中村一氏(?~1600年)は秀吉から付けられた秀次の家老の1人です。近江国水口城を本拠地とし、6万石の所領を与えられていました。

秀次が尾張国57万石に加増転封した際には、駿河国駿府城を中心として17万5,000石の所領が設定されました。

他の家老たちと比べて大きな所領になったのは、1590(天正18)年の小田原征伐における山中城攻めで先鋒隊を務めた戦功によるものです。

一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)

一柳直末(1533~1590年)は秀吉から付けられた秀次の家老の1人です。美濃国大垣城を本拠地とし2万5,000石の所領を与えられ、さらに秀次から別途1,000石が支給されていました。

田中吉政が筆頭家老として常に秀次の側に仕えていたことに対して、一柳直末はその逆でたまに見回りにやってくる「相談役」のような存在。

そのため美濃国に所領が設定された一柳直末は、秀次から「コンサルタント料」のような形で1,000石の知行を受けていました。

なお一柳直末は小田原征伐に従軍しますが、秀次が主導した伊豆国の山中城攻めで戦死。

渡瀬繁詮(わたらせしげあき)

渡瀬繁詮(?~1595年)は、もともと上野国の名門・由良氏の一族でした。どのような経緯で豊臣秀次の家老となったかは不明です。

小田原征伐ののちの論功行賞で遠江横須賀城を中心として3万石の所領が設定されます。しかし1595(文禄4)年7月に起こった「豊臣秀次切腹事件」に連座したとされ、改易処分に。

その後渡瀬繁詮は身柄を佐竹義宣に預けられ、自害することになります。

羽田正親(はねだまさちか)

羽田正親(はねだまさちか)(?~1595年)は豊臣秀長・豊臣秀保の家臣の1人で、大和小泉城主として大和国添下郡で4万8,000石の領地を有していました。

1591(天正19)年1月21日に豊臣秀長が病死し、さらにその後継者である豊臣秀保が1594(文禄3)4月16日に病死すると、豊臣秀次の直臣に転じます。

しかし1595(文禄4)7月に「豊臣秀次切腹事件」が発生すると、羽田正親も連座刑に。越前国北庄を所領としていた堀秀政のもとに身柄を預けられ、自害することになります。

豊臣秀次切腹事件で連座させられた家臣たち

豊臣秀次切腹事件とは

豊臣秀次切腹事件」とは1595(文禄4)年7月3日から同月15日にかけて、豊臣秀吉の命令で発生した、関白・豊臣秀次を高野山追放してから秀次が切腹して自害するまでの事件のことを指します。

当時の豊臣秀吉は側室・淀殿との間にできたお拾(のちの豊臣秀頼)が生まれたばかりの時期で、甥にあたる秀次を疎んじていたと考えられます。

一説では秀次は秀吉に叛意などを抱いておらず、身の潔白を証明するために自殺を図ったとも言われています。しかし事件の影響は凄まじく下記に述べる秀次の家臣たちの他、妻子ら39人もの人々も連座の罪で処刑されることになりました

1595(文禄4)年7月13日に処分された家臣たち

「豊臣秀次切腹事件」に連座させられた家臣たちのうち、豊臣秀次が切腹をする2日前に処分された家臣たちは以下の通りです。

  • 白井備後守成定: 自害
  • 熊谷大膳大夫: 自害
  • 木村常陸介重茲(しげこれ): 斬首
  • 一柳右近可遊(かゆう/よしゆき): 徳川家康にお預けのち自害
  • 前野但馬守長康: 中村一氏にお預けのち自害

これら5名の家臣に加えて、上述したように渡瀬繁詮と羽田正親も連座させられ処分の対象となりました。

1595(文禄4)年7月15日に処分された家臣たち

「豊臣秀次切腹事件」に連座させられた家臣たちのうち、豊臣秀次が切腹した当日に処分された家臣たちは以下の通りです。処分内容はいずれも切腹でした。

  • 山本主殿
  • 山田三十郎
  • 不破万作
  • 東福寺隆西堂
  • 雀部(ささきべ)淡路守重政

豊臣秀次の家臣 関連記事と参考文献

豊臣秀次の家臣 関連記事

豊臣秀次の家臣だった人物のうち羽田正親については下記の記事において詳しく言及しています。

そのほか秀吉から付けられた家老であった、田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・中村一氏といった家臣たちについては下記の記事でも言及しています。

豊臣秀次の家臣 参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

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