織田信雄(おだのぶかつ)は、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の30話「清須会議」や、34話以降に描かれる小牧長久手の戦いなどで描かれる重要人物の1人です。
織田信雄は織田信長の次男であり、清須会議の後には当主・三法師の名代の座を巡って、弟・織田信孝の対立候補となりました。
また織田信雄は、養子縁組や政略結婚を通じて豊臣秀吉や徳川家康とも深い関わりを持ったことでも知られています。
▼ 織田信雄の要点まとめ
・織田信長の次男
・清須会議で当主・三法師の名代候補に
・賤ヶ岳の戦いで弟・織田信孝と対立
・小牧長久手の戦いで徳川家康とともに秀吉に対抗
・小牧長久手の戦いののち秀吉と主従関係が逆転
・娘の小姫は秀吉の養女にして緊密な関係に
・秀吉によって改易される
・江戸時代まで生き延びた
この記事では織田信雄の生涯や、清須会議・賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦い、豊臣秀吉や徳川家康との関係について解説します。
→ 三法師 清須会議における織田家の当主
→ 織田信孝とは?信長の三男・清須会議の後継者候補
→ 清須会議とは?何が決められたのか?
→ 賤ヶ岳の戦いとは?(準備中)
→ 小牧長久手の戦いとは(準備中)
結論|織田信雄とは?
織田信雄とは、織田信長の次男であり、清須会議や賤ヶ岳の戦いのち羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に対抗する中心人物の1人です。
▼ 織田信雄とは
・織田信長の次男
・清須会議で当主・三法師の名代候補に
・賤ヶ岳の戦いで弟・織田信孝と対立
・小牧長久手の戦いで徳川家康とともに秀吉に対抗
・小牧長久手の戦いののち秀吉と主従関係が逆転
・娘の小姫は秀吉の養女にして緊密な関係に
・秀吉によって改易される
・江戸時代まで生き延びた
「豊臣兄弟!」における織田信雄は30話「清須会議」以降に描かれる、織田家の後継者争いや台頭する秀吉に抗う重要な役割を担う人物となるでしょう。
→ 三法師 清須会議における織田家の当主
→ 織田信孝とは?信長の三男・清須会議の後継者候補
→ 清須会議とは?何が決められたのか?
→ 賤ヶ岳の戦いとは?(準備中)
→ 小牧長久手の戦いとは(準備中)
豊臣兄弟!での織田信雄
30話「清須会議」
30話「清須会議」では信長亡き後の織田家の運営体制を決めるために「清須会議」が開催されます。
織田信雄(山脇辰哉)は信長の次男として、当主・三法師の名代(後見人)候補として推挙されることに。
ただ信長の三男で、信雄の弟である織田信孝(結木滉星)が山崎の戦いで立てた戦功と比較され、信雄が三法師の名代には選ばれることはありません。
ただ信孝も名代には選ばれず、代わりに織田家の運営は、4人の重臣たちが三法師を直接補佐する「集団指導体制」によってなされることが決定しました。
→ 三法師とは誰?織田信長の嫡孫・信忠の嫡男
→ 織田信孝とは?信長の三男・清須会議の後継者候補
→ 山崎の戦いにおける織田信孝の戦功とは?
→ 清須会議とは?何が決められたのか?
31話「これで、お別れにございます」
31話「これで、お別れにございます」では、信孝が三法師の身柄を勝手に預かり手放そうとしません。
織田家の重臣である羽柴秀吉(池松壮亮)は信孝の野心を危険視して、他の重臣である丹羽長秀(池田鉄洋)と池田恒興(堀井新太)を引き入れ、政治的クーデターを決行。
「清須会議」で決めた体制をひっくり返し、三法師ではなく、信雄を実質的な当主とする体制に変えてしまいます。
豊臣兄弟! 34話以降
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(山口馬木也)とその一族を殲滅することに成功した羽柴秀吉は、実質的に「織田家No.1の実力者」に。これまで「当主」と奉っていた信雄を蔑ろにし始めます。
そのことが面白くない信雄は、かつて信長の同盟相手であった徳川家康(松下洸平)に接近。
小牧長久手の戦いで秀吉の軍勢と激突しますが、やがて小一郎らの説得に応じて和睦。以降、信雄は「豊臣政権」の一部に組み込まれることになるでしょう。
→ 柴田勝家の最期
→ 賤ヶ岳の戦い 戦局と戦闘の推移を解説(準備中)
織田信長の次男として誕生
織田信雄は織田信長の次男として1558(弘治4)年に誕生。
兄・織田信忠と同じ母を持っていたと考えられ、嫡流の血筋であったと考えられています。
信長からは主に伊勢国の北部から伊賀にかけての支配・統治を任されていました。
「無能」「うつけ」と言われる理由
現在では
・織田信雄 無能
・織田信雄 うつけ
と検索されることがあります。
これにはいくつかの理由が挙げられます。
1. 天正伊賀の乱での失敗
1579(天正7)9月16日、織田信雄は父・信長と相談することなく伊賀に侵攻しますが失敗。この戦いで家臣の柘植三郎左衛門(柘植保重)を戦死させてしまいました(天正伊賀の乱)。
信長は伊賀攻めの失敗について激しく怒り、「次も失敗したら親子の縁を切る」と書状に書き記していたことが「信長公記」に記録されています。
信長は「次も失敗したら」と書き送っていますので、信雄は天正伊賀の乱の以前にも信長を怒らせるような大きな失敗をしていたのでしょう。
2. 本能寺の変・山崎の戦いに遅参した上に安土城で失火
1582(天正10)年6月2日、本能寺の変が発生した当時、織田信雄は伊勢に在国していました。
しかし、豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学名誉教授の故・桑田忠親氏の著作である「豊臣秀吉研究 上」によると、本能寺の変での一大事を知った信雄は、かなり狼狽していたと説明しています。
信雄は信長の妻子たちを守るために安土城に向けて出兵したものの、途中で土一揆に妨害され、安土に到着したのは山崎の戦いが終わったのちのことでした。
しかも信雄は、山崎の戦いで秀吉が勝利し、光秀が敗走していたという重要な情報を把握していなかったようです。
そのため信雄は安土城を光秀に占拠されることを恐れ、城に火を放ってしまったと、桑田名誉教授は説明しています。
清須会議と織田信雄
織田信雄の動きが日本史において目立ち始めるのは、「清須会議」のあたりからです。
三法師が織田家当主になることは既定路線だった
一般的に「清須会議」は「羽柴秀吉が信雄・信孝を押し退けて幼い三法師を織田家の当主にした」というイメージがあるかもしれません。
しかし実態はそうではありません。
なぜなら中世の封建社会において後継者として最も重要視されるのは血筋だったからです。
本能寺の変で織田信長が死亡した際に、すでに当主の座についてた嫡男・信忠も死亡していました。
ただし、その信忠には嫡男・三法師が存在しており、血筋の面からいくと、織田家の後継者は三法師でした。
「織田家の次の当主は三法師」という点については、会議の出席者(柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興)や利害関係者(織田信雄・織田信孝)らの間に暗黙の合意があったと考えられます。
むしろ問題は、当主・三法師は政治などできない幼児であり、誰が当主の補佐をするのかという点でした。
三法師の名代(後見人)候補: 織田信雄と織田信孝
「誰が三法師を補佐するのか?」という問題について、真っ先に話し合われたことが、残った信長の子供たちのうち誰を三法師の名代(後見人)とするかという点です。
名代とは言え、三法師が元服するまでの間、この後見人こそが実質的な織田家の当主となります。
「清須会議」でその候補者として推挙されたのが以下の2名です。
- 次男: 織田信雄
- 三男: 織田信孝
「清須会議」は当初、会議の進行がかなり難航したと言われています。兄弟のうちどちらを三法師にしても一長一短があったためです。
信雄が名代に選ばれなかった理由
信雄は嫡流で、信孝は庶流にあたるため、血筋という点では三法師の名代をする資格は十分です。問題は能力と戦功でした。
信雄は信長の存命中からたびたび叱責を受けており、信長自身も信雄のことをあまり期待をしていなかったと言われています。
しかも本能寺の変や山崎の戦いでは何の戦功もなかっただけでなく、情報の判断を誤って安土城を火災に巻き込んでしまいました。
一方、弟・信孝は名目上とは言え、山崎の戦いの総大将であり、謀反人の明智光秀を成敗したという誰が見ても明らかな戦功がありました。
これらの点が問題とされ、清須会議の進行は紛糾。結局、信雄・信孝のいずれも三法師の名代に選ばれることはありませんでした。
最終的には織田家の運営は、4人の重臣たちである、
・柴田勝家
・羽柴秀吉
・丹羽長秀
・池田恒興
による「集団指導体制」が採用されました。
→ 柴田勝家とは?
→ 丹羽長秀とは?
→ 池田恒興とは?(準備中)
清須会議体制が崩壊したのちに担ぎ出された織田信雄
当主・三法師を4人の重臣たちが直接補佐するという体制で織田家は再スタートするように見えましたが、信長の三男・織田信孝が反発。
当主・三法師は本来、安土城を居城とするはずでしたが、信孝は「安土城は火災で焼け落ちて修復中だから」という口実をつけ、三法師の身柄を自身の居城である岐阜城で預かり始めました。
信孝の行動に野心ありと見た、羽柴秀吉は1582(天正10)年10月28日に政治的クーデターを決行。
「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されている黒田基樹氏の著書「お市の方の生涯」によると、秀吉は清須会議で決めた体制をひっくり返し、三法師を当主とする体制から、織田信雄を実質的な当主とする体制に移行すると宣言しました。
賤ヶ岳の戦いと織田信雄
織田信雄は羽柴秀吉とともに織田信孝・柴田勝家と対抗
この宣言により「織田家の政庁」である安土城には織田信雄が入城。
「織田信雄・羽柴秀吉」による政権が樹立したかに見えましたが、この動きに「織田信孝・柴田勝家」の反対勢力が猛反発。
柴田勝家は、伊勢の滝川一益を巻き込んで、秀吉側の勢力と軍事的衝突をすることになります。
賤ヶ岳の戦いでは滝川一益の峯城の攻囲を担当
1583(天正11)年閏1月に滝川一益が北伊勢で挙兵。
それに合わせて羽柴秀吉は同年2月10日に近江を出発し、同12日には北伊勢にある峯城を包囲。28日には織田信雄も出陣し、峯城の包囲戦に参加します。
その後3月になると越前の柴田勝家が出陣し近江の木之本まで南下。さらに翌4月になると織田信孝も美濃の岐阜城で挙兵。
羽柴秀吉やその弟・小一郎長秀らは、これらの動きに対応するために伊勢・近江・美濃の戦場を駆け巡ることになります。
その一方で信雄の軍勢は、滝川一益の動きを封じるために、北伊勢の峯城や長島城などにそのまま置かれることになりました。
→ 賤ヶ岳の戦いでなぜ柴田勝家は大敗したのか?(準備中)
賤ヶ岳の戦い後に弟・信孝を切腹させる
1583(天正11)年4月20日から21日にかけて、賤ヶ岳の戦いが行われ、羽柴秀吉は柴田勝家の甥・佐久間盛政を敗走させることに成功。
その後、前田利家の裏切り行為とも言える戦線からの無断離脱により、勝家も北庄城まで撤退。同23日には北庄城の本丸において勝家は、妻・お市と自害して果てることになりました。
さらに5月2日までには信雄は岐阜城の攻囲を成功させ、最終的に弟・信孝を尾張の知多半島で切腹に追い込みます。
このように織田信雄は、賤ヶ岳の戦いにおいて羽柴秀吉の助力を得ることで織田家の当主となったかに見えました。
→ 柴田勝家の最期
→ お市の最期
→ 織田信孝の最期
→ 前田利家はなぜ柴田勝家を裏切ったのか?(準備中)
小牧長久手の戦いと織田信雄
信雄と秀吉の政治対立
賤ヶ岳の戦いのち、戦功のあった諸将に対して論功行賞が行われました。
しかし秀吉は信雄の意向を無視して独断で、柴田勝家とその一族郎党の旧領を配分。さらに1583(天正11)年6月2日に信長の一周忌の法要まで、信雄ではなく秀吉が独自に行うことに。
こうした秀吉の独断専行に対して、信雄以外に異論を唱える織田家の武将は存在しません。
生前の信長が行なっていた「天下一統(天下統一)」の事業を誰が引き継いだのか、もはや誰の目が見ても明らかだったのでしょう。
そして両者の関係にとどめを指した出来事が、秀吉による大坂城の築城計画です。
賤ヶ岳の戦いののち、三法師と信雄の居城は安土城となっていましたが、ほどなくして三法師は近江坂本城に、信雄は伊勢長島城に移されました。
「天下の政庁」を安土城から大坂城に移して、「天下人は秀吉である」ということを世間に示す行動でした。
小牧長久手の戦いの始まり
こうした秀吉の動きに対して、信雄はかつて信長の同盟相手であった徳川家康を始めとして、越中の佐々成政、紀州の根来衆、四国の長宗我部元親らと共に「秀吉包囲網」を築いて対抗し始めます。
1584(天正12)3月6日に、信雄は家中で秀吉への「取次(とりつぎ。外交官のこと)」にあたっていた3人の家老(津川雄光・岡田重孝・浅井長時)を殺害するに及んで秀吉との断交を宣言。
同13日は徳川家康が、信雄の城の1つである清須城に入城して、信雄と家康の連合軍が形成され、本格的に小牧長久手の戦いが始まります。
→ 豊臣兄弟!における徳川家康とは?(準備中)
→ 豊臣兄弟!における長宗我部元親とは?
小牧長久手の戦い
小牧長久手の戦いは、主に伊賀・伊勢・尾張の各地で行われ、まさしく信雄の領地が戦場となっていました。
長久手の戦いにおいて秀吉は、味方の池田恒興・森長可らを戦死させてしまうという大敗を喫するものの、それ以外の戦線を総合すると、両軍は一進一退だったようです。
家康が退いたのち信雄は秀吉に降伏
各地で小競り合いが続いていたものの、9月ごろになると信雄・家康の陣営は秀吉との和睦を検討し始め、家康は10月17日に遠江の浜松城に帰陣。
家康が退いたと見た秀吉は、11月上旬ごろから信雄の本拠地である長島城と桑名城を一斉に攻撃を開始し、信雄は11日に降伏を申請。
信雄の降伏申請に対して、
- 伊賀一国と伊勢南部の8郡を割譲する
- 人質を差し出す
ことを主な条件として、秀吉はその降伏を受け入れました。
黒田基樹氏の別の著作である「羽柴秀長の生涯」によると、11月15日には信雄は秀吉の陣所に出頭して2人は「父子の約束」を結んだと言います。
この約束における「父」とは羽柴秀吉であり、「子」とは織田信雄のことです。つまり信雄の降伏により、かつての主従関係は完全に逆転し、織田家を「天下人」とする体制は完全に崩壊したことを意味します。
小牧長久手の戦いののちの織田信雄
信雄が従三位権大納言に叙任されたことの意味
1584(天正12)11月28日、羽柴秀吉は朝廷に奏請して、信雄を従三位権大納言に任官させます。
実は室町時代の足利将軍は従三位権大納言に叙任されることが通例でした。つまり朝廷が、秀吉の申請によって信雄をこの官位にすることを認めるということは、世間が秀吉を「天下人」として認めたということになります。
ここに正式に「羽柴政権(のちの豊臣政権)」が成立しました。
羽柴秀長の周旋によって大坂城に出仕
小牧長久手の戦いで降伏し、従三位権大納言に叙任されたものの、信雄は秀吉に完全に従属したわけではありません。
最後の仕上げとして信雄が上洛して秀吉の居城である大坂城に出仕する必要があります。
この説得に当たったのが羽柴秀長でした。信雄は秀長の説得に応じ、1585(天正13)年2月22日に長島城から上洛して大坂城にいる秀吉のもとに出仕。
この出仕をきっかけとして羽柴秀長は信雄の「指南(しなん)」を担当することに。
ここでいう「指南」とは政治や軍事の指導のことを意味し、いざ有事の場合には織田信雄は羽柴秀長の指揮下に入ることになります。
豊臣政権下での織田信雄
内大臣に昇進し豊臣政権No.2の地位に
こののち、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は紀州征伐(1585年3月)・四国征伐(1585年5月)・九州征伐(1586年)・小田原征伐(1590年)と着実に天下統一への道を歩むこととなります。
この間、織田信雄は内大臣に昇進しており、この官位は関白・太政大臣の秀吉に次ぐ第二位の地位で、同じ地位には同じく内大臣であった徳川家康がいるだけです。
ちなみに同時期の豊臣秀長は従三位参議近衛中将であり、秀吉と信雄・家康に次ぐ、第三位の地位にいました。
小姫の養子縁組と政略結婚
このように信雄は「豊臣政権」における重要な構成員であったため、家同士での豊臣秀吉や徳川家康との結びつきも強化されます。
その1つとして考えられるのが養子縁組です。織田信雄は1587(天正15)年ごろに娘である小姫(おひめ)を、豊臣秀吉と北政所(「豊臣兄弟!」の寧々のこと)の夫婦と正式に養子縁組をさせています。
さらに「多聞院日記」の記述によると、小姫は1588(天正16)年正月28日に徳川家康の嫡男・徳川秀忠と聚楽第で婚約したとあります。
織田信雄の最期
秀吉によって改易される
1590(天正18)年に小田原征伐を成功させた豊臣秀吉は、東海地方と甲斐・信濃の合計5カ国を領地としていた徳川家康を関東に転封させます。
その際、秀吉は尾張一国と北伊勢5郡を領地としていた織田信雄を、それまで家康の領地であった駿河・遠江・三河の3カ国へ移封させようとしました。
しかし信雄はこの国替えを拒否。
加増転封であったにも関わらず信雄が国替えを拒否した理由は、領地が増えることよりも、父祖代々の慣れ親しんだ土地に残りたかったからと言われています。
秀吉はこの話を聞いて信雄を改易処分にした上で、下野国烏山に配流。さらに烏山から出羽国秋田にまで追いやってしまいました。
豊臣政権に復帰するも関ヶ原で再び失領
その後、1594(文禄3)年になると信雄は秀吉から許され、大和国宇陀郡のうちおよそ2万石を与えられて大名として復帰します。
しかし1600(慶長5)年に関ヶ原の戦いが勃発すると、信雄は西軍方に属しました。
ところが西軍は徳川家康率いる東軍に敗北。
信雄自身は家康に助命されたものの、再び所領を失うことになりました。
大坂の陣で復帰し大和松山藩主となる
1614(慶長19)年から1615(慶長20)年にかけて行われた大坂の陣では徳川方として参戦。
この功績によって、戦後の1615年に大和国宇陀松山でおよそ10万石を与えられ、大名として再興されました。
こうして信雄は大和松山藩の初代藩主となります。
かつては豊臣秀吉と対立し、また徳川家康と同盟を結んで戦った信雄でしたが、最終的には徳川政権の大名として生きる道を選んだのです。
江戸時代まで生き延びた
信雄は1630(寛永7)年4月30日に73歳で死去しました。
父・織田信長が本能寺の変で亡くなってから48年後のことです。
本能寺の変、清須会議、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、豊臣政権の成立、関ヶ原の戦い、大坂の陣、そして江戸幕府の成立――。
信雄は数々の政争や戦乱に巻き込まれながらも生き残り、最終的には江戸時代まで生き延びた数少ない織田一族の有力者となりました。
戦死や切腹によって生涯を終えた弟・信孝や、多くの戦国武将たちとは異なり、天寿を全うしたことも織田信雄の大きな特徴と言えるでしょう。
FAQ|織田信雄について
Q. 織田信雄とは誰ですか?
A. 織田信長の次男で、本能寺の変後の後継者争いの中心人物です。
Q. 織田信雄は無能だったのですか?
A. 伊賀攻めの失敗などから無能と言われることがありますが、長く戦国時代を生き残った有力大名でもありました。
Q. 織田信雄と織田信孝の関係は?
A. 信長の息子同士であり、清須会議では後継者の地位を巡って競合しました。
Q. 織田信雄と豊臣秀吉の関係は?
A. 当初は協力関係でしたが、後に小牧長久手の戦いで対立しました。
Q. 織田信雄と徳川家康の関係は?
A. 小牧長久手の戦いで同盟を結び、秀吉に対抗しました。
Q. 織田信雄の最期は?
A. 秀吉によって改易された後も生き延び、江戸時代初期まで存命でした。
織田信雄に関連する主な人物
織田信長: 信雄の父
織田信長は織田信雄の父です。
存命中の信長は信雄についてあまり期待していなかったようです。
→ 織田信長の最期
織田信忠: 信雄の兄
織田信忠は信雄の兄です。
本能寺の変で信忠も亡くなったしまったため、信雄にも織田家の後継者争いに参加するチャンスが回ってきました。
→ 織田信忠の最期
織田信孝: 信雄の弟で政治的ライバル
織田信孝は信雄の弟です。清須会議では信雄とともに、当主・三法師の名代候補に推挙されます。
三法師: 信雄の甥
三法師は信忠の嫡男で信雄の甥に当たります。
清須会議では当初、織田信雄と織田信孝のどちらが三法師の名代を務めるかが議論されました。
徳川家康: 小牧長久手の戦いにおける同盟相手
信雄は小牧長久手の戦いに際して徳川家康と連合軍を組むことになります。
→ 豊臣兄弟!における徳川家康とは?(準備中)
織田信雄に関連する歴史的事件
清須会議
信長亡き後の織田家の運営体制を決定した会議です。
賤ヶ岳の戦い
織田家の主導権を巡って重臣の羽柴秀吉と柴田勝家が激しく争った戦いです。
→ 賤ヶ岳の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説(準備中)
小牧長久手の戦い
信雄・家康連合軍と秀吉が、伊賀・伊勢・尾張の各地で戦った合戦です。
→ 小牧長久手とは?戦局と戦闘の推移を解説(準備中)
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 柴裕之(編著)豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 黒田基樹 羽柴秀長と藤堂高虎 NHK出版新書
- 黒田基樹. 羽柴秀長の生涯 (平凡社新書 1088)
- 黒田基樹 秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治 講談社現代新書
