豊臣秀長の妻たち 慶(慈雲院)と摂取院光秀について
2人の妻がいた豊臣秀長
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(小一郎)(仲野太賀)には2人の妻がいたとされています。
1人は吉岡里帆さん扮する慶(ちか)こと慈雲院殿という正妻(正室)と、もう1人は摂取院光秀という別妻(側室)です。果たして2人はどんな女性だったのでしょうか?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されている柴裕之さんが編著をしている「豊臣秀長」と、同じく時代考証を担当されている黒田基樹さんの「羽柴秀吉とその一族」に基づいて解説をいたします。
慶(慈雲院)とはどんな人だったのか?
「豊臣兄弟!」 慶の役柄
NHKは「豊臣兄弟!」において、吉岡里帆さん扮する慶(ちか)のちの慈雲院の役柄をこのように説明しています。
小一郎の正妻。のちの慈雲院(じうんいん)。
激動の時代を生き抜き、やがて兄嫁の寧々とともに豊臣兄弟を支える存在となる。夫の秀長が大和国の統治を任されると、ともに大和郡山城に入り、夫の晩年まで連れ添う。
「慶」という名前について
NHKは豊臣秀長の正妻となる女性に「慶(ちか)」という名前をつけました。しかしこの女性が実際に慶という名前を名乗っていたかは不明です。
「豊臣秀長」と「羽柴秀吉とその一族」のいずれも、「慈雲院」という法号は確かなものであるとしていますが、俗名は明らかになっていないと説明しています。
一方、豊臣秀長の正妻の法号は、高野山奥之院にある五輪塔から正確には「慈雲院芳室紹慶」と伝わっています。よって「豊臣兄弟!」の「慶」の名前は、この法号にちなんでつけられた創作であると考えられます。
慶の生まれた年
NHKは「(慶は)兄嫁の寧々とともに豊臣兄弟を支える存在となる」と説明しています。
しかし慶は、兄嫁の寧々(浜辺美波)がどういう出身の女性であるか明らかになっているのとは異なり、生まれた年も含めて出自は全くの不明です。
「羽柴秀吉とその一族」では、慶こと慈雲院は1549(天文18)年ごろの生まれと推定し、その場合は小一郎よりも9才年下と考えられます。
慶と小一郎との結婚
小一郎と慶こと慈雲院の結婚は、1566(永禄9)年ごろと推定されます。
一方、藤吉郎秀吉(池松壮亮)と寧々の結婚は1565(永禄8)年です。NHKは「やがて兄嫁の寧々とともに豊臣兄弟を支える存在となる」としているのは、史実に迫る設定であると考えられるでしょう。
慶と小一郎との子供について
慶こと慈雲院はおおよそ1568(永禄11)年ごろに、小一郎との子供として与一郎という男子を出産します。
この男子は「木下与一郎(きのしたよいちろう)」という人物で、1582(天正10)年に10代半ばで亡くなるまでは小一郎の跡目を継ぐ嫡男と考えられていました。
慶と小一郎との間にできた実子は与一郎のみです。いわ・藤堂高吉・きく・秀保といったその他の息子・娘たちはすべて他の家で生まれた養子です。
慶は何をした人?
慶こと慈雲院の動向は、小一郎がのちに豊臣秀長を名乗って大和郡山城に入城して以降、「多聞院日記」や「駒井日記」に散見されます。
それらによると秀長とともに奈良・興福寺の法華会に参詣したり、秀長の母・なかこと天瑞院殿と春日社に参詣していいます。これらの記述から推察すると、慶は秀長との間に円満な家庭を築いていたのではないかと考えられます。
なお、1595(文禄4)年に秀長の後継者であった羽柴秀保が亡くなると、秀長の家系は断絶します。しかし慈雲院はその後も大和国中之庄村・窪之庄村(現在の奈良県奈良市)などで、2,000石余りの知行地を有していました。
「智雲院」という名前について
なお慶こと慈雲院は「智雲院」という名前で表されることもありますが、「羽柴秀吉とその一族」は「智雲院」という名称は誤りであると明確に否定しています。
秀長の正妻は、法号を慈雲院殿といった人物である。なお法号について、「森家先代実録」(刊本九九頁)には「智雲院」と記されていて、そのためその表記で示される場合もみられているが、正しくは慈雲院殿である。
黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (Function). Kindle Edition. No.2675
同書は1591(天正19)年から1592(文禄元)年の間に作成された「誓願寺奉加帳」に、亡き秀長の菩提を弔って「大和様慈雲院殿」が柱を奉加していることが記載されていることをもって、その証拠としています。
摂取院光秀とはどんな人だったのか?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」と摂取院光秀
2025年6月1日の時点でNHKは大河ドラマ「豊臣兄弟!」において、豊臣秀長が側室を持つかどうかについては、まだ言及していません。
今後、「豊臣兄弟!」の出演者発表に、摂取院光秀にあたる女性の俳優が起用されることを期待します。
摂取院光秀という名前について
豊臣秀長の別妻は「多聞院日記」の記録から小一郎秀長の家臣・秋篠伝左衛門尉(あきしのでんざえもんのじょう)の娘で、法号は「摂取院光秀」ということは分かっていますが、俗名は明らかになっていません。
なお「椰馬土(やまと)名勝志」によると秋篠伝左衛門尉はもともと筒井順慶の家臣でした。
しかし「多聞院日記」によると豊臣秀長が兄・秀吉より大和国を与えられた頃には、秋篠伝左衛門尉は秀長にとって古参の家臣であった横浜良慶や小堀正次と活動を共にするようになったと伝えられています。
摂取院光秀の生まれた年
「椰馬土(やまと)名勝志」では摂取院光秀の亡くなった年(1622年)と享年(71才)が記載されています。その記述から生まれた年を逆算すると、摂取院光秀は1552(天文21)年になります。
このことから摂取院光秀は、1540(天文9)年生まれの豊臣秀長よりも12才年少であることが分かります。
摂取院光秀と秀長の結婚
小一郎と慶の結婚時期が「推定」であるのと同じく、摂取院光秀と秀長の結婚時期は特定することはできません。
ただ、摂取院光秀は1587(天正15)年ごろには秀長の長女を「思いがけず出産」したと考えられているので、同じ時期に2人は結婚し、摂取院光秀は別妻(側室)の立場になったと考えられます。
摂取院光秀と秀長の子供
摂取院光秀は秀長との間には一女を出産します。ただしこの女子の名前は後世に伝わっておらず、俗名も法号も不明です。のちにこの女子は秀長の後継者で養子の羽柴秀保と1591(天正21)年に結婚し、「秀保の妻」となります。
摂取院光秀は何をした人?
秀保は秀長の後継者であったあっため、摂取院光秀は豊臣秀長家での立場は強くなったと考えられますが、秀長が同年に亡くなった後は比丘尼として弘文院に入寺。
1595(文禄4)年に秀保が亡くなると、秀長の家系は断絶しますが、摂取院光秀は豊臣秀吉から大和国新堂村(現在の奈良県橿原市)で200石の知行が与えられます。