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豊臣兄弟! 弥助(上川周作)のちの三好吉房 ともの夫

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目次

豊臣兄弟!の弥助(やすけ)について

豊臣兄弟!の弥助とは

NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で上川周作さんが演じる弥助(やすけ)とは、のちに三好吉房(1534~1612年)と名乗る人物のことです。

「豊臣兄弟!」で宮澤エマさんが演じるとも瑞竜院殿日秀尼)と結婚し、3人の子供(豊臣秀次豊臣秀勝豊臣秀保)の父親となります。

豊臣兄弟! 弥助の役柄

豊臣兄弟の姉・ともの夫。のちの三好吉房。小一郎たちが清須に家族を呼び寄せた後は、彼らを手伝い武士となる。ともとの間に、3人の男子をもうける。

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豊臣兄弟! 弥助 役 上川周作さんプロフィール

1993年生まれ、大分県出身。

NHKでは大河ドラマ「真田丸」、「西郷どん」に、連続テレビドラマ小説「べっぴんさん」、「まんぷく」、「虎に翼」などに出演。

豊臣兄弟! 弥助(三好吉房)の名前と出自

豊臣兄弟! 弥助の名前

「弥助」という名前は「祖父物語」に記述されている名前です。

NHKは弥助の役柄についてのちにの名乗る名前を「三好吉房」と説明しています。「三好吉房」のうち「三好」という苗字は、後述するように長男の次兵衛が三好康長の養子となり、「三好孫七郎信吉(みよしまごしちろうのぶよし)」と名前を改めたことから来ているものでしょう。

なお弥助ののちの名前については「三好吉房」のほかに、「三好常閑(じょうかん)」・「武入常閑(ぶにゅうじょうかん)」・「三位法印(さんみほういん)」などと呼ばれることもあります。

豊臣兄弟! 弥助の出自

ともの夫である弥助がどのような出自の人物であるかについては、はっきりしたことは分かっていません。

武士となる前は、尾張国海東郡乙之子村(現在の愛知県あま市乙之子)で鷹匠の配下で働く綱差(つなさし)、もしくは馬貸し業を営んでいた可能性が高いとされています。

豊臣兄弟! 弥助(三好吉房)の動向

長男・豊臣秀次の動向と合わせて見る弥助の動向

のちに三好吉房と名乗る弥助は、さまざまな名前を名乗っていたことは分かっているものの、本人は何をした人物であるのかよく分かっていません。

長男の豊臣秀次が1590(天正18)年7月に尾張一国57万石を所領としたときに、尾張犬山城主として10万石の所領を収めていたことが分かっているだけです。

弥助こと三好吉房がどういう人物であったかは、長男の豊臣秀次の動向と合わせて見た方が分かりやすいでしょう。

長男・次兵衛(のちの豊臣秀次)を宮部継潤の「養子」に出す

1571(元亀2)年ごろ、弥助とともの夫妻は長男の次兵衛(治兵衛)を、北近江の大名・浅井長政の家臣であった宮部継潤(ドンペイ)のもとへ「養子」として送り出しています。

当時、秀吉は織田家の武将として北近江の浅井長政を攻撃中。浅井の本城である小谷城に横山城という「付城」を築き、本城と支城の分断工作をはかっていました。

その支城は宮部城も含まれており、秀吉は宮部継潤に対して織田家への寝返りを打診。そのため秀吉は宮部継潤が織田家に寝返った後に身の安全を保証するために、甥の次兵衛(秀次の幼名)を宮部継潤の「養子」として差し出したと見られています。

この点で、『関白秀次評伝』の著者荒木六之助氏は、「実際には、秀吉の方が頭を下げて、人質がわりにその甥を継潤のもとへ送ったとみるべきである」と述べているが、たしかにその可能性はある。この段階の秀次は、養子といっても、人質のような形で差し出されたとみてもまちがいではないからである。

小和田 哲男. 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) (p. 20). (Function). Kindle Edition.

引用した文章にある通り「養子」とは言うものの、次兵衛の実質的な立場は「人質」です。弥助は秀吉の義理の兄とは言え、力関係から次兵衛を「人質」に出そうとする秀吉の意向には逆らえなかったのでしょう。

形式的には「養子」であった当時の次兵衛は、1581(天正9)年までには元服を済ませ名前を「宮部次兵衛尉吉継(みやべじひょうえのじょうよしつぐ)」と改称。

秀次はさらに宮部継潤から三好康長の養子に

実は弥助の長男・次兵衛は宮部継潤だけでなく、阿波の大名である三好康長のところにも養子へ出されています。

1582(天正10)年6月2日に発生した本能寺の変で織田信長が敗死したことがもとで、今度は阿波国の大名である三好康長のもとへ養子へ出されることになります。

同年6月27日に織田家重臣の間で行われた「清須会議」で、羽柴秀吉は新たな所領として山城と丹波の2カ国が加増。秀吉は宮部継潤の存在をはるかに超えることになりました。

その一方で「清須会議」の結果、秀吉のライバルの1人となった信長の三男・織田信孝が土佐の長宗我部元親と誼みを通じる動きを見せていたため、阿波国の三好康長を自分の味方として取り込んでおく必要が生じます。

そこで秀吉に目をつけられたのが、宮部継潤の養子となっていた「宮部吉継」です。1582(天正10)年10月ごろまでには宮部吉継は宮部継潤との養子縁組は解消され、新しく三好康長と養子縁組。名前を「三好孫七郎信吉(みよしまごしちろうのぶよし)」と改めます。

羽柴秀吉とその一族」によると、「孫七郎」という仮名は三好家の男子に因む名前で、実名「信吉」の「信」の字は織田信長、「吉」の字は羽柴秀吉に因むものと指摘しています。

三好吉房 関連記事と参考文献

三好吉房 関連記事

三好吉房については「三好常閑」として下記の記事でも言及しています。

三好吉房 参考文献

今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。

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戎光祥出版
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