豊臣秀長を死に追いこんだ病気とは
豊臣秀長の病気とは何だったのか
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、仲野太賀さん扮する豊臣秀長が主人公です。豊臣秀長は「秀吉の名代」や「豊臣政権の宰相」と言われたほどの人物ですが、1591(天正19)年に病気のために大和郡山城で亡くなります。享年51(満年齢)
豊臣秀長の死は「病気のため」と後世に伝わっていますが、実際のところはどんな病気だったのでしょうか?
豊臣秀長の死因に関する参考文献
豊臣秀長の死因に関する今回の記事は以下の資料を参考にしています。
「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 」を編著した柴裕之さんは、NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
豊臣秀長の「本当の死因」について
1587年ごろから霍乱になっていた豊臣秀長
「豊臣秀長の年表」によると、実は朝廷から「従二位権大納言」の官位を授けられた1587(天正15)年ごろから、霍乱(かくらん)に悩むようになっていたことが、「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」の282ページで指摘されています。
霍乱とは、夏に起きやすい激しい吐き気・下痢などを伴う急性の病気のことを指します。
豊臣秀長には長年の戦陣の疲れがたまっていたか
豊臣秀長の死因は通説では「病気」となっていますが、具体的な病名は明らかになっていません。
しかし「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」の321ページでは、1583年(天正11)年から1586(天正14)年にかけての度重なる出陣(紀州征伐・四国征伐・九州征伐)や領土仕置(四国国分・九州国分)のために、戦陣の疲れがたたったのではないかと指摘しています。
秀長の寿命を縮めたのは「働き過ぎ」か
また豊臣秀長は大友氏・小早川氏・徳川氏・島津氏などの諸国の有力大名たちからの信頼も厚く、「公儀之事」に関するさまざまな相談事が持ち込まれていたと考えられています。
その中には豊臣政権の機微に触れることや、大名間の利害調整に関わることもあったはずです。霍乱に悩んでいた秀長は相談のたびに体力や神経をすり減らし、体の抵抗力や免疫力をさらに弱めていたことでしょう。
魑魅魍魎が跋扈する戦国・安土桃山時代ですから、豊臣秀長は病気で亡くなったように見せかけて、暗殺または毒殺されたことも考えられるかもしれません。
しかし、豊臣秀長の人柄や業績を振り返ると、秀長の「本当の死因」とは「働き過ぎによる過労」だった可能性の方が大きいと思われます。
豊臣秀長の最期
豊臣秀長の病状は一時回復した
1590(天正18)年、兄・豊臣秀吉は小田原征伐のために関東に出陣しますが、弟・秀長は病気のため参陣できず、上方における留守居役となります。「多聞院日記」の1590(天正18)年3月3日の箇所には、「既ニ死ヲ深ク隠スヤ」と書かれているほどです。
ただこのときは秀長の病状は一時的に回復。東大寺八幡宮の造営を監督したり、社寺の所領を安堵する旨の書状を出したりしています。
しかし秀長はこれらの無理がたたったのか、1590(天正18)年9月ごろから病の状況は再び重篤なものとなります。
豊臣秀吉が見舞いに訪れるも回復せず
秀長が再び倒れたことを聞いた豊臣秀吉は、1590(天正18)年3月に小田原征伐前に見舞いをしたことに続き、同年10月19日に再び大和郡山に赴き、秀長の見舞いと春日社へ5,000石の寄進を行なっています。
しかし、秀吉はこのときの見舞いによって、秀長がもう長くは保たないことを悟ったのでしょう。
秀長の死後には、秀長の養子・秀保(秀長の姉・「とも」こと瑞竜院殿の三男)が跡目を継承すること、筆頭家老の横浜良慶(一庵法印)が後見人となって秀保を盛り立てることを決めていたことが、「多聞院日記」の10月20日の箇所で示されています。
豊臣秀長 死後のエピソード
結局、豊臣秀長は1591(天正19)年1月22日、大和郡山城で死去します。
秀長の死後は、豊臣秀吉が秀長の死の直前に命令した通り、豊臣秀保が紀伊・大和2カ国を継ぎ、横浜良慶と小堀新介が政務を補佐することになります。
秀長が亡くなった直後の大和郡山城には金子は五万六千枚余、銀子は二間四方の部屋に棟までギッチリ積み上げられるほどの蓄えがあったと伝わっています。
また大和郡山城の城下町で商工業の発展に貢献した豊臣秀長は、民衆の手によって「大納言塚」が造営されました。歴史に「if」はありませんが、秀長が長生きしていれば、豊臣家の運命はまた違ったものを辿ったかもしれません。