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豊臣秀勝 豊臣兄弟!ともの次男 豊臣秀勝 領地の変遷

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目次

豊臣秀勝の名前について

豊臣秀勝とは

豊臣秀勝(とよとみひでかつ)(1568~1592年)とは、豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀(大河ドラマ「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)と三好吉房の次男で、秀吉の後に関白に就任する豊臣秀次の弟にあたる人物です。

豊臣秀勝は豊臣一門衆の大名として、豊臣秀長・豊臣秀次に次ぐ三番目の地位にあり、近江国勢田・丹波国亀山・美濃国大柿(大垣)・甲斐国・美濃国岐阜などを領国として治めていた大名であったことが知られています。

豊臣秀勝の名前

豊臣秀勝の通称は「小吉(こきち)」で実名が「秀勝」とされています。「小吉」という通称が幼名としても使われていたかどうかは分かりません。

また1587(天正15)年正月に右近衛権少将に任官していたことから、「羽柴丹波少将」や「羽柴大柿少将」、「羽柴甲斐少将」、「羽柴岐阜少将」などと称され、さらに1592(天正20/文禄元)年には参議に昇進したことから「羽柴岐阜宰相」と称されることもあります。

3人の秀勝

豊臣秀吉の親族を調べていると「秀勝」という実名を名乗った男性は3人いることが分かります。

スクロールできます
名前生年と死没年説明
羽柴秀勝
(石松丸)
?~1576年秀吉の側室・南殿との間にできた実子
羽柴秀勝
(於次丸)
1568~1585年元は織田信長の五男で秀吉・寧々夫妻の養子
豊臣秀勝
(小吉)
1568~1592年瑞竜院殿日秀尼と三好吉房の次男

このため豊臣秀勝は他の秀勝と区別するために、現代では「小吉秀勝(こきちひでかつ)」と呼ばれることがあります。

なお「3人の秀勝」を比較するために「秀勝 3人 羽柴秀勝(石松丸) 羽柴秀勝(於次丸) 豊臣秀勝(小吉)」という関連記事も公開しています。合わせて参考にしてください。

豊臣秀勝の出自と家族

豊臣秀勝の出自

豊臣秀勝は、豊臣秀吉・秀長兄弟の姉にあたる瑞竜院日秀と三好吉房の次男です。つまり豊臣秀保は豊臣秀吉・秀長兄弟とは甥と叔父の関係にあります。

豊臣秀勝の家族

豊臣秀勝には兄と弟がそれぞれ1人ずついます。兄は豊臣秀次で、弟はのちに豊臣秀長の後継者となる豊臣秀保です。

また豊臣秀勝は1585(天正13)年に浅井長政の三女・江(ごう)と結婚しており、名前不明の女子と完子(さだこ)という女子を設けました。なお秀勝・完子の家系は豊臣一門の中で最も長く子孫を残しています。

豊臣秀勝の家系図については下記の記事を参考にしてください。

豊臣秀勝 領地の変遷

最初の所領は近江勢田・摂津安岡寺・摂津富田宿久

豊臣秀勝が史料で初めて登場するのは1585(天正13)年のことです。豊臣秀吉が家臣の一柳直末に宛てた手紙に近江国勢田城を与えたことが記されています。

当時の秀勝は近江勢田(現在の滋賀県大津市)に加えて、摂津安岡寺・摂津富田宿久(いずれも(現在の大阪府高槻市)などにも所領があったと考えられています。

於次丸秀勝の後に丹波亀山に入国

1585(天正13)年12月10日、丹波亀山(現在の京都府亀山市)の領国大名であった秀吉の養子・羽柴秀勝(於次丸)が亡くなります。代わって亀山に入国したのは、豊臣秀勝(小吉)で勢田城から亀山城を本拠を移動。

1587(天正15)年正月に右近衛権少将に任官したことから「羽柴丹波少将」と称され、名実ともに豊臣一門衆の大名として、豊臣秀長・豊臣秀次に次ぐ三番目の地位を確立します。

丹波亀山から美濃大柿(大垣)に転封

しかし、秀勝にとって丹波亀山28万石の領地を不満に感じたのでしょうか。

多聞院日記」の1589年7月27日の記述によると、秀勝は叔父・秀吉に対して亀山は領地高が少ないと不満を訴えたことで勘当を受け、亀山よりも領地が少ない美濃大柿(大垣)に転封処分を受けてしまいます。

このことによって秀勝は「羽柴大柿少将」と称されるようになります。

甲斐一国を賜るもすぐに美濃岐阜へ転封

1590(天正18)年7月、小田原征伐後の関東仕置(関東地方の領土配分)において、秀勝は甲斐一国22万石が領国として設定され、甲府の躑躅ヶ崎城(つつじがさきじょう)をを本拠とします。同年8月には郡内・河内地方において検地も実施。

ただ秀勝による甲斐の統治はわずか8ヶ月をもって終了し、美濃岐阜13万3,000石に転封が決定。この国替には秀勝の母・瑞竜院日秀の口ききがあったとも言われています。

だが、秀勝の甲府支配は、わずか八ヶ月余をもって終わりを告げた。天正十九年三月頃、秀吉は秀勝に美濃国岐阜(岐阜県)へ国替を命じた。その理由は、秀勝生母の嘆願によるものと言われている(『甲府市史』通史編第一巻原始・古代・中世)

黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版 267ページ

1592(天正20)年正月には参議に昇進したことから、「羽柴岐阜宰相」と称されるようになります。

その後の豊臣秀勝

朝鮮出兵では兵8,000で出陣

近江勢田・丹波亀山・美濃大柿・甲斐・美濃岐阜と所領を転々とした秀勝ですが、岐阜から所領が転封させられることはありませんでした。

1592(文禄元)年の朝鮮出兵(文禄の役)においては、兵8,000をもって壱岐での在陣を命じられます。

「羽柴秀吉とその一門」によると、秀吉は朝鮮の統治に関しては秀勝あるいは宇喜多秀家を配置することを検討していたことから、一門衆として秀勝を決してないがしろにはしていなかったことがうかがえます。

朝鮮・巨済島で病死

同年7月9日には秀勝は秀吉からの命令で対馬から朝鮮への渡海が命じられ、14日には巨済島(現在の韓国・慶尚南道巨済市)にまで進軍。同島で秀吉の御座所とするための城普請に取り掛かります。

しかし藤堂高虎が豊臣秀吉に送った書状によると、豊臣秀勝は9月5日までには病気に罹ってしまい、同月9日に亡くなったことがわかっています。

秀勝には後継者となるべき男子はおらず、江との間にもうけていた名前不明の女子の婿である織田秀信が岐阜の領地を継ぐことになりました。

豊臣秀勝 関連記事と参考書籍

豊臣秀勝 関連記事

豊臣秀勝の家族となる瑞竜院殿日秀尼・三好吉房・豊臣秀保については下記の記事でそれぞれ詳しく紹介しています。

豊臣秀勝 参考書籍

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。柴裕之さんと黒田基樹さんは、いずれも2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:柴 裕之
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著:黒田 基樹
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