100万石の大名となった豊臣秀長の領地とは
但馬国二郡支配の城代から大和・紀伊・和泉の3カ国の大大名になるまで
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は、仲野太賀さん扮する豊臣秀長(1540~1591年)です。
その豊臣秀長が戦国・安土桃山時代の封建領主として初めて歴史に名を刻むのは、1578(天正6)年のことでした。このとき秀長は38才で、竹田城の城代として但馬国(現在の兵庫県北部)のうち朝来郡と養父郡を支配することになります。
以降の文章では、竹田城の城代として但馬国の二郡を支配したことから始まって、大和・紀伊・和泉3カ国で100万石の大大名となるまで、豊臣秀長の領地と居城の変遷について詳しく説明します。
豊臣秀長の領地と居城に関する参考文献
なお今回の記事は以下の文献を参考にしています。
これらのうち「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 」を編著した柴裕之さんは、NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
豊臣秀長 領地と居城の変遷を詳しく説明
豊臣秀長 領地と居城の変遷に関する年表
豊臣秀長が生涯のうちに、領地として国・地域とその居城の変遷を年表形式にしています。豊臣秀長のその他の事績については、豊臣秀長 年表 時代・年代・年齢 大河ドラマ「豊臣兄弟!」の記事を参考にしてください。
西暦(和暦) | 年齢(満年齢) | 領地 | 居城 |
---|---|---|---|
1578(天正6)年 | 38才 | 但馬国のうち朝来郡と養父郡 | 竹田城 |
1580(天正8)年 | 40才 | 但馬国 | 出石城 |
1583(天正11)年 | 43才 | 但馬国・播磨国・丹波国福知山 | 姫路城 |
1585年(天正13)年3月 | 45才 | 紀伊国・和泉国 | 和歌山城 |
1585(天正13)年8月 | 45才 | 大和国・紀伊国・和泉国 | 大和郡山城 |
竹田城城代として但馬国の朝来郡・養父郡を支配
1577(天正5)年ごろから信長の命を受けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による、対毛利氏の中国征伐が本格化します。豊臣秀長は、兄の秀吉ともに出陣し、但馬国(現在の兵庫県北部)の竹田城に籠る太田垣氏を攻撃(第一次但馬攻撃)。
翌1578(天正6)年には竹田城の城代となり、但馬国のうち朝来郡と養父郡(現在の兵庫県朝来市と養父市)の支配を確立します。
出石城城主として但馬国を支配
豊臣秀長は1580(天正8)年ごろ第二次但馬攻撃を行い、但馬一国の支配を確立し居城を竹田城から出石城に移します。
このとき秀長は51年の生涯で40才のときに初めて「城持ち」かつ「国持ち」の大名となります。
姫路城主として但馬国と播磨国を支配
山崎の戦い(1582年)・賤ヶ岳の戦い(1583年)の過程で、豊臣秀長は戦功があったとして、1583(天正11)年に秀吉から播磨国の加増を受け、丹波福知山(現在の京都府福知山市)の経営も任されます。居城も但馬国にあった出石城から、かつて兄・秀吉が居城としていた播磨国の姫路城に移します。
と言ってもこのころの秀長は極めて多忙で領国に帰ることもままならなかったようです。
さらに播磨国には秀吉の直轄地も多かったため、播磨国における秀長の実際の支配地は飾東郡(現在の兵庫県姫路市)・多加郡(現在の兵庫県多加町)・加東郡(現在の兵庫県加東市)の3郡だけだったようです。
また丹波福知山についても、秀長は家臣の上坂意信(こうさかおきのぶ)を代官として派遣し行政を任せていたようです。
和歌山城主として紀伊国と和泉国を支配
1585(天正13)年3月に秀吉の紀州征伐に副将として参陣。太田城水攻めや根来寺焼き討ちののち、秀長は但馬・播磨国から紀伊・和泉国(現在の和歌山県と大阪府南部)に移封されることが決定。
和歌山城を築城し居城としますが、和歌山城の普請奉行には藤堂高虎・羽田正親・横浜良慶(一庵法印)の3名の家臣が任命され、築城の実務を担ったとされます。
また和泉国についての統治の実務も、やはり秀長の家臣が担っていたとされます。そのため和泉国の岸和田城代として桑山重晴が、和泉国上二郡(大鳥・和泉)の代官として羽田正親が、和泉国下二郡(南・日根)の代官として井上源吾(源五)がそれぞれ派遣されていました。
大和郡山城主として大和国・紀伊国・和泉国を支配
1585(天正13)年8月、四国征伐と四国国分(しこくくにわけ)の功として秀長は秀吉より大和国を加増。このとき居城を和歌山城から大和郡山城に移し、100万石を超える大大名となります。
秀長は居城を和歌山城から大和郡山城に移したことで、紀伊国の統治のために自分の家臣を要所に配置します。和歌山城代として桑山重晴、田辺城と新宮城には杉若無心と堀内氏善を入城させ、粉河では藤堂高虎に知行5,000石を与えます。
秀長が亡くなった後の領地について
こうした豊臣秀長による大和・紀伊・和泉の3カ国支配は、秀長が亡くなる1591(天正19)1月まで続きます。
秀長の死後は養子の秀保が3カ国のうち、大和・紀伊を秀長の遺領として引き続き統治をしますが、その秀保は1595(文禄4)年に亡くなります。
秀保には跡を継ぐ男子がいなかったため、大和・紀伊の所領は秀吉によって没収。代わって増田長盛が20万石として大和郡山城に入城。
秀保の死でもって秀長の家系による領国支配は消滅し、紀伊国で統治の実務を任されていた家臣たちは浪人となります。