記事の概要(浅井長政死去までのまとめと略年表)
豊臣兄弟! 浅井長政の史実とネタバレ まとめ
- 大河ドラマ「豊臣兄弟!」の浅井長政(中島歩)は1570(元亀4)年4月下旬に義兄・織田信長(小栗旬)を裏切ること決断
- 浅井長政の裏切りは「反信長連合」の参加(「金ヶ崎の退き口」)から数々の抵抗(「姉川の戦い」や「比叡山焼き討ち」など)を経て、最終的には1573(天正元)年の浅井家滅亡に至る
- 浅井長政が自害した後、旧・浅井領は羽柴藤吉郎秀吉(池松壮亮)が大名として統治することになる
豊臣兄弟! 浅井長政の年表
北近江の大名で織田信長の義弟であった浅井長政が、小谷城で自害するまでの経過を追った年表は以下のとおりです。
| 西暦(和暦) | 年齢(数え) | できごと |
|---|---|---|
| 1545(天文14)年 | 1才 | 浅井久政の嫡男として誕生 |
| 1567(永禄10)~1568(永禄11)年ごろ | 22~23才 | 織田信長の妹・お市と結婚。浅井家と織田家が同盟関係になる |
| 1570(元亀元)年4月 | 26才 | 金ヶ崎の退き口。浅井家と織田家の同盟が破棄される |
| 1570(元亀元)年6月 | 26才 | 姉川の戦いで横山城が奪取される |
| 1571(元亀2)年ごろ | 27才 | 浅井家の重臣・宮部継潤が織田家に降伏 |
| 1571(元亀2)年9月 | 27才 | 織田信長による比叡山焼き討ち |
| 1571(元亀2)年11月 | 27才 | 宮部合戦 |
| 1572(元亀3)年12月 | 28才 | 武田信玄が西上。徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田軍に惨敗 |
| 1573(元亀4)年1月 | 29才 | 武田信玄が死去。足利義昭と織田信長の抗争が表面化 |
| 1573(元亀4)年6月 | 29才 | 足利義昭が「槇島城の戦い」で信長に敗退。京から追放され室町幕府が滅亡 |
| 1573(天正元)年8月8日 | 29才 | 浅井家重臣の阿閉貞征(あつじさだゆき)が織田家に降伏。朝倉義景が近江国の木之本で織田軍に惨敗。のちに義景は越前国一乗谷で自害 |
| 1573(天正元)年8月11日 | 29才 | この頃から浅井領で羽柴藤吉郎秀吉による戦後処理が始まる |
| 1573(天正元)年8月27日 | 29才 | 小谷城への総攻撃が始まる。浅井長政の父・浅井久政が自害 |
| 1573(天正元)年9月1日 | 29才 | 小谷城本丸への攻撃が始まる。浅井長政が自害し浅井家が滅亡 |
義理の兄・織田信長を裏切り「反信長連合」に参加(1567~1570年6月)
婚姻による同盟関係は長続きしなかった
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の浅井長政(中島歩)は、10話「信長上洛」で描かれる通り、1567(永禄10)年から1568(永禄11)年ごろに織田信長(小栗旬)の妹・お市(宮﨑あおい)と結婚。浅井家と織田家は婚姻政策による同盟関係に入ります。
しかしこの同盟関係は長く続きませんでした。織田信長と敵対する越前国の戦国大名である朝倉家とは何代にもわたる同盟関係にあり、「最近できた義理の兄」よりも「長年の盟友」の方についてしまったからです。
金ヶ崎の退き口(1570年4月)
1570(元亀元)年1月、信長の軍勢は朝倉義景を討伐するために、京から若狭国を経由して越前に侵攻。同年4月25日には手筒山(天筒山)城を落城させ、翌26日には織田軍は金ヶ崎城を遠巻きに包囲。
しかしここで驚天動地の事実が発覚します。織田軍の本陣に「浅井長政裏切り」の報が届いたのです。
この知らせは信長にとってまさしく「青天の霹靂」といって良いでしょう。なぜなら自分の背後にいる北近江の浅井長政は味方だと思い込んでいたからです。信長はすぐに京へ撤退することを決断。全軍の「殿(しんがり)」は木下藤吉郎秀吉に。
「殿」とは軍隊が撤退するときの最後尾に配置される部隊のことです。その役割は、勢いに乗じて追撃してくる敵軍を孤軍で受け止め、味方の軍勢が安全圏に逃げ切るまで持ち堪えるというもの。引き受けた部隊は全員が戦死することを覚悟しなければなりません。
豊臣秀吉研究で知られる國學院大学の故・桑田忠親名誉教授によると、このとき秀吉は自らすすんでこの難題を引き受けたと説明されています。
秀吉の曰く、「それがしが残り申す上は、御心安くお引き取りあるべし」と。そこで信長も「切なる忠節忘れず」とて退き口を秀吉に委せ、二十八日の夜に入って敦賀へ引き払った。このとき、秀吉に従い、共に退き口をつとめた士には、蜂須賀小六・木村常陸介・生駒甚介・前野将右衛門・加藤作内らがあった。
信長の首をめがけて猛追する朝倉兵たちを、木下藤吉郎秀吉が見事防ぎ切った撤退戦は、のちに「金ヶ崎の退き口」として伝わっています。
なお大河ドラマ「豊臣兄弟!」の14話「絶体絶命!」では「金ヶ崎の退き口」のシーンが描かれ、主人公・木下小一郎長秀(仲野太賀)は「殿」を務める木下隊の中でも、最後備の配置となることを志願します。
姉川の戦い(1570年6月)
上述した桑田忠親名誉教授はその著作の中において、「金ヶ崎の退き口」で京に退いたときの織田信長の心境については特に語っていません。
ただ、信頼していた義理の弟に裏切られて討ち死寸前まで追い詰められたことを考えると、信長は浅井・朝倉への復讐心をたぎらせたことは容易に想像できるでしょう。
実際、信長は「金ヶ崎の退き口」からわずか2ヶ月後には岐阜で大軍を集結させています。1570(元亀元)年6月19日には同盟関係にあった徳川家康とともに近江の浅井領に侵攻を開始。世に言う「姉川の戦い」です。
織田・徳川連合軍は6月21日には浅井家の本城である小谷城にまで迫りますが、野戦から攻城戦に一気に持ち込むことの不利を悟り、柴田勝家・丹羽長秀など配下の諸将に対しては現在の戦線を維持するように命令。
ちなみに「姉川の戦い」は織田・徳川連合軍が激戦の末、浅井・朝倉連合軍に勝利したと伝えられています。もっともこの戦いによる織田軍の戦果は、開戦前の信長が目指したほど大きいものではありませんでした。
なお「豊臣兄弟!」の15話のタイトルは、その名も「姉川大合戦」。1話まるまる使って「姉川の戦い」の様子が描かれるようです。
「本当に…わしらは勝ったんかのう」
「分からんけど…ここは地獄じゃ」
両軍の戦闘が終了したのち、姉川の川の色は血で赤く染まり戦死者の死体が積み上がる中、小一郎と藤吉郎の兄弟は呆然として呟きます。
崩壊する「反信長連合」(1571〜1573年6月)
宮部継潤の降伏(1571年ごろ)
「姉川の戦い」において織田信長が手に入れた数少ない戦果の1つとして、横山城があります。横山城は小谷城を守る支城の1つで、小谷城から見てかなり近い位置にあったとされています。
信長は横山城の城将として木下藤吉郎秀吉を任命。藤吉郎は横山城から小谷城の支城を守る浅井長政の家臣たちに対し、次々と織田に降伏するよう誘引工作を開始。
その「調略作戦」の中で浅井長政にとって特に痛打となったのは、小谷城と横山城の中間に位置する宮部城の降伏でした。宮部城の城主・宮部継潤は木下藤吉郎秀吉の甥・万丸(または次兵衛でのちの豊臣秀次)を養子とすることで織田家に寝返ってしまったのです。
宮部継潤による「浅井家裏切り」は1571(元亀2)年ごろの出来事であると考えられますが、この事件は浅井長政にとっては「終わりの始まり」であったと言えるでしょう。
なお「豊臣兄弟!」の16話「覚悟の比叡山」では宮部継潤(ドンペイ)がクローズアップされ、浅井に留まるべきか織田に寝返るべきか、宮部継潤の複雑な心境が語られます。
比叡山の焼き討ち(1571年9月)
宮部継潤の裏切りに遭った浅井長政ですが、まだこの頃は各地に散らばる「反信長連合」が有効に機能していました。
この時期、信長は浅井・朝倉との戦に集中するだけの余裕はなく、畿内(今の京都府・大阪府・奈良県)の反対勢力を抑えて回る必要があったのです。
その反対勢力の1つが「三好三人衆」と呼ばれた三好長逸(みよしながやす)への対応です。
三好長逸は浅井・朝倉と共謀して摂津国の野田と福島(現在の大阪市福島区)で挙兵。一方、浅井・朝倉連合軍は3万の兵をもって近江国の宇佐山城(現在の滋賀県大津市)を包囲。城を守る織田信治(信長の弟)と森可成(水橋研二)を戦死させています。
宇佐山城落城の報に驚いた信長は急遽、野田と福島に展開している陣を撤収。浅井・朝倉連合軍への対応にあたりますが、浅井・朝倉連合軍は宇佐山城から近く、天台宗の総本山である比叡山延暦寺に逃げ込み、一向に山を下りる気配を見せません。
このように反対勢力たちの対処に手を焼いた信長は、将軍・足利義昭を通じて正親町天皇に浅井・朝倉との和議を奏請し、1570(元亀元)年12月13日に和議が成立。浅井・朝倉は比叡山の山中に設けた陣所を焼き払って下山することになりました。
しかし信長にとってこの和議はかりそめの約束にすぎません。次にいつま浅井・朝倉が延暦寺と組んで反抗してくるか心配でたまらないからです。
そこで1571(元亀2)年9月12日、信長は配下の武将たちに比叡山を包囲させ、延暦寺根本中堂・山王21社すべて焼き払い、僧兵はおろか女・子供に至るまでなで斬りにせよと命令。世に言う「比叡山の焼き討ち」です。信長たちの焼き討ちに遭った比叡山は、4日にわたって火災が広がり、あとにはただ焦土が残ったと伝わっています。
この「比叡山の焼き討ち」を描くのが、「豊臣兄弟!」の16話「覚悟の比叡山」です。
武田信玄の西上と死去・朝倉義景の失策(1572年12月~1573年1月)
「比叡山の焼き討ち」以降、比叡山延暦寺は「反信長連合」から脱落することになりますが、それでもなおネットワークは健在です。
1572(元亀3)年3月から9月にかけて信長は、虎御前山(とらごぜやま)を本陣として浅井・朝倉連合軍と対峙。
小谷城の周囲とその城下でとの戦闘が繰り広げられましたが、同年の9月中旬に甲斐国の戦国大名・武田信玄(高嶋政伸)が上洛するために西上するという知らせに接すると虎御前山の陣を慌てて撤収。
12月には信玄の西上を防ぐために徳川家康が遠江国の三方ヶ原で武田軍と激突しますが、徳川・織田連合軍はあえなく惨敗。
勢いに乗じて信玄は浅井・朝倉と図って信長を挟み撃ちしようと持ちかけますが、肝心の朝倉義景が動こうとしません。そして1573(元亀4)年4月12日には武田信玄が信州駒場で病死。
武田信玄は絶好の機会を見逃した朝倉義景の行動力のなさを、書状で散々なじったそうですが、すでに後の祭り。信玄の死により各地に築かれていた「反信長連合」に大きな綻びが生じ始めます。
なお武田信玄の死が浅井長政にとって、いかにショックなものであったかについて、「豊臣兄弟!」の17話「小谷落城」の前半で描かれるでしょう。
足利義昭の敗退と京からの追放(1573年1月~6月)
ここまで何度も「反信長連合」という言葉を使ってきました。信長にとっての「影のネットワーク」を操っていたのは、室町幕府第15代将軍の足利義昭です。
ただ足利義昭は1568(永禄11)年の上洛以来、表面的には信長と対立しているようには見せていませんでした。しかし1573(元亀4)年1月、突如して両者の抗争が目に見えて明らかになります。
信玄が西上すると言う知らせを聞いた義昭は、近江国の石山及び今堅田に砦を築き始め信長に対抗。それを知った信長は逆に室町将軍の御座所となっている二条城を攻撃。義昭は投降し、信長は義昭を河内国の若江に放逐します。
その後も同年7月に今度は山城国の宇治にある槇島城で挙兵をしますが敗退。信長は義昭に京からの追放を言い渡します。この「槇島城の戦い」における敗北で室町幕府は完全に滅亡したとされています。
なお「槇島城の戦い」で敗れた足利義昭(尾上右近)が織田信長から京からの追放処分を言い渡されると言う場面は、「豊臣兄弟!」の17話「小谷落城」の前半で描かれるでしょう。
浅井長政の自刃と浅井家の滅亡(1573年8月~9月)
朝倉義景の自害(1573年8月)
「反信長連合」から比叡山延暦寺だけでなく、武田信玄、足利義昭が次々と脱落し、信長は浅井・朝倉への包囲網を確実に狭めていきます。
1573(天正元)年8月8日、横山城の木下藤吉郎秀吉は、浅井家重臣の1人で山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)の調略に成功。小谷城は完全に孤立しました。
朝倉義景は軍勢を率いて孤立無援の小谷城に加勢を試みようとしますが、小谷城下にはすでに織田勢がひしめいており、朝倉勢は容易に近づくことができません。
逆に木之本(現在の滋賀県長浜市木之本町)まで退き、織田勢と決戦するも3,000以上の戦死者を出す惨敗を喫することに。さらに本城がある越前国・一乗谷まで追撃を許してしまい、朝倉義景は最終的に自害にまで追い込まれました。
父・浅井久政が自害(1573年8月27日)
8月27日、信長は藤吉郎に命じて小谷城の総攻撃を始めさせます。藤吉郎は手勢とともに夜陰に紛れて小谷山を上り、まず小谷城の京極丸を攻撃に取り掛かります。
京極丸を奪取した藤吉郎は小丸への攻撃を開始。小谷城の小丸は浅井長政の父・浅井久政の居住スペースで、久政はもはや防戦ができないと判断し自害。
自害した浅井久政の首は藤吉郎から、虎御前山を本陣としていた信長に献上されたと言われています。
浅井長政が自害し浅井家が滅亡
翌28日には信長自ら京極丸まで上り、そこから藤吉郎と兵たちの陣頭指揮をあたることに。すなわち信長は秀吉に浅井長政が籠る小谷城本丸への攻撃を命じます。長政も自らの手勢とともに奮戦。
しかし長政はもはや抵抗が敵わないと見ると、家臣に命じてお市の方と三人の娘(茶々・江・初)を連れ出させ、藤吉郎の手を経由して信長のもとに送り届けます。
信長に妻と3人の娘を託した浅井長政は自刃。浅井長政が自刃した日にちについては、1573(天正元)年8月28日もしくは9月1日であると言われています。
ここに北近江の戦国大名である浅井家は完全に滅亡することになりました。
なお浅井長政が妻・お市と三人の娘を藤吉郎・小一郎(仲野太賀)の兄弟に託して、自刃をするという場面は「豊臣兄弟!」の17話「小谷落城」の後半で描かれるでしょう。
「織田信長と戦い、あと一歩というところまで追い詰めたことは、わしの誇りじゃ。だからこそ…ここで終わらせてくれ」
浅井長政が死去したのちの江北3郡は羽柴藤吉郎秀吉の領地に
浅井家の滅亡前から始まっていた江北3郡の戦後処理
浅井長政が自刃をして浅井家が完全に滅亡するのは、1573(天正元)年の8月下旬から9月初旬の出来事です。
しかし実はそれ以前から浅井家が統治していた江北3郡(近江国浅井郡・坂田郡・伊香郡)の実効支配は織田家に移りつつありました。
藤吉郎は、織田・浅井両軍の戦闘行為に巻き込まれることを恐れ、村々を逐われていた住民らに帰還することを促進。
浅井長政が自害することに先立つ8月11日には、自らの配下にいる足軽などの下級兵士が乱妨狼藉に至った場合、その取り締まりをすることを保証していました。
さらにその秀吉の政策を実行するために、弟・小一郎長秀は、8月16日に近江国伊香郡黒田郷(現在の滋賀県長浜市木之本町)の百姓たちに宛てて、次の書状を発給していたことが分かっています。
黒田の百姓衆、何れも還住せしむるうえは、乱妨狼藉の儀、ある間敷候、もし違乱の族これあらば、急ぎ注進申し越すべく候、謹言、
木下小一郎
八月十六日 長秀(花押)
黒田の郷 惣百姓中柴 裕之. 羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書) (p. 54). (Function). Kindle Edition.
【現代語訳】
黒田の百姓たちは、いずれも元の土地に帰り住まわせるのであるから、乱暴や略奪などの行為があってはならない。もし法を乱す者があれば、すぐに報告するようにしなさい。以上、謹んで申し渡す。
八月十六日
木下小一郎長秀(花押)
黒田郷の百姓たちへ
なおこの木下小一郎長秀が近江国伊香郡黒田郷に宛てた書状は、現在のところ、豊臣秀長本人が記した書状で現存する最古のものである考えられています。
羽柴秀吉による近江国浅井郡・坂田郡・伊香郡12万石の統治が始まる
こうして1570(元亀元)年4月の「金ヶ崎の退き口」以来の宿敵であった浅井長政を滅ぼした織田信長は、その戦功として第一に評価したのが、横山城の城将であった羽柴藤吉郎秀吉でした。この頃、すでに藤吉郎の苗字は「木下」から「羽柴」に変わっていたと考えられています。
さて、浅井・朝倉二氏が滅亡し、江北の平定を見ると、信長は、直ちに諸将を岐阜に会し、大いに功罪を論じ、賞罰を行なったが、木下藤吉郎をもって行賞第一とし、小谷山城に浅井氏の旧領である江北三郡十二万石の地を添えて、与えたのであった。これ、すなわち、元亀元年以来、はじめは横山城、のちには虎御前山城を守って、浅井氏の本拠小谷山城に対し、浅井氏、ひいては越前の朝倉氏までを押え、遂に二氏滅亡の機運をもたらすに至った多年の功績を賞したのであるが、一つには、江北が鎮定すれば、その地を恩賞せんといった兼約を、信長が果たしたわけであった。
桑田 忠親. 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (p. 192). (Function). Kindle Edition.
旧・浅井領である近江国浅井郡・坂田郡・伊香郡の合計12万石の地はそっくりそのまま、秀吉が統治することになりますが、すなわち秀吉は織田信長配下の領国大名と取り立てられたことを意味します。
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豊臣兄弟!浅井長政 どうなる 参考文献
今回の記事は下記の6冊の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- NHK2026年 大河ドラマ 豊臣兄弟!完全ナビブック (ウォーカームック) KADOKAWA
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
