豊臣秀長の家臣は誰?
豊臣秀長の家臣について
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は、仲野太賀さん扮する「小一郎」こと豊臣秀長(1540~1591年)です。「豊臣秀長の家臣」と聞いて思い浮かぶ人物は誰でしょうか?
蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)でしょうか、それとも前野長康(まえのながやす)でしょうか?いえいえ、彼らは秀長の兄・秀吉の家臣ですね。蜂須賀正勝や前野長康は、「秀長の同僚」であっても、「秀長の家臣」とは言い難い存在です。
秀吉が蜂須賀正勝や前野長康を家臣として召し抱えた頃の秀長には、「名のある家来」はいなかったでしょう。
小堀新介・藤堂高虎など 領地の拡大とともに増えた秀長の家臣たち
豊臣秀長は1550年代後半から1560年代前半にかけて織田家に仕官し、兄・秀吉の「第一の家来」と考えられています。
そんな秀長が出世して、秀長の家臣たちが歴史に登場し始めるのは1570年代の半ばごろです。ちょうど秀長は但馬国の竹田城の城代として朝来郡と養父郡の支配を始める時期でした。
この頃から後世にも名が伝わる小堀新介・藤堂高虎といった名前の家臣たちが歴史の表舞台に登場します。1570年代の後半以降、秀長は秀吉から年を追うごとに大きな国の統治を任されてるようになり、さらに桑山重晴・横浜良慶・羽田正親といったと家臣たちも活躍し出します。
今回の記事ではそんな豊臣秀長の家臣たちを一挙に19人紹介しましょう。
豊臣秀長の領地と居城に関する参考文献
なお「豊臣秀長の家臣」に関する記事を書くにあたって、以下の文献を参考にしています。
これらのうち「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 」を編著した柴裕之さんは、NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
豊臣秀長の19名の家臣たち
1. 小堀新介(こぼりしんすけ)
小堀新介または小堀正次(1540~1604年)。小堀新介は元は北近江を支配する浅井長政の家臣でしたが、1573(天正2)年に浅井氏が滅亡した後、秀長に仕えるようになります。
史料では秀長から小堀新介を通じて寺社に対する所領の安堵状が発行されたり、和泉・紀伊・大和 3カ国の郡代を務めたりいたことが明らかになっています。これらから小堀正次は秀長から行政の手腕を買われていた見られています。
ちなみに小堀正次は安土桃山時代から江戸時代前半にかけて活躍した茶人の小堀遠州(政一)の父。
2. 藤堂高虎(とうどうたかとら)
藤堂高虎または藤堂和泉守高虎(1556〜1630年)。のちの伊勢津藩・初代藩主。
藤堂高虎の幼名は与吉で、体格が非常に大きかったと言われています。元は浅井氏の家臣でしたが、浅井氏の滅亡後に秀吉・秀長の兄弟に仕えるようになります。
秀長の領国が拡大する陰には藤堂高虎の働きがあり、小代谷一揆(但馬国)や北山一揆(紀伊国)の鎮圧、和歌山城の築城などで活躍。秀長からは粉河(現在の和歌山県紀の川市)で5,000石の知行を受けていました。
一時期は秀長の息子である千丸(仙丸。藤堂高吉のこと)を藤堂家の嫡男として養子に迎えていたことも。
3. 横浜良慶(よこはまりょうけい)
横浜良慶または一庵法印・一晏法印(いちあんほういん)(1550〜1595年)。
九州征伐のために領国を留守にしていた秀長に代わって大和国の内政を担当。「一晏法印」の名前で郡山の町方に対して地租を免除するという書状が現代に伝わっています(「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 」277ページ)。
秀長の家臣たちの中で最も高禄である5万石を与えられていたと言われ、1591(天正19)年1月に秀長が病気のため亡くなったときは、豊臣秀吉からの命令によって秀長の養子・秀保の後見人として政務を補佐することになります。
4. 横浜民部少輔(よこはまみんぶしょうゆう)
横浜民部少輔は横浜良慶の息子。関ヶ原の戦いのときには西軍に味方したため所領は没収されます。しかし民部少輔の息子である横浜内記正幸が、藤堂高虎の伊勢津藩に500石で召しかかえられます。
5. 桑山重晴(くわやましげはる)
桑山重晴または桑山修理亮、桑山修理太夫(1524~1606年)。
1582(天正10)年ごろ、秀長の家臣となり、但馬国の竹田城城主として1万石を知行を受けます。さらに紀伊国で3万石に加増され、和歌山城代として紀伊国の内政を担当。
後年、関ヶ原の戦いの時には東軍に味方して和歌山城を守備。その功績が認められ大和新庄藩の基礎を築きます。
6. 桑山貞晴(くわやまさだはる)
桑山貞晴(1560〜1632年)。桑山重晴の三男。豊臣秀長の家来として大和国で2,500石の知行を受けていました。関ヶ原の戦いの時には父・桑山重晴とともに東軍に味方し、新宮城の堀内氏善を攻撃します。
7. 木下助兵衛(きのしたすけのひょうえ)
豊臣秀長が出石城から姫路城に居城を移した、1583(天正11)年に但馬国城崎郡(現在の兵庫県城崎町)にある豊岡城の城主となります。
8. 青木一矩(あおきかずのり)
青木一矩または青木重吉(?~1600年)。豊臣秀長の従兄弟。豊臣秀長が出石城から姫路城に居城を移した1583(天正11)年に、出石城の城主となります。
1583(天正13)年の紀州征伐の後には、紀伊入山城主に転じます
9. 上坂意信(こうさかおきのぶ)
上坂意信は近江国出身で1577(天正5)年から1580(天正8)年ごろに、豊臣秀長の家臣となったと考えられています。
豊臣秀長が出石城から姫路城に居城を移した1583(天正11)年に、交通・経済の要衝である丹波福知山に代官として派遣されていたことから、上坂意信は秀長から石田三成や増田長盛のような行政の手腕を期待されていたと考えられています(「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」131ページ)
10. 羽田正親(はねだまさちか)
羽田正親または羽田長門守正親あるいは羽田忠兵衛(?~1595年)。大和国添下郡の小泉城城主として4万8,000石の知行をうけていました。桑山重晴・小山下野と並んで豊臣秀長の家中では「三家老」の1人。
1585(天正13)年に豊臣秀長が紀伊国の和歌山城を居城とした際に、羽田正親は和泉国のうち上二郡の大鳥郡(現在の大阪府堺市・髙石市の一部)と和泉郡(現在の大阪府和泉市・岸和田市・泉大津市・忠岡町)の代官に任命されます。
さらに羽田正親は豊臣秀長家中の材木奉行として紀伊国における材木管理に深い関わりがあり、大和国の寺社や、京で屋敷を構える徳川家康のために木材を供給していました。
秀長・秀保が相次いで亡くなった後は、豊臣秀次(秀長の姉・「とも」こと瑞竜院殿の長男)に仕官。しかし豊臣秀次が豊臣秀吉に切腹を命じられたことから、羽田正親は殉死による最期を遂げることに。
11. 福知長通(ふくちながみち)
福知長通または福智長通(?~?)。福知長通は1587(天正17)年に豊臣秀長の主導で行われた九州国分において、豊前国の検地を担当。
さらに日向国にも派遣されて、豊臣家の蔵入地(直轄地)を管理する代官にも任命されています。
12. 疋田九兵衛尉(ひきたきゅうべえのじょう)
疋田九兵衛尉(?~?)は1587(天正17)年に豊臣秀長の主導で行われた九州国分において、豊前国と豊後国の検地を担当。
13. 小川下野(おがわしもつけ)
小川下野(?~?)は桑山重晴・羽田正親と並んで、豊臣秀長家中の「三家老」の1人。
14. 井上源五(いのうえげんご)
井上源五または井上源吾あるいは中坊源吾(?~?)。1585(天正13)年に豊臣秀長が紀伊国の和歌山城を居城とした際に、井上源吾は和泉国のうち下二郡の南郡(現在の大阪府岸和田市・貝塚市の一部)と日根郡(現在の大阪府貝塚市の一部・泉佐野市・泉南市・阪南市など)の代官に任命されます。
後年、井上源五は奈良の代官にも任命され、奈良の町人に対して金500枚の強制貸付を行っています。
15. 杉若無心(すぎわかむしん)
杉若無心または杉若越後守無心(?~?)。1586(天正14)年、杉若無心は紀伊国統治のために、田辺城に配置されます。関ヶ原の戦いのときには西軍に味方したため所領は没収されます。
16. 堀内氏善(ほりうちうじよし)
堀内氏善は1586(天正14)年、堀内氏善は紀伊国統治のために、新宮城に配置されます。関ヶ原の戦いの時には西軍に味方したため、東軍についた和歌山城の桑山重晴・貞晴親子から攻撃されます。
17. 吉川平介(よしかわへいすけ)
吉川平介もしくは吉河平助(?~1589年)。もともとは織田信長の下で伊勢国の大湊で船奉行をしていました。
1583(天正11)年の紀州征伐の後、豊臣秀長の家臣として召し抱えられ7,000石の知行を与えられて雑賀城の城主に。雑賀城がある紀伊湊は紀伊国の木材が集散する地域であり、吉川平介は「山奉行」として材木の調達・管理の任にあたっていました。
しかし1588(天正16)年に熊野地方で伐採した材木の不正流用が発覚し、豊臣秀吉の命で処刑されます。
18. 多賀秀種(たがひでたね)
多賀秀種または多賀出雲守秀種(1565~1616年)。大和国宇陀松山城主。もともと、多賀秀種は堀秀政の弟であり、近江国の多賀貞能の娘と結婚したのち「多賀」の苗字を名乗り、豊臣秀長に仕えるようになります。
1588(天正16)年に「従五位下出雲守」に任官。1592(天正20)年には亡き秀長の跡を継いだ秀保にしたがって朝鮮に出兵(慶長の役)。
19. 池田秀雄(いけだひでかつ)
池田秀雄または池田伊予守秀雄。1592(天正20)年には亡き秀長の跡を継いだ秀保にしたがって朝鮮に出兵(慶長の役)。
20. 秋篠伝左衛門尉(あきしのでんざえもんのじょう)
秋篠伝左衛門尉(?~?)。豊臣秀長の別妻(側室)である摂取院光秀の父。
秋篠伝左衛門尉は、もともと大和国を治めたことがある筒井順慶の家臣でしたが、豊臣秀長が大和郡山の城主になったころには、横浜良慶や小堀新介たちと行動を共にしていました。