史料で見る豊臣秀長とお金にまつわる逸話
「ケチ」「守銭奴」と言われる豊臣秀長について
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は、仲野太賀さん扮する「小一郎」こと豊臣秀長(1540~1591年)です。
この豊臣秀長にはお金にまつわるエピソードがあります。そこから秀長は「ケチな人」・「お金にうるさい人」・「守銭奴」であったというイメージがついて回っています。
「小一郎」の頃から貯金をしていた豊臣秀長
確かに堺屋太一さんの小説「豊臣秀長 上巻」を読むと、秀長がまだ武士にすらなっていおらず、百姓の「小一郎」と呼ばれていたころに、農作業の合間に道路や土木工事の普請に出かけては銭を少しずつこっそりと貯めていたという話があります。
しかし苗字も姓もなくただ「小一郎」と呼ばれていたであろう頃の史料はほとんど残っておらず、豊臣秀長が若いころにこっそりと銭を貯めていた話は本当かどうか分かりません。
ただ「豊臣秀長はケチだった」や「豊臣秀長はお金にうるさかった」と思わせる史実は現在まで伝わっています。そこで今回の記事では、豊臣秀長とお金にまつわる3つのエピソードをご紹介します。
なお豊臣秀長の人柄を表したエピソードについては、「豊臣秀長の逸話 6つのエピソードから 大河ドラマ 豊臣兄弟!」の記事を参考にしてください。
豊臣秀長とお金に関わる参考資料
なお豊臣秀長とお金にまつわる今回の記事は以下の資料を参考にしています。
これらのうち「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 」を編著した柴裕之さんは、NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
吉川平助 材木2万本流用事件
「山奉行」「材木奉行」の吉川平助
豊臣秀長の家臣の1人に、紀伊国雑賀城城主の吉川平助という人物がいました。豊臣秀長の紀伊統治において一揆鎮圧などで活躍します。
吉川平助が居城とした雑賀城がある、紀伊湊の地域は紀伊国中から材木が集まる集積地で、吉川平助は「山奉行」や「木材奉行」として材木の調達・管理を担っていました。
吉川平助が熊野の材木で不正な利益を得る
ところが「多聞院日記」の1588(天正16)年12月7日の記述によると、吉川平助は熊野地方の材木2万本を大坂で売って、過剰な利益を得ていたことが発覚します。
吉川平助による「材木流用事件」は豊臣秀吉の耳にも入り、秀吉は大和国の西大寺で平助を処刑。その首は京でさらされることになります。
このときの秀吉の怒りはかなりのものでした。翌1589(天正17)年1月には豊臣秀長は謝罪をするために大坂城を訪れますが、謝罪どころか秀吉に会うことすらできなかったと言われています。
このときの秀吉は単に秀長の監督不行届けを責めただけではなく、不当に得た利益を秀長が得たのではないかという疑いもあったのではないでしょうか。
紀州の材木の処分権を有した豊臣秀長
ただ吉川平助に熊野地方の材木2万本の販売を命じたのは、秀長ではなく秀吉の命令です。一方でこの当時、紀伊国で伐採した材木の処分権は秀長が有していました(「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」379ページ)。
処刑された吉川平助が残した金子は700枚にも及んだと伝わっています。その平助の主人で、紀州全体における材木の処分権を有する豊臣秀長には、莫大な蓄財があったとイメージされてしまったのかもしれません。
井上源五 金子500枚強制貸付
奈良代官の井上源吾による強制的な貸付
豊臣秀長の家臣の1人に井上源五(井上源吾)という人物がいました。井上源五は和泉国のうち南郡(現在の大阪府岸和田市・貝塚市の一部)と日根郡(現在の大阪府貝塚市の一部・泉佐野市・泉南市・阪南市など)の代官を任され、のちに奈良の代官に転じます。
井上源五は奈良の代官をしていたとき、奈良の町人に対して強制的に金子500枚の貸付を行いました。「強制」という言葉の響きから、奈良の町方は貸し付けられた金子の元本と利子の返済に難儀をしたと想像できます。
豊臣秀長の本音は奈良の寺社勢力を削減すること
もっとも当時の奈良は門前市であり、寺社勢力の強かった地域です。豊臣秀長は大和郡山城を居城としたことから、城下町としての郡山を反映させるような商工業政策を推進していました。
郡山では、奈良とは逆に家臣の横浜良慶を通して町方に対して税を免除するなど商工業者に対する優遇政策を採用しています。
また兄・豊臣秀吉の天下統一事業を補佐する秀長として、中世的権威を振るって領主に反抗する寺社の経済力を削ぐことは、豊臣政権を強化する上での喫緊の課題です。そのため豊臣秀長は門前市の奈良に対して冷淡な態度で臨んでいたと考えられます。
ただ「金子500枚の強制貸付」は言葉として強烈で、「豊臣秀長は金にうるさい」というイメージを世間に植え付けてしまったのかもしれません。
秀長死後に発覚した5万6,000枚の金子
銀に関しては数えるのも困難なほど蓄えられていた
豊臣秀長とお金にまつわる最も強烈なエピソードは、秀長の死後に発覚した莫大な金銀のことでしょう。
豊臣秀長は1591(天正19)年、病気のために大和郡山城で亡くなります。このとき城内には金と銀がうなるほど蓄えられていたと現在にまで伝わっています。
(豊臣秀長が亡くなった直後の)当時郡山城中には金子五万六千枚余、銀子は二間四方の部屋に棟までギッチリ積み上げられていたということから、その財力ははかりしれないほど厖大なものであった。
金銀の部屋は封印されてしまった
銀に関しては数えることすら難しいほどであったため、秀吉が秀長の養子である秀保に跡目を継ぐことを許す旨の朱印状を渡しに来た使者の長谷川藤五郎は、金銀が蓄えられた城内の部屋を封印して帰ったと言われています。
秀長の死後のエピソードは、「豊臣秀長は蓄財家だった」とも言えますが、やはり一面では「豊臣秀長はケチだった」と世間に言われるネタを作ってしまったのかもしれませんね。
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