豊臣秀長 兄弟 とも・藤吉郎秀吉・あさひ 大河ドラマ 豊臣兄弟!

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豊臣秀長の兄弟たちについて

豊臣秀長の兄弟 姉 とも・兄 藤吉郎・妹 あさひ

NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(小一郎)(仲野太賀)は、姉・兄・本人・妹の4人兄弟であったと言われています。

姉とは「とも」こと瑞竜院殿(宮澤エマ)、兄とは豊臣秀吉(藤吉郎)(池松壮亮)、妹とは「あさひ(朝日)」こと南明院殿(倉沢杏奈)です。

このうち秀長の姉の名前を「豊臣兄弟!」で使われている「とも」と表記していますが、俗名は不明です。

豊臣秀長とその兄弟の父は同じ

1996年に放送されたNHK大河ドラマ「秀吉」では、とも・藤吉郎・小一郎・あさひの兄弟たちは、母親は同じであるものの、父親は異なるという設定でした。

大河ドラマ「秀吉」では、姉・ともと兄・藤吉郎は弥右衛門という男性が、秀長と妹・あさひについては竹阿弥という男性が父親で、いわゆる「たね違いの兄弟たち」として描かれています。

しかし、最近の研究では、とも・藤吉郎・小一郎・あさひの4人の兄弟たちの父親はすべて同じで、「妙雲院栄本」という法号を持つ男性であることが分かっています。

豊臣秀長の兄弟に関する参考文献

今回の記事で豊臣秀長の兄弟たちを紹介するために参考とした文献は以下のとおりです。

豊臣秀長」の柴裕之さんと、「羽柴秀吉とその一族」の黒田基樹さんは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。

とも(瑞竜院殿)はどんな人だったのか?

ともの生まれた年

ともこと瑞竜院殿が生まれた年は1532(天文元)年。弟・秀長から見ると8才年上の姉となります。

ともの結婚と結婚相手

ともの結婚相手は、尾張国海東郡乙之子村(現在の愛知県あま市)出身と伝えられている三好常閑(みよしじょうかん)です。

結婚した時期は不明ですが、長男・秀次が1564(永禄7)年から1568(永禄11)年ごろに誕生したとされていることから、1560年代ごろにともと三好常閑は結婚していたと考えられます。

ともの子供

ともと三好常閑の間には3人の男子がいました。長男の秀次・次男の小吉秀勝(こきちひでかつ)・三男の秀保です。このうち秀次と小吉秀勝は実子、秀保は養子と考えられています。

なお三男の秀保はのちに秀長の養子となり、秀長の後継者として「大和中納言」と呼ばれるようになります。

ともは何をした人か?

ともの長男・秀次はのちの関白・豊臣秀次であり、次男・小吉秀勝も一時期、豊臣秀吉の後継者と考えられていました。

また三男の秀保は実際に秀長の後継者となったことを考えると、ともは豊臣一門の後継者たちを育てたと言えるでしょう。

豊臣秀吉はどんな人だったのか?

豊臣秀吉の生まれた年

豊臣秀吉が生まれた年は1537(天文6)年。弟・秀長から見ると3才年上の兄となります。

豊臣秀吉の結婚と結婚相手

豊臣秀吉の結婚相手は側室を含めると多数存在します。主な女性は3人で、正室の寧々(浜辺美波)、側室の南殿と茶々(井上和)。

正室の寧々とは1561(永禄4)年、側室の南殿(みなみどの)とは1560年代から1570年代にかけての時期、同じく側室の茶々とは1580年代の時期に結婚しています。

豊臣秀吉の子供

豊臣秀吉には「秀勝」という名前の子供が2人います。区別をするために「次秀勝(つぎひでかつ)」と「石松丸秀勝(せきしょうまるひでかつ)」と呼ぶことにします。

寧々との子供

豊臣秀吉と寧々との間には2人の養子がいます。次秀勝(つぎひでかつ)(織田信長の四男・於次丸)と秀俊(のちの小早川秀秋)。

南殿との子供

豊臣秀吉と南殿との間には1人の実子がいます。石松丸秀勝(せきしょうまるひでかつ)。

茶々との子供

豊臣秀吉と茶々の間には2人の実子がいます。鶴松と豊臣秀頼。

豊臣秀吉は何をした人か?

豊臣秀吉とは言うまでもなく16世紀後半に天下統一を成し遂げた「太閤秀吉」のことで、日本史上最大の「サクセスストーリー」をつかんだ人物です。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の内容では、豊臣秀吉は無名の藤吉郎時代に、百姓だった小一郎に武士になることをすすめて、自分の家臣にすることになっています。

豊臣秀長はどんな人だったのか?

豊臣秀長の生まれた年

豊臣秀長の生まれた年は1540(天文9)年です。

豊臣秀長の結婚と結婚相手

豊臣秀長が結婚した女性は3人います。正室は慶(ちか)こと慈雲院(じうんいん)側室は摂取院光秀です。

豊臣秀長が慶(ちか)こと慈雲院と結婚した年は1566(永禄9)年ごろ、摂取院光秀と結婚したのは1587(天正15)年ごろと推定されます。

豊臣秀長の子供

慶(ちか)こと慈雲院との子供

豊臣秀長と慶(ちか)こと慈雲院との子供は4人(三男一女)です。木下与一郎(実子)、岩(養子)、藤堂高吉(養子)、羽柴秀保(養子)。このうち羽柴秀保とは、秀長の姉・ともこと瑞竜院の三男です。

摂取院光秀との子供

豊臣秀長と摂取院光秀のとの子供は1人です。性別は女子であることが分かっていますが、名前は俗名も法号も不明です。

相手の女性が不明の子供

豊臣秀長には、慶(ちか)こと慈雲院と摂取院光秀の間以外にも別の子供(女子)がいたと考えられます。名前はきく(実子)で、母親の名前は分かりません。

羽柴秀吉とその一族」では慈雲院はきくと養子縁組をしたと説明しています。

豊臣秀長は何をした人か?

豊臣秀長は後年「大和大納言」と呼ばれたように、大和・紀伊の2カ国と伊賀・和泉のそれぞれ一部を領有した豊臣一門の筆頭大名です。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では尾張国中村(現在の名古屋市中村区)の百姓として小一郎と呼ばれていた時代に、兄の藤吉郎に強引に巻き込まれる形で武士となり、織田家に仕官することになります。

あさひ(南明院殿)はどんな人だったのか?

あさひの生まれた年

あさひこと南明院殿が生まれた年は1543(天文12)年で、兄・秀長から見ると3才年下の妹になります。

あさひの結婚と結婚相手

あさひは豊臣秀吉に命令によって、正室を失った徳川家康と1586(天正14)年、43才の時に政略結婚をしたことは有名です。

しかし、「羽柴秀吉とその一族」によると、あさひは1582(天正10)年まで副田甚兵衛尉(そえだじんひょうえのじょう)という秀長の与力と結婚していた可能性が高いとし、そののちに徳川家康と結婚したと説明しています。

あさひの子供

あさひは、副田甚兵衛尉・徳川家康のどちらの夫の間にも子供はいませんでした。

あさひは何をした人か?

従来の通説では豊臣秀吉が徳川家康を懐柔させるために、あさひを徳川家康の正室にする名目で「人質」に送り込んだとされています。

しかし「羽柴秀吉とその一族」によると、最近の研究ではあさひと徳川家康の縁組は、秀吉からではなく家康の方からの願い出たものであるとしています。加えてあさひは家康嫡男・長丸(ちょうまる。のちの徳川幕府二代将軍・徳川秀忠)と養子縁組した可能性もあると指摘しています。

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