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横浜一庵 豊臣秀長の家臣 大和国の内政を担当 またの名を横浜良慶

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目次

横浜一庵の名前について

横浜一庵とは

横浜一庵(よこはまいちあん)(1549~1596年)とは2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長仲野太賀)の家臣の1人です。

豊臣秀長の在世中には主に大和国の領国統治を担当し、秀長の死後は豊臣秀吉から指名をされて後継者・豊臣秀保の後見人を務めたことで知られています。

中世以来、寺社勢力が強く武家にとって「難治の国」で言われた大和国において、横浜一庵は寺社管理に秀でた家臣でした。

「横浜良慶」としても知られた横浜一庵の名前

横浜一庵は「横浜良慶(よこはまりょうけい)」という名前で語られることも多い人物です。

「良慶」とは法名のことで、「多聞院日記」の1587(天正15)年4月朔日の記述に「一庵」が歌を読み「良慶」という名前が添えられていることから来ています。

また「一庵」というのは庵号のことで、「良慶」も「一庵」も実名ではありません。横浜一庵が史料に初めて登場するのは、1585(天正13)年7月のことでこのときの名前は「一安(いちあん)」と記されています。

なお横浜一庵は書状において「一庵法印」・「一晏法印」・「大蔵卿法印」という名前を使っていることが分かっています。横浜一案の名前の変遷については下記の記事を参考にしてください。

横浜一庵の立場

豊臣秀長の家臣団における横浜一庵の立ち位置

豊臣秀長の重臣たちは「家老グループ」と「与力グループ」の2つに分けることができます。

「家老グループ」は主に領国統治を任され、戦時においては留守居役を任された重臣たちのことで、「与力グループ」とは戦時においては秀長の指揮下に入って従軍することが多く、場合によっては兄・豊臣秀吉からの別命を受けることもあるというグループです。

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家老グループ与力グループ
横浜一庵(横浜良慶)・小堀正次井上高清(井上源五)吉川平助(吉川平介)桑山重晴藤堂高虎杉若無心羽田正親青木重吉(青木一矩)福智長通疋田就長宇多頼忠(尾藤頼忠)

横浜一庵は「家老グループ」 の方に分けられるタイプの重臣です。

後半生における豊臣秀長の年表を見ていると、豊臣秀長は領国を離れなければならない戦(四国征伐九州征伐)に従軍していることが分かりますが、代わりに横浜一庵が大和国の留守居役と領国統治に専念していたと考えられています。

豊臣秀長死後に筆頭家老の地位に

横浜一庵は「家老グループ」と「与力グループ」を合わせた12人の重臣たちの中で、どれぐらいの立場にあったかは分かりません。

奈良の町政や寺社管理の実務を担う南京奉行の井上高清に指示・命令を出せる立場であったことから、これら12人の中では上位の方であったことは推定できます。

秀長の重臣たちの中で必ずしも1番上の立場ではなかったかもしれない横浜一庵を、筆頭家老の座にまで明確に押し上げた出来事が秀長の死です。

1591(天正19)年1月21日、豊臣秀長が大和郡山城で病死。後継者はかねてから養嗣子として指名されていた豊臣秀保です。

秀長が亡くなる直前である1590(天正18)年10月20日の「多聞院日記」には、豊臣秀吉が豊臣秀保の相続に関して以下のような指図を出していたという記述があります。

跡ノ様ハ一晏ニ具ニ被仰渡、和泉ト伊賀トハ余人ニ被遣、紀伊国・当国ハ不替侍従殿被遣間、一晏法印代官トシテ養子ノ侍従ヲ守立ヘキ由被仰了

柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版 366ページ

(現代語訳)
秀長死後のことは一晏法印(横浜一庵)に託しておいた。和泉国と伊賀国は他の者の所領とするが、紀伊国と大和国はそのまま侍従(豊臣秀保)に遣わす。一晏法印を代官として養子の侍従を守り立てるよう申しつけておいた。

秀長が亡くなった直後の1591(天正19)年1月27日の「多聞院日記」の記述でも同じような文章が見られます。

つまり横浜一庵は、秀吉の命令で秀長の後継者・豊臣秀保の後見人として「大和大納言家」の最重要家臣の立場となったことが分ります

横浜一庵の動向

大和国の内政(行政・司法・知行交付・寺社管理)を担当

豊臣秀長は1585(天正13)年以降、大和・紀伊・和泉3カ国の領国支配を行うようになります。上述した通り、横浜良慶の役割は秀長の領国のうち大和国の統治でした。

その役割を「羽柴秀長とその家臣たち」ではこのようにまとめています。

そこではおおよそ、大和の領主・寺社に対して知行帳の交付や所領の画定について管轄していたこと、寺社に米などを支給していることから、財政を管轄していたこと、寺社領支配は秀長家臣によっておこなわれていたらしく、寺社への年貢分は秀長から支給する形態になっていて、それを管轄していたとみなされること、郡山町支配にも関わっていたこと、奈良の寺社への祈禱命令とそれへの寄進・布施の給付について差配していたこと、奈良の寺社の修造について差配していたこと、奈良の寺社内部の紛争について調停・裁定していたこと、そして何よりも、秀長に近仕して、奈良の寺社などに秀長からの諸役賦課などに関する命令を伝達する役割を担っていたこと、などをみることができた。

黒田 基樹. 羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人 (角川選書) (pp. 102-103). (Function). Kindle Edition.

つまり横浜一庵とは大和国における行政・司法・知行交付・寺社管理を一手に引き受けており、さながら「地方総監」のような役割を担っていた感じがします。

小堀正次とともに大和郡山の町政も掌握

大和国の「地方総監」である横浜一庵は、民政に明るい小堀正次とともに郡山の町政についても掌握していたことがうかがえます。

その証拠を示す文書が「春岳院文書」に残されています。「春岳院文書」によると、1592(文禄元)年に豊臣秀保が郡山町衆に対する命令を出し、横浜良慶と小堀正次が連署をしているという体裁をとっています。

以上、
其町中地子之事、自当年可被成御免之旨被仰出候、可成其意候。猶帰候て様子可聞候。謹言。
八月廿三日
一晏法印
良慶(花押)
小堀新介
正次(花押)
郡山町中

柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版 370ページ

(現代語訳)
以上、
(郡山の)町中の地子(=土地税)の件については、今年から免除とするようにとの御沙汰があった。
したがって、その趣旨に従って処理するように。
なお、帰ってからその様子を詳しく伺うつもりである。
謹んで申し上げる。
8月23日
横浜一晏法印良慶(花押)
小堀新介正次(花押)
郡山町中

「地子」とは「屋地子(やじし)」とも言われ、土地にかかる税金で現代で言うところの「固定資産税」のような税金のことでしょう。

「春岳院文書」からは「屋地子」を課税免除することで郡山の負担を減らし城下町を繁栄をさせたいという豊臣秀長の政策意図が見られます。

そのほか大和国の町政に関して言えば、奈良の町衆に対して行われた政策融資の一種である「奈良借(奈良貸し)」についても横浜一庵が関与していたと考えられています。

横浜一庵 関連記事と参考文献

横浜一庵 関連記事

「横浜良慶」とも言われる横浜一庵については下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

横浜一庵 参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。これらの著者のうち柴裕之さんと黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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