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一の台 豊臣秀次の正室 菊亭晴季の娘 秀次切腹事件で処刑される

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目次

一の台の名前について

一の台とは

一の台(いちのだい)とは(1562~1595年)とは、右大臣・菊亭晴季(きくていはるすえ・今出川晴季)の娘で、豊臣秀次(2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の藤吉郎の甥)の正室(正妻)だった女性です。

1595(文禄4)年7月に「豊臣秀次切腹事件」が発生した際に秀次の財産から金子を隠し、さらに重要書類を焼き捨てたことから、豊臣秀吉の激しい怒りを買い同年8月2日に処刑された女性として知られています。

一の台の名前

「一の台」という名前は「一番目の御台所」という意味です。つまり「豊臣秀次の正妻だった」ということを表します。

豊臣秀吉の正妻(正室)で、秀吉の関白就任後に「北政所(きたのまんどころ)」と呼ばれた「寧々」のように、一の台にも秀次と結婚する前に使われていた名前があったはずですがその名前は現在に伝わっていません。

豊臣秀次の正妻(正室)は2人いた

実は豊臣秀次には一の台以外にも、若政所(わかまんどころ)という正妻(正室)がいたことが知られています。

当時の慣習として上級武士が複数の妻を持つことは当たり前で、正妻(正室)1人に複数の別妻(側室)がいるという構成が一般的でした。

しかし豊臣秀次の場合、若政所との結婚は羽柴家(当時)と池田家の政治的つながりを強固にするためであり、一の台との結婚は実家が右大臣家という高位の家であったことから、正妻(正室)は2人いたと考えられています。

秀次が、天正十年(一五八二)六月の山崎の戦いのころ、信長の重臣の一人だった池田恒興の娘と結婚したことはすでにみた通りである。いつ結婚したのかはわからないが、秀次が関係した女性たちのランクからいって、彼女が秀次の正室だったことはまちがいない。
 ただ、問題なのは、菊亭、すなわち今出川晴季の娘もランクとしては上で、しかも、いまここに引用したように「一の台」とみえる。「一の台」は、「一の御台所」の意味で、正室をさす。ということは、秀次には二人の正室がいたことになるのではないか。池田輝政の妹を「わかまんどころ」、すなわち、若政所といっているところをみると、「一の台」の菊亭晴季の娘の方が、「若くない方の政所」ととらえられていたものと思われる。

小和田 哲男. 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) (pp. 191-192). (Function). Kindle Edition.

一の台の出自と家族

一の台の出自

一の台の父親は菊亭晴季という公卿です。

晴季は朝廷と豊臣家を取り結ぶ「豊臣伝奏(武家伝奏)」の役割を担っていたため、当時の朝廷で重きをなす存在で、その官位は右大臣という極めて高いものでした。

一の台の家族

一の台の家族には父親の菊亭晴季がいるほか、「太閤さま軍記のうち(大かうさまくんきのうち)」では「おみや」という名前の娘がいたと記されています。

一の台の動向

秀次死後に重要文書を焼き捨て金子を隠す

「豊臣秀次切腹事件」が発生したのは1595(文禄4)年7月15日で、一の台を含む秀次の妻子ら39人が京の三条河原で処刑されたのは同年8月2日の出来事です。

この間に一の台は反故(何らかの文書)を焼き捨て秀次の財産の一部を実家の菊亭家に運び込んだとという内容が、伝「大外記中原師生母記」という日記に記述されています。

伝『大外記中原師生母記』は正親町院の女房だった播磨局(中原師生姉)が記したもので、文禄四年は日次記と別記の二つが残され、どちらにも秀次事件の記載がある。
(中略)
播磨局によれば「くはんはく(関白)とのかうや(高野)へ御はしりのまきれ」に「かね」が無くなり、反故が焼き捨てられた。これは晴季の娘で秀次の上﨟である一の台によるもので、城を退去する折に反故を焼き、金は実家菊亭家に運び込んだという。そのため一の台は「おそろしききうめい(糾明)に御あい」と厳しく追及された。

黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版 260ページ

一の台が実家に持ち去った「かね(金)」は禁裏への献金に使われたと考えられていますが、焼き捨てた「反故」には何が書かれていたのか分かりません。

羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究)」の「Ⅴ 豊臣秀次事件と金銭問題」を担当した遠藤珠紀さんによれば、一の台がやったことのうち金銭を持ち去ったこと以上に「反故」を焼き捨てたことの方を問題視し、このときの一の台は自身にとって不都合な文書を焼き捨てた可能性が高いと指摘されています。

一の台は秀次妻子ら39人とともに処刑

また遠藤珠紀さんは同じ稿において秀次が切腹したのち、駒姫を含むその妻子ら39人が秀吉の命令によって処刑されたのは、一の台が行った「秀次謀反」の嫌疑を大きくかき立てるような対応も1つの原因だったのではないかと推測されています。

いずれにせよ一の台は、1595(文禄4)年8月2日に秀次の側室や子供たちと同様に車に乗せられて市中引き回しの辱めを受けたのち、物々しい警備の中で辞世の句を残して斬首されたことが「太閤さま軍記のうち」の中で描写されています。

なお一の台の父親である菊亭晴季は、8月2日の処刑に先立つ7月25日に秀吉から越後国への流罪に処されることを奏上され、翌26日には京を出立。

その後の詳しい行方は不明ですが、京から越後までの道中において殺害されたという噂もあったようです。

一の台の関連記事と参考文献

一の台 関連記事

一の台の夫である豊臣秀次については下記の記事で言及しています。

一の台 参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」において時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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戎光祥出版
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著:小和田 哲男
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