豊臣秀長の息子たちについて
豊臣秀長の6人の子どもたち うち息子は3人
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(小一郎)(仲野太賀)には、息子と娘を合わせて6人の子どもたちがいたと言われています。
しかし豊臣秀長の6人の子どもたちすべてが、正妻(正室)の慶こと慈雲院と、別妻(側室)の摂取院光秀との間にできた実子というわけではありません。
実は豊臣秀長の子どものうち6人中3人までが、他家や親戚から引き取った養子でした。
木下与一郎・藤堂高吉・羽柴秀保について
今回は誰が豊臣秀長の実子であるのか、あるいは養子であるのかも含めて、3人の息子たち(木下与一郎・藤堂高吉・羽柴秀保)にしぼって紹介します。その紹介にあたって参考とした文献は以下のとおりです。
- 柴裕之編著「豊臣秀長」戎光祥出版 (2024年)
- 黒田基樹「羽柴秀吉とその一族」角川選書(2025年)
「豊臣秀長」の柴裕之さんと、「羽柴秀吉とその一族」の黒田基樹さんは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
2025年6月1日時点で、NHKは「豊臣兄弟!」において仲野太賀さん扮する小一郎の息子たちについては一才言及していません。以下の記事は今後の出演者発表で小一郎の息子たちが登場したときの「予習」となるでしょう。
木下与一郎(きのしたよいちろう)はどんな人だったのか?
木下与一郎は豊臣秀長の実子か養子か
木下与一郎は豊臣秀長の実子です。正妻の慶こと慈雲院との間にできた最初で最後の男子です。
木下与一郎の生まれた年
はっきりした生年は不明ですが、木下与一郎はおよそ1568(永禄11)年ごろの生まれであると推定されます。
木下与一郎の結婚と結婚相手
木下与一郎は、那古屋因幡守(なごやいなばのかみ)と養雲院殿の次女である岩(いわ)という女性と結婚します。
木下与一郎の子供
木下与一郎には実子・養子を問わず子供はいません。岩と結婚をしたと言っても、木下与一郎は10代半ば、岩は8才の出来事であり、しかも結婚後すぐに与一郎が早逝してしまったためです。
木下与一郎は何をした人か?
以上のように木下与一郎は、「秀長の嫡男であった」・「岩と結婚した」・「10代半ばで早逝した」ことが「森家先代実録」と「高山公実録」によって伝えられています。
しかし、木下与一郎はこれら以外にどういったことをした人物であるかは、まだ分かっていません。今後の秀長やその家族に関する研究が進むことが期待されます。
藤堂高吉(とうどうたかよし)はどんな人だったのか?
藤堂高吉は豊臣秀長の実子か養子か
藤堂高吉(とうどうたかよし)は秀長の養子で、実の父親は丹羽長秀です。
藤堂高吉の生まれた年
藤堂高吉は1579(天正7)年6月1日に近江国・佐和山城で丹羽長秀の三男として生まれます。幼名は千丸または仙丸。
藤堂高吉の結婚と結婚相手
正室に溝口秀勝の娘、側室に慶法院という女性がいました。
藤堂高吉の子供
藤堂高吉の子供たちとして、藤堂長正、藤堂長留(隼人、長直)、藤堂長之(主計、左門、織部、丹羽如水)、藤堂長則、藤堂長俊がいました。
藤堂高吉は何をした人か?
1582(天正10)年に秀長の後継者として考えられていた木下与一郎が亡くなったことのち、秀長の養子として迎えられました。
しかし1588(天正16)年ごろから甥の秀保を秀長の後継者とする政治的な動きがあり、千丸は秀長の与力であった藤堂高虎の嫡男として養子に出されることになります。
その後、藤堂高虎に実子の高次が誕生したことで高吉は廃嫡され、伊賀国名張(現在の三重県名張市)で2万石を有する伊勢安濃津藩の家老として存在するようになりました。
羽柴秀保(はしばひでやす)はどんな人だったのか?
羽柴秀保は豊臣秀長の実子か養子か
羽柴秀保(はしばひでやす)は秀長の養子です。実の父親は三好常閑で、母親は秀長の姉・ともこと瑞竜院殿。もともと秀長と秀保の関係は、叔父と甥の間柄でした。
羽柴秀保の生まれた年
羽柴秀保の生まれた年は1579(天正7)年です。幼名は御虎(おとら)。
1579年というと母・ともは46才に達しています。このことから秀保は、三好常閑と、ともの養子であったと考えられています。
羽柴秀保の結婚と結婚相手
1591(天正21)年に秀長と別妻(側室)・摂取院光秀との間にできた女子(名前不明)と結婚。
羽柴秀保の子供
秀保と1591年(天正21)に結婚した女子との間に子供をもうけることはなく、秀保には子供がいませんでした。
羽柴秀保は何をした人か?
秀保は1588(天正16)年ごろに秀長の後継者となるために秀長・慶こと慈雲院夫妻の養子となります。
1591(天正19)年に秀長が亡くなると、「大和中納言」として秀長の遺領であった大和・紀伊両国の支配を開始。その後、秀吉が始めた朝鮮出兵(文禄の役)に従軍することもありましたが、1595(文禄4)年に病気で亡くなります。享年17。